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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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ベルゴンツィもカラヤンとけんか別れ?

2017年01月21日 | 音楽関係の本を読んで
上左から道化師、アイーダ、ベルゴンツィ、トスカ。 下左からリゴレット、ベルゴンツィ、蝶々夫人、ドン・カルロ。 どれもベルゴンツィの参加した録音。
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歌手たちのエピソード話しをあちこち読むと、マエストロ カラヤンと衝突した話しが幾つか出てきます。 今回は1950〜60年代に活躍したイタリアの名テノール カルロ・ベルゴンツィ。
 
ちょっと無骨なイタリア農民風の容貌かと想像していたら、やっぱり農家の出身でした。
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『音楽家が語る51の物語<1>』(レンツォ・アッレーグリ 星雲社 2011年4月発行)
 ウィキペディアから __ カルロ・ベルゴンツィ (1924〜2014) は、イタリアのテノール歌手 (※追加1へ)。
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本からマエストロとけんか別れしたクダリは __「カラヤンは私を高く評価してくれ、8年間いい関係にあったんですけどね、突然 壊れてしまった。 ベルリンで『イル・トロヴァトーレ』(⁂1) の最終日のことです。 彼の助手が楽屋へやってきて、マエストロが私のスカラ座の『道化師』をやるように決めたというんですよ。 私はそれまで舞台では『道化師』をやってないんで、スカラ座でデビューはいやだった。 だから断った。

助手は驚いて、マエストロがそう決められたんです、ってね。 そこで私はいった、なら直接マエストロと話しましょうと。 彼はやってきた。 そして、カルロ、なぜやるっていわないんだと。 私は、スカラ座でデビューは気が進みませんから。

彼は心配ない、私がちゃんと歌わせるから大丈夫だと。 彼はそうはおっしゃるが、歌うのは私ですから。 すると 彼は、これを引き受けないなら2度と偉大なカラヤンのもとでは歌えないぞといい、ぱたんとドアを閉めて出ていった。

私にブッセート (生まれ故郷) の農夫の血がよみがえった。 農夫はどんな権力にもその乱用は許さない。 私はすぐさまドアを開けマエストロの燕尾服の裾をつかんで彼を部屋へ引き戻した。 そしていったんです。

あなたは大指揮者だ。 これきりあなたと歌えないのは残念ですが、私は自分のことは自分で決めます。 それに私は誰にも鼻先でドアを閉めるようなことは許しません (⁂2)。 彼は出ていき、それきり会うことはなかった。 ザルツブルク音楽祭の契約はまだありましたけどね、もちろんキャンセルされて」__
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ところが 冒頭写真にあるように、ベルゴンツィはカラヤンと一緒に1965年 『道化師』のレコードをスカラ座のチームと一緒に作っています。 ということは、スカラ座で上演せずに録音だけ既に済ませていたということでしょうか?

また カラヤンは68年 スカラ座チームと『道化師』映像版を制作していますが、主人公はジョン・ヴィッカーズに変わっています。

⁂1) を調べると 64年10月にカラヤンはベルリン・ドイツ・オペラで『イル・トロヴァトーレ』を指揮していますから、この時に衝突したようですね。 65年の『道化師』録音と前後しますが、録音というのは何回も取りますから、最終テイクが65年だったのかも。

カラヤンは65年の『道化師』『カヴ』録音は評価が高いようです。 どちらもベルゴンツィが主役で参加しました。 68年『道化師』と70年『カヴ』映像版の評価は今ひとつのようです。 映像版主役はそれぞれヴィッカーズ、チェッケレです。 ベルゴンツィだったら、もっと違った評価になっていたかもしれません。
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なぜカラヤンは (⁂2) のところで謝らなかったのでしょう。 大指揮者としての威厳が邪魔して素直になれなかったのかも知れません。 彼は、ルネ・コロ (T)、リッダーブッシュ (B)、ギャウロフ (B)、ニルソン (S)、ヨーヨーマ (cello) ともうまく付き合えなかったという話しが残っています。

カラヤンにしてみれば、録音がうまくいったのでベルゴンツィをスカラ座での『道化師』でも主役に上演したいと決め、ベルゴンツィも喜ぶのだろうと思ったのでしょうね。 ただ 断られたあと 尊大な態度でベルゴンツィを脅したのはいただけませんね。

彼は ドミンゴに対しても、同じような脅しをしています __ 東京公演をキャンセルしてザルツブルク出演を選べと。

大勢の歌手たちと仕事しますから、中にはウマの合う人、合わない人など色々な性格の人がいます。 それらを束ねて1つの目的 いい演奏を作ることへ向けて知恵を絞るのが指揮者やプロデューサー (企画者) 、ディレクター (現場監督) の仕事の1つだと思います。

カラヤンの場合でも、制作側にプロデューサー、ディレクターもいたのでしょうが、どうしてもカラヤンの意向が強く出て、カラヤンの意志が通ることが多かっただろうことは容易に想像できます。 そこをどう折り合いを付けるか、なかなか難しいことですね。

戦後 指揮を禁じられていたカラヤンを引き上げた英 EMI プロデューサーのウォルター・レッグのいうことには、カラヤンはよく耳を傾けたらしいですが、EMI を離れて DG 専属となった60年以降は そうした歯止めを掛ける人物が不在だったように感じます。

どの世界でもそうですが、大勢の人が自分を賞賛し、いうことの殆どが思い通りになると 自分というものを見失い易いのかもしれません。 その後 他にも 『オランダ人』上演不評とか マイヤー事件とか好評とはいえない件がありましたが、戦後から 亡くなる89年まで40年余りも世界のクラシック音楽界に君臨し続けていたのはさすがですね。

今日はここまでです。


※追加1_ その美声を売り物として、特にヴェルディ作品の演奏を多く手がけたテノール歌手である。

ポレージネ・パルメンセ生まれ。 アリゴ・ボーイト音楽院 (パルマ) を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。 しかし声の変化に気づき、改めて研鑚を積んで51年 パリでアンドレア・シェニエ (ジョルダーノ作曲、タイトル・ロール) を歌い テノールとして再デビューに成功。 評判を高めて53年ミラノ・スカラ座、56年にはアメリカ・メトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューを果たし、スターの地位を確立した。

同世代のフランコ・コレッリ (スピント系の力感ある歌唱で知られたテノール) と共にイタリア・オペラ人気を支えるスターとして、公演、録音で国際的に活躍。 役柄への理解、自己管理等によって上演成功率の高さでも知られ、長く声の艶を保ち、21世紀に至ってもコンサート活動を続けた。

1967年以来 数回来日もし、エドガルド (ドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』)、リッカルド (ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』) やラダメス (ヴェルディ作曲『アイーダ』) 等得意の役柄を歌い、2001年にも来日してリサイタルを開催、80歳近くとは思えぬ喉を披露した。

リッカルド、ドン・カルロ (タイトル・ロール)、ドン・アルヴァーロ (『運命の力』)、マンリーコ (『イル・トロヴァトーレ』)、ラダメス、アルフレード (『ラ・トラヴィアータ』)、マクダフ (『マクベス』) 等、主にヴェルディ作曲の諸役で高い評価を得た。  ヴェルディ作品以外では、カヴァラドッシ (『トスカ』)、ロドルフォ (『ラ・ボエーム』) 等のプッチーニ作品、マウリツィオ (チレア作曲『アドリアーナ・ルクヴルール』)、カニオ (レオンカヴァッロ作曲『道化師』) 等の、いわゆる「ヴェリズモ・オペラ」も歌った。

以上

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