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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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中国の妖婦 西太后 (1) 〜 重なる清の没落期

2021年06月10日 | 歴史をひも解いて
左から晩年の真影と、オランダの画家によって描かれた油絵の西太后。
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中国の三大悪女として、”漢の呂后” “唐の則天武后” と供に名前が挙げられる「清の西太后 (せいたいこう 1835~1908)」は、清朝末期の権力者です。

清朝の歴史を俯瞰 (ふかん) すると 西太后が亡くなるまで権力を握っていた その半世紀は、清の没落期と一致しています。 本来的に統治政治能力のなかった人物が最高権力者・独裁者として君臨していたのが、清にとっての悲劇だったといえますね。

1616年に ヌルハチ (太祖) によって満洲に建国された後金 (こうきん) 国が、1644年に 首都を北京に遷し 清として中国支配を開始します。 国内少数派の満洲人の清が1912年まで中国と蒙古を支配した王朝です。

清の最盛期は、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代の時期です。 統治期間が1661~1722・~1735・~1796年ですから、概ね17世紀中頃~18世紀末という時期ですね。 「中国的な風習」と見なされる “辮髪” は、満洲人の髪型だったのを漢人にも強制したものです。
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また 18世紀後半になると 西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出してきます。 当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入する一方、清に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていました。

1793年 乾隆帝80歳を祝う使節団として 貿易の拡大交渉をするため ジョージ・マカートニーが派遣されますが、 朝貢使節が皇帝に対して行う儀礼である三跪九叩頭の礼 (さんききゅうこうとうのれい 3回跪き9回頭を地に擦りつける) をするよう要求されます。 彼はこれを拒否し、イギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着きますが、「広大な清には何でもあるから、イギリスから買うものは何もない」といわれ、対清輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わります。

そこで イギリスが始めたのが、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを清に輸出することでした。 これが茶・アヘン・綿織物の三角貿易です __ 清 → イギリス (茶)・ イギリス → インド (絹織物)・インド → 清 (アヘン) という構図です。

清にアヘン密貿易を禁止されたイギリスは、清国沿岸に侵攻し、近代兵器を持たない清軍が敗北します (アヘン戦争 1840~42年 下記の左絵)。



左はイギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵 (ウィキから)。 右はジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画 (1887年)。 日本と中国 (清) が互いに釣って捕らえようとしている魚 (朝鮮) をロシアも狙っている。 ちゃんと チョンマゲ、辮髪を描いていますね。
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その少し後の1856年 咸豊帝 (かんぽうてい) の長男を生んだ功績により、昇進したのが 後宮に入っていた西太后です。 当時21歳。 そして1861年 咸豊帝死後の政争でクーデターを発動し権力を掌握しました。

以後 1908年に72歳で亡くなるまでの約半世紀 清朝の権力者が西太后でした。 彼女の死後3年で 清朝は、辛亥革命 (しんがいかくめい 1911~12) によって倒されてしまいます。 

その間にも 1894~95年の日清戦争で日本に敗北します。 李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因でした。

アヘン戦争後 清も軍隊の近代化をしていなかったわけではありませんが、次のような事が挙げられています __「西太后が1885年から始めた頤和園 (いわえん) の再建と拡張に伴う莫大な浪費 (日清戦争の総費用の約3倍)、西太后の大寿 (60歳) を祝う祭典で多額の出費 (日清戦争の総費用の2倍以上) をさせた故に、北洋艦隊・海軍の予算不足により 操練が遅れ、艦船や設備の更新がされなかったことが主要因」(ウィキペディア)

また 中国発のニュースでは __「清の精鋭軍はその内部が “腐敗と無知で満ちていた”。 士官は基本的に軍事教育を受けていない人ばかりで、士官選抜の基準は “弓矢に秀でて勇猛” という昔ながらの基準だった。 北洋艦隊も、最新の装備を持っていたものの、相応する戦術と思考が足りなかった」(1月8日 Searchina)

「大型戦艦は、連合艦隊が8隻だったのに対し、北洋艦隊は2隻しかなかった。 それら以外は小さな戦艦で戦力にならず、”指揮系統” もうまく機能していなかった。 しかも 清国政府内でも主戦派と和睦派に分かれており、一致団結して戦うことができない状況だった」(20年11月3日 Searchina)
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ちなみに 清 (1616~1911) とほぼ同じ時期 鎖国していた日本の江戸・徳川時代 (1603~1868) の末期は、押し寄せる欧米諸国の開国要求・紛争が相次いでいました。 日本が清のように蚕食 (さんしょく) されずに済んだのは __ 中国大陸ほど物産の魅力がなかった・米国が南北戦争 (1861~65) にかかりきりで、日本に進出する余裕がなかった・日本の抵抗力が強かった などの理由かららしいです。

また 私が ”ヌルハチ” で思い出したのは、映画『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』冒頭で、ヌルハチ皇帝の遺灰を巡って上海のナイトクラブで上海の犯罪王とドタバタ劇を演じていたシーンです。

続く。

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