源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

平家一門の墓

2005-11-01 00:44:32 | 壇ノ浦合戦
              
               赤間神宮にあります。
         平有盛 清経 資盛 教経 経盛 知盛 教盛 忠房 時子
               他5名が葬られています。

紅石稲荷神社(皇城鎮護)

2005-10-29 01:05:56 | 壇ノ浦合戦
源平の争乱が起こったとき、平家一門はご幼帝・安徳天皇を奉じ西還するに際し、皇城の鎮護たる京都伏見稲荷大明神を勧請し乗船、長門国壇ノ浦に着いたとき、紅石山景勝の地を選び鎮祭されこの神社が創建された。
(赤間神社の奥にあります)
神社の情報元はこちらからどうそ    所在地はこちらからどうぞ

大歳神社

2005-10-27 00:16:15 | 壇ノ浦合戦
義経が壇ノ浦合戦の際、戦勝祈願した神を祭っています。
義経は有明山(現在のJR下関駅北口付近)に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神をまつり、弓矢を神に捧げました。
(JR下関駅徒歩5分)

義経にあやかって「タイガース必勝祈願」をしましたが、あえなくロッテに4連敗で
悲願の日本一にはなれませんでした。

豊功(とよこと)神社

2005-10-26 01:15:57 | 壇ノ浦合戦
神社は満珠・干珠島を望むビュースポットであり、初日の出の名所としても有名です。

島の由来の記述は、日本書紀にもあります。
島の名には二説あり、天然記念物指定では沖が干珠・手前が満珠ですが、
神社では古地図に従って沖を満珠・手前を干珠としています。
門司側から写した満珠・干珠島が見れます。

わたつみの 潮満つ珠の 照りわたる その島かけて 波の寄る見ゆ
(北原 白秋作)
(バス停「松原」下車10分)

満珠・干珠島(まんじゅ・かんじゅ)

2005-10-25 01:20:25 | 壇ノ浦合戦
1185年3月24日、源氏軍は壇ノ浦決戦にそなえこの島の辺りに兵を集結させた。義経は、水戦は始めてであり敵地での不利な状態を補うため、この地(長府串崎)の漁師から関門海峡の潮流の知識を得、串崎船12隻を徴発し、自らこれに乗り込み決戦に挑んだ。
(写真は、豊功神社より写す)

門司 平家史蹟(2)

2005-10-23 01:38:48 | 壇ノ浦合戦
門司平家史跡の最終回です。未訪問史跡の紹介です。

●平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
●貴船社の三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている
              (非公開)
●柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
●風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
●海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。

門司 平家史蹟(1)

2005-10-22 01:15:08 | 壇ノ浦合戦
門司にある平家の史蹟で訪れたのは2ヶ所ですが他にもあります。

●壇ノ浦合戦壁画・和布刈公園内に長さ44mの合戦を描いた有田焼の壁画があります。
    しずかblog(壁画の紹介をされています)
●門司城址・・平知盛が壇ノ浦の見える古城山に築造した城。
●海御前の碑・水天宮には平教経の奥方(海御前・あまごぜ)の碑があります。
●殿墓・・平家の敗戦を知った平休息が、山中に逃れ一族の墓を集めた所。

門司 平家史跡(2)はこちらへどうぞ

甲宗八幡神社(知盛の墓)(2)

2005-10-21 01:03:45 | 壇ノ浦合戦
当神社は、壇ノ浦合戦で被害を受けたが、源範頼、義経兄弟が荒れた社殿を再建した。
平知盛は、一の谷合戦時は東の砦生田の森の大将軍でしたが砦を破られ、息子:知章(ともあきら)、郎党:監物太郎と敗走する途中源氏軍に包囲される。16歳の知章は父を助けようと敵の前に立ちはだかり討ち死にする。その間に、知盛は沖の船に逃れることができた。
壇ノ浦合戦時の知盛の死は、息子に助けられた命もここまでと天晴れな死に様を見せた。