杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

靖国参拝の考察・中 ケビン・ドーク 米ジョージタウン大教授

2006-05-27 01:23:47 | Weblog
靖国参拝の考察・中 ケビン・ドーク 米ジョージタウン大学教授
   教皇庁も認めた「慣行」

産経新聞の掲載するドーク氏の寄稿文その2である。産経新聞の許可も求めずにフルテクスト自分のブログに載せることが問題であろうことは理解しているが、産経新聞を読んでいない人にも同氏の考察を是非とも知っていただきたいと思いやむに止まれずにやっていることを理解してもらいたい。

「小泉純一郎首相の靖国参拝はいまや現代の政治課題にされてしまったが、その靖国問題に少し距離を置き、歴史をさかのぼってみよう。一般に靖国をめぐる論議は戦後だけのことと思われているが、実際には戦前の1930年代にも似た現象があった。30年代の日本といえば、多くの歴史学者は個人の自由が抑制され、特に宗教の自由は国家神道で阻害され、なかでも日本のキリスト教徒たちの自由や権利が、靖国神社により侵されていたとみなしがちな時代である。
 だが現実はそうではなかった。日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二次世界大戦中までも保たれた。戦時の日本の政界や学界では今中次麿、田中耕太郎両氏らキリスト教徒が活躍した。そんな時代の1932年5月、上智大学のカトリック信徒の学生たちが軍事訓練中に靖国への参拝を命じられたのを拒み、その拒否を同大学のホフマン学長も支持するという出来事があった。参拝が宗教の押し付けになりかねないという懸念からだった。
 だが、東京地区のシャンボン大司教が文部省や陸軍省に参拝が宗教的行事かどうかを正式に問うたところ、‘参拝は教育上の理由で、愛国心と忠誠を表すだけで、宗教的な慣行ではない’との回答を得た。これを受け、ローマ教皇庁は36年5月に日本の信徒に向け、‘靖国参拝は宗教的行事ではないため日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい’という通達を出した。
 その結果、日本のカトリック教徒は自由に靖国を参拝するようになったが、ローマ教皇庁が事実上の独立国家として日本政府の‘靖国参拝は宗教的慣行ではない’という見解を尊重したことの意味は大きい。日本国民の自国への独自の価値観や愛国心をそのまま認めたということだからだ。日本という主権国家の内部での慣行への尊重だといえる。しかも、さらに重要なのは教皇庁が戦後の1951年にも36年の靖国参拝に関する決定を再確認し、現在にいたっているという事実である。
 戦後も敬虔なキリスト教徒だとされている大平正芳氏や吉田茂などの首相が靖国に参拝している。参拝しても神道の宗教行事への参加ではないからだ。小泉首相の参拝も同様である。私人か公人かという区分も意味がない。米国ではブッシュ大統領がキリスト教会を訪れても公私の別はだれも問わないし、それが宗教的礼拝であっても、米国内の仏教やユダヤ教、イスラム教などの信徒たちは自分たちの権利が侵害されたとはみなさない。
 小泉首相の靖国参拝はA級戦犯合祀のために戦争の正当化となるからよくないという主張がある。私は、靖国が決してA級戦犯だけでなく、祖国の戦争のために亡くなったすべての人たちの霊をまつった神社であり、その先人たちの行動を絶対の正確さで善か悪かを判断する立場には現代の私たちはないし、戦犯とされる人の霊に弔意を表したから、その人の生前の行動すべてに賛意を表明するわけでもない、と反論したい。
 生きる人間は生や死に対し謙虚でなければならないとも思う。国家の指導者にたいしては、彼らの今の政策にはいくらでも反対し、非難も出来る。だが遠い過去に死んでしまった故人の行動を非難しても、もう故人は弁護できない。死者の行動の善悪をはっきり断定できるほど、私たちが完璧だとも思えない。戦没者への弔意表明に関する限り、過去の戦争の是非のような判断は未来の世代、次の世界、あるいは神に委ねることが適切だと思う。
 米国では南北戦争で敗れた南軍将兵の墓地が連邦政府の資金で保存され、政府高官を含めて多数の米国人が訪れる。国立のアーリントン墓地にも一部の南軍将兵が埋葬されているにもかかわらず、歴代大統領が訪れ、弔意を表す。南軍はアメリカ合衆国に敵対して反乱し、しかも奴隷制を守るために戦った軍隊だった。
 小泉首相の参拝反対への理屈をそのまま使えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは南軍将兵の霊を悼むことになり、奴隷制を正当化することともなってしまう。だが、米国の歴代大統領も国民の大多数もそうは考えず、戦没者のすべてが子孫からの敬意を受けることに値すると判断し、実際に弔意を表するのだ。日本側でそう考えたとしても、どんな支障があるのだろうか。」

日本国政府もこのように旨く説明する必要があるが、これをそのまま使っても良いのでは?
多分、今日の朝刊の載るのだろう(下)に何が書いてあるのか、今から楽しみである。