歳をとると嫌ですね!書いたものを掲載するのを忘れました。
(2006.8.20)靖国問題と中韓への対応
終戦記念日を前後して日本の外交の在り方については色々な議論が出てそれなりのことが有ったのかもしれないが、私は以下の幾つかの点については議論が充分に成されたとは思っていないので、書いてみることにした。
・靖国問題はあくまで国内問題であり、中韓が日本に向かって異論を声高に言い募ることは内政干渉であるという意見は日本国内で大勢を占める状態にあると言って構わない情勢になってきている。
・中韓との歴史認識との宥和が日本のアジア外交にとって不可欠との見解を述べる向きもあるが、一体全体どのような考えに基づくのだろうか?韓国といえども言論・報道の自由は充分でなく、日韓による共通の歴史認識を求めた試みも世界レベルでは韓国の意識は極めて偏っており、日本の主張が大勢であったことはハッキリしている。中国については言論・報道の自由はそれ以前の状態にあることは極めて明白である。そんな両国との歴史認識をあわせるとはどのような意味があるというのか?言論・報道の自由が充分担保されている日本との間に歴史への共通認識などということは存在するはずが無い。従って、日本政府としてはこの点を明確に両国に伝え、言論・報道の自由が両国において担保するまで、そのような試みは留保せざるを得ないと言う必要がある。
・靖国へのA級戦犯の合祀についても、明確にしておくことが望まれる。即ち、A級戦犯であり靖国へ合祀された人々は東京裁判がどうであれ、その裁きを受け絞首刑で罪を贖っている点を、両国のみならず諸外国にはっきり伝えておく必要がある。その上で、死をもって罪を贖った所謂A級戦犯を日本がどのように祀ろうと外国が関与すべき問題ではない。日本の文化として死をもって罪を贖った人を死後も鞭打つということはしない。大陸の何処かの国のように死者の墓を暴いてまでもその罪を誹謗するような文化は日本にはない。そのような行為は我が国では最も忌み嫌われ、人々の非難を浴びる行為である。ということも、対外的にはっきり言っておく必要のあることである。
・一つ私が心配していることは、日本の一部に東京裁判を認めないという考えがあることである。これが純粋に国内の問題として語られているなら、それも仕方ないかなと思わぬでもない。しかし、対外的にその問題をだすのならそれなりの理論武装が必要ではないか?東京裁判がいかにいかさま裁判であろうこれは勝者が敗者を裁いたということを我々日本人は今一度認識する必要があろう。これは負けたことの落とし前をつけさせられたということだ。これを否定することは戦後の日本のみならず世界の体制をも否定することになり、到底世界の理解を得ることはできないことと考える。但し、東京裁判のなかで史実でないことがあたかも史実のように証拠として採用され、戦後60年をすぎてもこれをもとに非難する国家があるということは日本にとり由々しき問題であり、等閑視できない問題である。
したがって日本としては、このような問題を再審請求という形で世界に問い直す必要があろう。共同謀議の原因と言われた‘田中上奏文’がいまや世界では存在しなかったということは常識となりつつある。
もう一つは、そして難しい問題ではあろうが‘南京大虐殺’である。日本側に資料が残っていないということもあろうが、世界各国で種々の資料が出てきており、日本軍による大量虐殺は存在せず戦闘行為の一環のなかでジュネーブ条約の対象にならない便衣隊の捜索の過程で起きたことではないのか?このことを日中だけで話し合うのではなく世界に向かって問い掛けて行くためにも、東京裁判の再審請求という形をとるのが望ましいと考える。
第二次世界大戦にたいする世界の大半の国々の日本への理解はいまだ東京裁判史観にあることを我々は今一度認識する必要があり、その東京裁判史観を打ち壊すには、再審請求という形しかないのではないかというのが私の考えである。中韓の主張が正しいといった理解が世界に広まる事だけは日本として絶対避けるべきことであることは言うまでも無い。そのための情報宣伝も兼ねて世界への情報発信が必要なのである。