今からちょうど400年前、江戸時代(1611年)に起きた「慶長の大津波」の教訓を「神社」という形で後世に伝えてくれていた先人の知恵がすごい!
http://www.at-douga.com/?p=3031 より
2011年8月29日
津波の浸水域の線上に多くの神社が無傷で残っていたという、何とも不思議な現象が確認されたことを伝えるドキュメンタリー映像を紹介します。
(所要時間:約25分)
ギネス記録に認定された防波堤も、
今回の津波で施設も大金も藻屑と消えた
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/1255213e8c2d4ee0a566975c349176ec
(特集 復興への道 日本再生の針路 から一部転載)
いくつかの例がある。2008年、岩手県釜石湾の入り口に
1200億円以上の総事業費と約30年の歳月を費やして湾口防波堤が
完成し、最大水深63メートルはギネス記録にも認定された。
しかし今回の津波でその大部分は水没し、施設も大金も、
藻屑と消えてしまった。
また、同県宮古市田老地区にある巨大防波堤は高さ10メートル、
全長2.4キロにも及び「田老の万里の長城」と言われてきた。
1933年の昭和三陸津波直後から建設された。
当時の地震学の権威から反対があったにもかかわらず、
時の村長が翌年より着工し、45年の歳月を掛けて完成させた。
しかし、今回の津波は楽々と越え、堤防の内側は完全な荒野と化した。
こうした人口の脆弱さを感ずる一方、自然の頑強さも目の当たりにした。
三陸海岸に屹立する高さ50メートルの「三王岩」には高さ約20メートル以上の
津波が襲ったにもかかわらず、以前の勇姿のまま。
宮古港の出口には、高さ40メートルで逆三角形の「蝋燭岩」があるが、
これも無事であった。これら頑強な自然に比べ、
人工物はいかに大金と時間を費やしても、日本列島に定住する国民を
守ることができないということが明らかにされた。
田老の堤防から市街側を見渡すと、荒野の背後に寺院が無償のまま
残っていた。そこで以後も各地の被災地現場で調べると、
大半の寺院や神社は無事であった。
先人たちはその地に長く生活してきた結果、確実に安全だという場所に
神社仏閣を建て、文化を維持してきた成果である。
仙台平野にある「波分神社」は今回の津波が到達した限界の場所に
建っていた。慶長三陸津波が到達して引き返した地点を後世に
記録する神社だが、人々はその警告を無視して海寄りの低地に
家や田畑をつくり、それらは全滅した。