JOHNY’s BLOG

かほりたつあざやかなはなとどめおくおもいをよせる淡雪のふみ

上野千鶴子とアイデンティティ

2006-02-11 00:08:50 | Book
 したの記事で出した『脱アイデンティティ』レビューをちゃっちゃとしようと思ったのですが、おもしろすぎてすぐにはムリなことが判明したのであとまわし。

 疲れたので本屋さんにぶらっといったら目の前にあったのがこの本。上野さん編の新しいものなので、どうしても買わずにはいられないわたし。

 で、ふと思うのです。

 あれ?上野に騙されてるかわたし、と。もしくは搾取されて・・・なんていったら使い方を間違えてると上野に一蹴されるでしょうが。

 買ってしまうのなんでなのか。
それは
 アイデンティティ=自己同一性、と関係がある。
アイデンティティ概念は 日本では60年代以降紹介された概念でありかなり新しい。社会的背景をみれば高度成長、核家族がすすみ社会の最小の構成単位が家族というものではなく個人であることがあたりまえになっていく。ここで登場するべくして登場したものがアイデンティティに関する言説。
 しかしこれはもはや使い古されたものであり、アイデンティティなしでは生きられない、というような脅迫だけが残っている状態であると上野は言う。アイデンティティ脅迫が残っていることによる問題が現代にはある、という仮説を立てて本書は書かれている。
 そして自分の話にすると、わたしはアイデンティティ脅迫にさらされて、わたしはなにものであるのかという思考を、賽の河原にいる子どものごとく続けさせられているような状態にある。このように言えそうである。
 
ここから脱出する術を、上野の言葉に求めること。これがわたしが上野の本を迷わず手にとる理由だとおもう。すると、いつか上野の本を手にとらないときが来なければいけないように思える。そこで初めてアイデンティティが確立するのではないか。
 アイデンティティ脅迫から脱出してアイデンティティを確立するとは、これは矛盾なのだが、とりあえずいまのところ適当な概念が見つからないのでそういっておく。

                          JOHNY

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