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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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マーラー指揮者インバルに再び注目が

2014年10月31日 | マーラーの嘆き節
マーラーの交響曲第10番の演奏を終えて拍手に応える指揮者のエリアフ・インバルと東京都交響楽団 (7月21日 サントリーホール)
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インバルと都響による新しいマーラー全集録音が着々と進んでいる。 インバルという指揮者は、日本コロムビアが1980年代にリリースしたマーラー全集録音でよく名前が知られている。 古くはワルターとか、バーンスタイン、ショルティといったマーラーと同じユダヤ系の指揮者が演奏録音して、マーラーの曲を広めるのに貢献してきた。

しかし 1970年頃までは、交響曲1番「巨人」とか、番号なしの交響曲「大地の歌」などが演奏録音されることはあっても、他の番号の交響曲はあまり演奏会でもレコードでも取り上げられなかった。 つまり どちらかというとマイナーな作曲家と見られていた。

ところが 70年代初めのイタリア映画「ヴェニスに死す」で5番からアダージェットが効果的に使われてから、まずこの5番が知られるようになり、ついには他の番号の交響曲も盛んに取り上げられるようになった、という経緯がある。 大指揮者カラヤンも73年に初めて5番を録音したくらいで、彼の関心もやっとマーラーに向いたことを示している。
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「インバル指揮、都響 “マーラー交響曲第10番” 最高傑作を印象づけた歌心ある名演」(7月31日 池上 輝彦/編集委員/日経) __ ※追加1へ

ウィキペディアから__『ヴェニスに死す』(Der Tod in Venedig)は、ドイツの作家トーマス・マンの中編小説で1912年発表。 1971年に製作・公開されたイタリア・フランス合作の映画『ヴェニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ監督) は、第24回カンヌ国際映画祭で25周年記念賞を受賞した 同名小説の映画化。 マーラーの交響曲第5番の第4楽章 “アダージェット” は、もともとは作曲者が当時恋愛関係にあったアルマにあてた、音楽によるラブレターであり、この映画の感情的表現において、ほぼ主役ともいえる役割を果たした。

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私は、最初のインバル指揮フランクフルト放送交響楽団によるマーラー全集を最近 入手して少しずつ聴いている。 これは、マーラー全集録音についてコメントする際には 外せないアイテム品だ。 何が特徴的かというと、日本のレコード会社が企画制作した好演奏・好録音で、世界的にも好セールスを記録した 珍しい全集だからだ。

というのも、好セールスを記録した世界的な好演奏・好録音というと、真っ先に出てくるのは、1) カラヤン・ベルリン・フィルによる「ベートーヴェン交響曲全集」(独 DG)、2) ショルティ・ウィーン・フィルによる「ニーベルングの指輪」(英 DECCA) の2つで、それ以外も色々あるのだろうが、欧州のレコード会社が企画制作したものばかり、というのが普通だからです。

そこに 欧州の作曲家マーラーとはいえ、東洋の端っこにある日本のマイナーなレコード会社が企画制作したものが注目されるなんて、レコード史上 初めてのことだったのです。 録音年代をよく見ると、1~9番が85~86年 (大地と10番が88~92年で後に追加リリース) という、まさに日本経済がいっとき輝いた80年代後半にも当たっています。

この時期は日本の多くの大企業が世界の最先端を走っており、名だたる欧米名門企業を抜きさって、一躍トップランナーに躍り出た観があったものです。 そういう状況の中で 日本のレコード会社から出たマーラー全集が新鮮で世界的にも注目された、そんな情景だったのでしょう。 逆に90年代以降 “日本の失われた20年” に突入すると、日本への関心は尻すぼみとなってしまうのですが …
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日本コロムビアがなぜインバルとフランクフルト放送響 () に眼を付けたかというと、それらの経緯は、過去のブログでも紹介した通り、日本コロムビアの川口プロデューサーが FM 放送で流されているによるマーラーのライブ録音シリーズを聴いて録音したいと考え、インバルに話しを持ち込み、インバルは放送響を擁する放送局に話し、再度の定期演奏会に合わせて日本コロムビアが練習を録音セッションにしてしまうという効率的な録音で、9曲を2年もかけずに録音してしまったというものだ。
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30年経った今 聴いても音は新鮮で、稀な好録音だったことが分かる。 もっとも 私が入手したのはリマスター盤だから、30年前に使った CD のマスター音源とは違うのだろう。 何をどう変えたかは分からないが、改善したことだけは想像できる。 ただ 最もダイナミックな音がするはずの3番冒頭後の管弦楽が少し混濁して聴こえたのは、ちょっと “玉にきず” だった。
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4ヶ月前にも同様の記事「インバルが導く “マーラーの都響” 交響曲全集の完成間近」(3月31日 日経) を書いた池上 輝彦氏は、全集完成への期待を述べると共に、こうも書いている __『都響の実力は世界レベルだ』(インバル) や、「都響は早くからマーラーに取り組み、91年に若杉弘指揮で日本初の全集を完成、ベルティーニ指揮でも全曲演奏した」ことから、都響はマーラー演奏には経験が深いようだ。

