ラティハンは何も主張しません。
ただ間違えて使われているものを正していく。
あるいは成長すべきものを成長させる。
ラティハンが何かを声高に主張することはないでしょう。
特に万人にとって「これが真実だ。これに従え。」などというようなことはね。
ラティハンが十人十色のごとくに、人の道行きも十人十色。
人は自分のラティハンから正しい道を、自分に合った道を受けるやもしれません。
でもそれはあくまで自分のラティハンからです。
ラティハンで耳の浄化が終わっていれば、「こっち、こっち」という声が聞こえそうです。
口の浄化が終わっていれば、口が「こうした方がいい。」と言いますか。
頭まで浄化されていれば、「こうではないなあ。こうしよう。」と思いつきそうです。
そうやって人は自分独自の道を歩いていけるのですね。
ですので他人のラティハンが自分にとっての正しい道を示すなどというような事は
期待しない方がよいでしょう。
ましてや「万人が従える道を示す」などということはないでしょう。
そして、それをやっているのが宗教です。
それぞれの宗教がそれぞれ独自に「万人にとっての正しい道」を示します。
それゆえ世の中には宗教の数だけ正しい道があることになりますね。
そうして、けっして二つの宗教がお互いに相容れるということはありません。
おかげで正しい道の数がどんどん増えます。
正しい道の数が増えれば増えるだけ混乱がさらにひどくなっていきます。
どれが本当に正しいのか、ますます分からなくなりますからね。
ですからこれは全くの皮肉以外の何物でもありません。
ラティハンは頭から他人様のことなどは問題にしていません。
自分が受ける自分のラティハンがあるのみです。
でも、集団ラティハンではお互いの間に助け合いが起こります。
それは自動的にそうなるだけであって、決して意図的にやっている訳では
ありませんからね。
そしてそれがラティハンのすばらしい所でもあります。
ただ間違えて使われているものを正していく。
あるいは成長すべきものを成長させる。
ラティハンが何かを声高に主張することはないでしょう。
特に万人にとって「これが真実だ。これに従え。」などというようなことはね。
ラティハンが十人十色のごとくに、人の道行きも十人十色。
人は自分のラティハンから正しい道を、自分に合った道を受けるやもしれません。
でもそれはあくまで自分のラティハンからです。
ラティハンで耳の浄化が終わっていれば、「こっち、こっち」という声が聞こえそうです。
口の浄化が終わっていれば、口が「こうした方がいい。」と言いますか。
頭まで浄化されていれば、「こうではないなあ。こうしよう。」と思いつきそうです。
そうやって人は自分独自の道を歩いていけるのですね。
ですので他人のラティハンが自分にとっての正しい道を示すなどというような事は
期待しない方がよいでしょう。
ましてや「万人が従える道を示す」などということはないでしょう。
そして、それをやっているのが宗教です。
それぞれの宗教がそれぞれ独自に「万人にとっての正しい道」を示します。
それゆえ世の中には宗教の数だけ正しい道があることになりますね。
そうして、けっして二つの宗教がお互いに相容れるということはありません。
おかげで正しい道の数がどんどん増えます。
正しい道の数が増えれば増えるだけ混乱がさらにひどくなっていきます。
どれが本当に正しいのか、ますます分からなくなりますからね。
ですからこれは全くの皮肉以外の何物でもありません。
ラティハンは頭から他人様のことなどは問題にしていません。
自分が受ける自分のラティハンがあるのみです。
でも、集団ラティハンではお互いの間に助け合いが起こります。
それは自動的にそうなるだけであって、決して意図的にやっている訳では
ありませんからね。
そしてそれがラティハンのすばらしい所でもあります。