JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

パブリックフォーラムと大学

2005-10-09 04:06:06 | Weblog
 お友達のパーシーサンのところより ちょっと考えました。

パブリックフォーラム
一般公衆が自由に出入りでできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現ための場として役立つことが少なくない。道路公園、広場などがその例で、これを「パブリックフォーラム」とよぶ。「パブリックフォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権にもとづく制約を受けざるを得ないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要がある」 最高裁昭和五九年十二月十八日 判旨より
 
 はたして大学の内部、それも近時の首都圏内にある高層化された構造物の中はパブリックフォーラムたりうるであろうか。
当然に構造物は私的所有権の及ぶところであり管理権は所有権者にあるといえる。とすれば大学と直接の関係を持たないものが内部に入り込み何らかの行為をすることは権利としては認められないと考える。しかし大学の目的を有為な人材を供出するところと考えた場合、そのとき必要とされることは、自由な思想を流通させ闊達な議論を促進するということであると考えられる。そのように考えると、思想流通の担い手は大学内部関係者に限るとは言うことはできないように考える。それはクローズされた社会の議論が自己撞着に陥るということからも想像できる。
 
 その意味で大学外部者が構内に立ち入ることは必ずしも禁止されるべきことではないように考えられる。近時首都圏の大学は高層化が進められたことにより、地域住民や大学に思い入れを持つものが訪れ思索にふけるというようなことがしにくくなっている状況がある。確かに近代的な設備の中で学習できる学生には大きなメリットがあると思えるが、大局的な見地からはデメリットが大きいのではないだろうか。学問の閉鎖性を当然のこととして受け入れる学生が社会に出てつくる世界は多くの市民に受け入れてもらえるものかどうか疑わしい。無菌室のような学問空間が求められている、かどうか。思想表現の自由という観点から見た場合それは否としかいえないであろう。

 大学の箱自体が閉鎖性の高いものとなった現在、積極的に外部者を中に招き入れることが求められると考える。
もちろん当該立ち入り行為やそれに伴う表現行為が大学本来の目的事項を阻害しない限りにおいてということは言うまでもない。

                    JOHNY

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2 コメント

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箱ですからね・・・ (Percy)
2005-10-09 18:20:03
こんばんは、また引用して頂き恐縮です。



私は、基本的には大学への外部からの知的な働きかけには賛成です。しかし、怪しげな人が堂々と出入りしていることも一方で問題となっています。



大学と密接関連性のないものは、やはり問題ではないでしょうかね?うちの大学の図書館はカードがないとは入れませんが、全館でそこまでやれとはいいませんが、セキュリティーの面で一定の縛りをかけて欲しいと思うのです。



つい先日、外部の人の出入りの多い場所から、FDドライブが盗まれたそうです。内部・外部の犯行かは分かりませんが、最初に疑われるのは外部です・・・。



閉鎖性も問題ですが、一部の心無い犯罪者の温床になる危険性もはらんでいるのです。



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はこですね (JOHNY)
2005-10-09 23:56:08
 知的働きかけというのをどう定義するかですね。表現行為の意味に対する主体者は、じつのところ発信者ではなくて受信者の方だといったらいいすぎでしょうか。意味解釈は受動者の力量次第で変化します。このあたりでしょうか、キーワードは。

 ある行為を知的と受け取るか否か、さて。

ほか、疑われるのは、ということに対する私見。

先に内部者じゃないでしょうか。外国人排斥の構図とにていませんか。

 図書館について。これもわたしは学生のみ使用には否定的です。さきほどの知的ということとも関係しますが、学生以外の人から得るものは大きいと考えます。縛り方としては他にも方法はあるとおもえます。

日あたりの人数であったり、試験期間禁止とか。

ホンの盗難などはすでに防止ゲートがあるわけですからそれを理由に入れない理由はないでしょう。持ち物の盗難などは現行でもひどい状況ということにかんがみれば外部悪業説はいかがなものか。

 もちろん主要な機能を阻害しない限りということは共通した認識だと思います。

 これはわたしの世界に対する根本的な問いかけになりますが、政治の世界、学者の世界、どの世界においても一部の既得権益を守るがごとくの発想を容認するのは許すべきではないと。

 権威主義的なものを排除していく必要性が強く求められています。既存の体制の中に入り込めば入り込むほど、シラズノうちに権威を内面化していることに気付くべきでしょう。

そしてその言葉は自分自身に降りかかってくることでもあるのです。

などなど。

          JOHNY
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