そして、「世界的な知名度が高くない楽団が、ベルリン・フィルのような権威ある古豪に対抗するためには、”飛び抜けて得意な作曲家を持つこと” が大きな武器になる」として、今回の連続演奏で “マーラーの都響” も確立しそうだ」と結んでいる。

この新全集も期待できそうだ。 マーラー指揮者インバルに “二度目の華” が咲くだろうか? そして都響にとっても、”最初の華” となるだろうか?

若杉弘指揮の全集があるのは知っていたが、ジャケットデザインがすこぶる悪く、期待させるものではなかった記憶がある __ デザインは “ぶどう一房のイラスト” が描かれているだけの単純なもの。 これでは多くのクラシックファン、マーラーファンが触手を伸ばすとは到底思えなかった。 “CD 会社のジャケットデザイン企画が悪い” 典型例だった。

以上


※追加1_ 東京都交響楽団を指揮し、グスタフ・マーラー (1860~1911) の全交響曲演奏会に取り組んできたエリアフ・インバル (78) が、7月21日 マーラーの未完の遺作「交響曲第10番」(デリック・クック補筆全曲版) をサントリーホール (東京・港) で演奏した。 現代最高のマーラー指揮者にして、クックと親交のあったインバルにとっては特別の作品。今年屈指の名演となった。

インバルと都響が2012年から続けてきた「新マーラー・ツィクルス」(インバルによる第2次マーラー全交響曲シリーズ) は3月の「交響曲第9番」の公演で終了した。 だが 未完の「第10番」がまだ残っている。 これを英国の音楽学者デリック・クック (1919~76年) による完成版で全曲演奏しようというのが今回の「番外編」である。

めったに演奏されない第10交響曲の全曲版を聴こうという人は、筋金入りのマーラーファンだけに違いない。 にもかかわらず 会場は満席という盛況ぶり。 都響の楽団員が舞台に勢ぞろいしてインバルが登場するまでしばらく間があった。 普通は雑談が聞こえるのだが、この日は物音一つしない。 誰もがマーラーという偉大な芸術家の「使徒」として、彼が未完の第10番で伝えたかったことを1音残らず聴き取ろうと待ち構えているかのようだ。

全5楽章のうち第1楽章アダージョが始まった。 この第1楽章だけはマーラー自身が全部書き上げている。 従来はこれだけ取り出して演奏する場合が多かった。 しかし実際には「マーラーは全5楽章すべての小節を書いている」とインバルはいう。 オーケストレーションは未完だが、誤解を恐れずにいえば、全曲通しで最低でもメロディーラインだけは書き切った。 ならばこれを完成させてオーケストラで演奏できるようにし、世に広めていくのが「使徒」の務めだろう。

手元に第10番の楽譜がある。 1989年に英国の音楽出版社フェイバー社が刊行した「第3稿第2版」と呼ばれる全曲版だ。 クックの死後、さらに指揮者のベルトルト・ゴルトシュミットと作曲家のマシューズ兄弟が手を入れたもので、現在では決定版となっている。 これを見ると、第3楽章の途中から最後の第5楽章まで、各ページの下部に平均4段の五線譜が載り続ける。 マーラー自身による草稿であり、オーケストレーションが未完に終わった部分だ。 草稿は第3楽章後半の途中26小節分だけが全くの空欄になっている。 4分間程度と短い第3楽章全体の約 15% にすぎないが、インバルの話とは食い違う。 だが 空欄部分は冒頭の旋律の繰り返し箇所に当たり、曲の流れから想像がつく。 よってインバルがいう通り、マーラーはほぼ全部の小節を書いたといえる。

それでも今回、インバルはクックの死後に改訂された「第3稿第2版」について「納得できない点がある」として、クック生前の「第3稿第1版」に戻して演奏した箇所があるという。 何しろ インバルは60年代にクック立ち会いのもと、英 BBC 交響楽団を指揮して第10番の全曲版を演奏した経験を持つ。 インバルは独フランクフルト放送交響楽団の常任指揮者時代 (74~90年) からブルックナーの交響曲の第1稿を使って、原典に忠実に音楽を再現する指揮者との印象を持たれた面もある。 だが今回は違う。 誤解は払拭されよう。 公演数日前にインバルは異例の講習会を開くほどの熱の入れようで、第10番を巡る自らの解釈を披露。 妻アルマへのマーラーの愛について語るなど、情感たっぷりに歌わせる音楽になりそうな予感がした。

