
若い頃 戦前?のカラヤン、『戦争交響楽』 、『奇跡の人 カラヤン』、ヒトラー。
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カラヤン伝記本は数多いですが、本人は自伝を書きませんでした。 あれほど有名な人ですから、恐らく 多くの出版社が口説いていたと想像しますが、”口述筆記” もしませんでした __ 本人が喋って、ライターが書き写すという簡便な方法です。
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最近 日本人が書いた 戦時中のドイツや米音楽界、特にフルヴェン・ワルター・トスカニーニ・カラヤンなど指揮者たちの残された活動・言動資料から時系列で並べて、読み物風にまとめたものを読んで “ある想像” ができました。 これは想像ですから、断定しているわけではありません。 あくまで想像です。
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『戦争交響楽』 中川右介著 朝日新書 2016年刊
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それは、以下の記述から読み取れるものです __
「4月7日 ドイツで『官吏法』が公布され、ユダヤ人を公職から追放できることになった。 4月5日 カラヤンは25歳になった。 そして3日後の8日 カラヤンはザルツブルクでオーストリアのナチスに入党したのである」(47p)
「ウルム歌劇場には カラヤン以外にシュールマンというユダヤ系の指揮者がいたが、官吏法公布後に解雇され …。 カラヤンが入党したのは、楽団員たちから反感を買い、ウルムでの地位が怪しくなっていたので、その危機感からだったのは間違いないだろう」(48p)
__ カラヤン25歳、1933年の事です。 1933年のドイツの政治情勢は、1月に ヒトラー内閣が発足、3月 全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた年で、ナチスの勢いが急拡大していた時期です。
まだ人生経験が多いといえない青年指揮者にとっては、ナチス入党が身の安全や、地位保全を図る方法と考えるしかなかったのでしょう。
「政権獲得から3ヶ月でナチスには 150万人以上の新規参入者が出た。 これは党員メリットが少なくなる事を意味し、獲得前からの党員は不満を抱き、ヒトラーは5月1日をもって 新規入党を禁止した。 その5月1日 カラヤンは職場のあるウルムで またもナチスに入党した。
カラヤンは4月にザルツブルクで入党したはずだが、再び入党した事になる。 その理由として 当時は入党希望者が殺到しており、党員として認められているかどうか不確かだったからではないかと推察されているが、確かな事はわからない。
カラヤンは自分がナチ党員であった事は認めている。 入党の時期と経緯については、『1935年にアーヘンで音楽総監督になる時に 党員である事が条件だったから』(※) というのが彼のいい分だ。
しかし ナチス入党禁止期間は、1933~37年なので、入党するのは不可能なのだ。 忘れているのか、故意に間違った事をいっているのか、分からない」(62~63p)
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「1935年にアーヘンで音楽監督になるために、カラヤンはナチスへの入党を求められ、彼は入党した。 カラヤンの決意は、まったく便宜的な理由でなされたものである。『あのポストを得るためには、私はどんな犯罪でもやってのけたでしょう』(ニューヨーカー誌 1967年)」(ポール・ロビンソン著『奇跡の人 カラヤン』1977年刊 音楽之友社 23p)
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__ 自伝を書くとなると、ナチス入党の経緯を避けられず、何らかの事情を書かなくてはなりません。 ※) と主張するのと、1933~37年入党禁止期間との矛盾をどう説明するのか、今となっては 本人も当時の関係者もいなくなっていますから、確認のしようがありません。
一方で 関係者が存命していたとして、そんな大指揮者の “過去の傷” を根掘り葉掘り訊いたところで、本当の事をいっても 誰も喜びません。 誰でも返答を避けたと想像します。 つまり ※) の主張は “本当ではなかった” と推測できます。 これが私の想像です。
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『戦争交響楽』には ナチス離党についても載っています。 初めて知りました __
「カラヤンは1938年にオペレッタ歌手のエルミーと結婚していたが、ベルリンとアーヘンを往復するようになると すれ違いの生活になり、夫婦関係は冷えてしまった。
そんな時に (1942年) 裕福な事業家の娘で、映画・音楽界に顔が広いアニータと出会った。 彼女の祖父母の1人がユダヤ人で、ナチスがこの結婚を許可するかどうか分からなかった。
情報局がカラヤンの調査を開始し、カラヤンは呼び出され、聴聞会が開かれた。 彼が語るには、その席でナチスからの離党を宣言した。 調査は打ち切られ、アニータとの結婚は黙認されたが、カラヤンの党籍も残った」(320~321p)
__ カラヤンがナチスから離党しようがしまいが、それが入党を清算する事とはなっていません。 入党していた事のみが戦後 長い間 特に米国で問題視されていました。 戦後2年余りは公開での指揮は禁じられていました (が、レコード録音はできました。 これが彼の人生遊泳術の優れたところですね)。
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もし カラヤンが入党していなかったら … と仮定すると、ウルムで1933年 解雇され、すぐに次の職が見つかったかどうか? 見つからなかったら、最悪 次の (アーヘンのような) 飛躍に繋がらなかったかも知れません。
飛躍がなければ評判も立たず、首都ベルリンでの指揮にも呼ばれず、地方の一介の名も知られぬ その他大勢の指揮者の1人で終わったかも __ でも そうした指揮者の方がうんと多いはずです。 アマオケ・コンサートの指揮者の経歴を見ると解ります。
厳しいですね、指揮者の世界も。 でも そうやって “何らかの機会を掴んで実績を示さないと”、誰も注目してくれません。 そして 指揮以外の分野ではタダの人で、全く欠点がなく、スネに傷がない人もいないでしょう。
私も過去のたわいもない事や バツが悪かった事などを思い出して、恥ずかしさで 今でもなお 冷や汗を覚える事があります。 まぁ それが普通の人ではないでしょうか。
でも 注目を浴びる演奏家・指揮者などは身綺麗でいて欲しい、これも “ファン心理” ですね。 ですから 私はスター演奏家の演奏以外の “日常的な事や、家事、瑣末な事” にはなるべく目を向けないようにしています。
今日はここまでです。