壇ノ浦合戦で破れ、8歳で関門海峡に入水した安徳天皇を祀っています。
写真は赤間神宮のシンボルである「水天門」で、「海の中にも都はある」という
二位の尼の願いを映して竜宮城をイメージして造られています。
写真は赤間神宮のシンボルである「水天門」で、「海の中にも都はある」という
二位の尼の願いを映して竜宮城をイメージして造られています。
義経は、神前に供えた弓矢を平家の本陣彦島に向けて射込み、戦勝祈願をしたことから、地元の人達がその地に大歳神社を創建した。境内から見下ろした鳥居。
下関には平家の史跡は多くあります。数少ない源氏の史跡の一つです。
下関には平家の史跡は多くあります。数少ない源氏の史跡の一つです。
義経が壇ノ浦合戦の際、戦勝祈願した神を祭っています。
義経は有明山(現在のJR下関駅北口付近)に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神をまつり、弓矢を神に捧げました。
(JR下関駅徒歩5分)
義経にあやかって「タイガース必勝祈願」をしましたが、あえなくロッテに4連敗で
悲願の日本一にはなれませんでした。
義経は有明山(現在のJR下関駅北口付近)に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神をまつり、弓矢を神に捧げました。
(JR下関駅徒歩5分)
義経にあやかって「タイガース必勝祈願」をしましたが、あえなくロッテに4連敗で
悲願の日本一にはなれませんでした。
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神社は満珠・干珠島を望むビュースポットであり、初日の出の名所としても有名です。
島の由来の記述は、日本書紀にもあります。
島の名には二説あり、天然記念物指定では沖が干珠・手前が満珠ですが、
神社では古地図に従って沖を満珠・手前を干珠としています。
門司側から写した満珠・干珠島が見れます。
わたつみの 潮満つ珠の 照りわたる その島かけて 波の寄る見ゆ
(北原 白秋作)
(バス停「松原」下車10分)
島の由来の記述は、日本書紀にもあります。
島の名には二説あり、天然記念物指定では沖が干珠・手前が満珠ですが、
神社では古地図に従って沖を満珠・手前を干珠としています。
門司側から写した満珠・干珠島が見れます。
わたつみの 潮満つ珠の 照りわたる その島かけて 波の寄る見ゆ
(北原 白秋作)
(バス停「松原」下車10分)
1185年3月24日、源氏軍は壇ノ浦決戦にそなえこの島の辺りに兵を集結させた。義経は、水戦は始めてであり敵地での不利な状態を補うため、この地(長府串崎)の漁師から関門海峡の潮流の知識を得、串崎船12隻を徴発し、自らこれに乗り込み決戦に挑んだ。
(写真は、豊功神社より写す)
(写真は、豊功神社より写す)
門司平家史跡の最終回です。未訪問史跡の紹介です。
●平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
●貴船社の三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている
(非公開)
●柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
●風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
●海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。
●平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
●貴船社の三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている
(非公開)
●柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
●風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
●海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。
当神社は、壇ノ浦合戦で被害を受けたが、源範頼、義経兄弟が荒れた社殿を再建した。
平知盛は、一の谷合戦時は東の砦生田の森の大将軍でしたが砦を破られ、息子:知章(ともあきら)、郎党:監物太郎と敗走する途中源氏軍に包囲される。16歳の知章は父を助けようと敵の前に立ちはだかり討ち死にする。その間に、知盛は沖の船に逃れることができた。
壇ノ浦合戦時の知盛の死は、息子に助けられた命もここまでと天晴れな死に様を見せた。
平知盛は、一の谷合戦時は東の砦生田の森の大将軍でしたが砦を破られ、息子:知章(ともあきら)、郎党:監物太郎と敗走する途中源氏軍に包囲される。16歳の知章は父を助けようと敵の前に立ちはだかり討ち死にする。その間に、知盛は沖の船に逃れることができた。
壇ノ浦合戦時の知盛の死は、息子に助けられた命もここまでと天晴れな死に様を見せた。