まさに第1楽章の冒頭からビオラが切実に語りかける。「第10番はマーラーがアルマに愛を宣言する曲でもある」とインバルはいう。 出だしのビオラの旋律は、晩年のマーラーが建築家グロピウスの手紙によってアルマの不倫に気付き、「これは一体何なのかと自問している」場面なのだという。 それに続く弦楽合奏のロマンチック極まりない美しいメロディーは、「愛とは何と不可解なものか」という「愛の表現」だという。 その後に来る薄気味悪い旋律が「悪魔」との解釈だが、グロピウスのことか。

でも インバルの具体的な説明はもう要らない気がした。 彼の指揮による音楽が感情の起伏を十分に表している。 具体的な物語は音楽を卑小にする。 物語がなくても音響が聴き手に直接迫ってくる。 コンサートマスター四方恭子がリードする都響の弦楽合奏の歌い上げ方は、かつてないほどテンションの高いものだ。 3月に聴いたインバル指揮の都響のマーラー「交響曲第9番」でも第4楽章の緩やかなアダージョの弦楽合奏が秀逸だったが、それをしのぐ感動のアダージョだ。 マーラー演奏の長い伝統を持つ都響にとっても、今回は総決算のつもりなのだろう。

第1楽章の後半で異様な不協和音の塊が鳴り響く。「11音を使っている」とインバル。 シェーンベルクが世界を不協和音の渦へと巻き込む「12音技法」をまだ始めていない時代だ。 一般には9音を使っているといわれる箇所だが、「いかに前衛的な音楽だったか」と話す。 不快この上ない悲痛の叫びであるのは確かだ。 全音を同時発生させる「トーンクラスター」の先駆けともいえるこの不協和音は、第5楽章でも立体的な響きとなって登場する。

第2楽章「スケルツォ」もマーラーの性格が全開の音楽だ。 繰り返しが多いスケルツォ楽章は機械的に聞こえがちだが、この曲は「次々と拍子が変わる」(インバル) だけに、ぎこちなくも滑稽で牧歌的な舞踊といった雰囲気を出す。 交響曲第4番や第5番のスケルツォ楽章を思い起こさせる響きが随所に登場する。

第3楽章は「煉獄 (れんごく … キリスト教、カトリック教会の教義で、天国には行けないが、地獄に墜ちるほどでもなかった死者が清めを受ける場所)」を意味する「プルガトリオ」。 4分間の短い楽章の中でやはり交響曲第3番のような楽想が聞こえたりする。 5つの楽章で形成するシンメトリー構造の中心を担いながらも、間奏曲風にあっけなく終わった。

続く第4楽章「スケルツォ」の冒頭が最も注意して聴くべき箇所だ。 インバルが今回の「第3稿第2版」について例の「納得できない点」をどう変えるかが分かるからだ。 果たして小太鼓が激しく連打され、シロフォン (木琴) が悲劇的な旋律をなぞってちゃんと鳴った。 これこそがクックの死後、「第3稿第2版」で省かれた部分だったのだ。 インバルはこの冒頭部分をクック生前の「第3稿第1版」の楽譜に戻した。 それによって第4、5楽章の劇的な展開が一段と強まるはずだ。 彼は単に楽譜通りに棒を振るだけの並の指揮者ではないのだ。 同じユダヤ人のマーラーを「私にとって突出した偉大な作曲家」と断言するほどの愛情があってこそ、確信を持ってその遺志を断行できる。

第4楽章では諧謔 (かいぎゃく … ユーモア) を帯びた曲調の中からあまりに悲しい短調の和音が弦楽によって立ち現れる。 いよいよ大詰めが近づく。 第5楽章は「直径80センチ以上」と指示された大太鼓の唐突な一撃によって始まる。 マーラー夫妻がニューヨークのホテルに滞在中、セントラルパークで行われた消防士の葬儀の衝撃音を表しているといわれる。「自分の死を考えたのではないか」とインバル。 心臓発作のように予期できないタイミングで大太鼓の一撃が断続的に鳴る。

例の不協和音の塊が第1楽章よりも強烈に鳴った後、弦楽合奏による慰めと安らぎに満ちた緩やかな旋律がいつ果てるともなく歌い上げられる。 この美しさは、涙なしには聴けないものである。

舞台がバラ色に変わった気がした。 楽団員が全員去った後にも続く拍手。 インバルだけがさらに2度、舞台に出てきて満場の拍手に応える。 言葉は聞きたくない。 インバルはこれからどうするのだろう。 交響曲第10番はマーラーの最高傑作だったのだ。

以上

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