きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

可能な適用(実践)

2012年02月29日 | 羊、朝の一声
リビングライフの月末エッセイから。

高校の時に通っていた教会が、新しい建物を建てるために、財政難に陥ったことがありました。毎晩、長老が工事中の建物まで来て、冷たいセメントの地面にひざまずいて祈祷会を開きました。それを見た私は、幼心にひどく心配しました。どうにか工事を終えて、献堂式をささげましたが、すばらしい礼拝堂にはすばらしいオルガンが必要だと牧師が言いました。借りたお金も返し終えていない状況で、オルガンなど考えることもできません。高校2年の私は、このように祈りました。「神様、宝くじを買いますから、一等が当たるようにしてください。それを全部オルガン代のために献金します。」

ちょうどその日は聖書勉強会で、ルカ21章、レプタ銅貨2枚に関する内容を学びました。先生は、「世の中で最も愚かな人は、献金するからと宝くじを買う人だ」と言うではありませんか。心の中で、どんなにかあわてふためいたことでしょう。やもめのレプタ銅貨2枚は、未来の大金ではありませんでした。わずかであっても全財産で、今日ささげることができる最善のものでした。やもめは、今現在の最善を後回しにしたのではなく、未来のさらに大きいもので自分の献身を控えたのでもありませんでした。ですから、主はやもめをほめられたのです。

きょうのことを明日にのばさないでください。



この最後の一言にズキンとしました。今回の牧師訪米でのメッセージでも、またこのエッセイでも同じことを語られています。ブログをはじめ、多くの「後回し」を持っている私に。今語られている神様の御声に、今の最善をささげようと思わされました。

ベツレヘムの星

2012年02月28日 | 羊、朝の一声
今週日曜日の礼拝は、何と「クリスマス」、イエス様の生誕についてでした。詳細はまたアプリケーションしますが、なぜ今、クリスマス?と思われる方もいらっしゃるかも?「クリスマス」はクライスト(キリスト)+マス(ミサ=礼拝)ということで、「キリストの礼拝」という意味です。それは年に一度の12月25日のみのことではありません、というところからメッセージがありました。

個人的に私は今この時に「クリスマス」がテーマにされて驚きました。実は最近、ちょっとステキな本を見つけたのです。タイトルは「ベツレヘムの星」。どなたか読んだことがあるでしょうか。ミステリー小説で有名なイギリスの女流作家、アガサ・クリスティの短編集で、聖書を題材とした物語と詩を集めたクリスマスブックです。もちろん、信仰について書いてあったりはしません。彼女の鋭い人間観察力と卓越したプロットが楽しめ、また聖書を読む者には、「あれ?」と心寄せる箇所がところどころに隠されていて、一読してお気に入りになった御本です。ぜひご案内したいなぁ、と思いつつ、シーズンが終わったばかりだし、、、とあきらめようとしていたところに、礼拝メッセージ絡みでご紹介できることにびっくりしたのです。(これも御心?)

この中の「水上バス」という短編がスゴイのです。できたら、皆さんに読んでいただいて、感想をシェアリングしたいので、詳しい内容は控えますが、人間嫌いのご婦人のお話です。人間を好きになろうと一生懸命がんばるけれど徒労に終わり、結局「人を好きな振り」をし続けることしかできず、そんな自分を悲しみ、心に空しさを覚えているミセス・ハーグリーヴズ。彼女に「私」を見てしまいました。そして、そんな彼女に奇跡が起こるのです。内面の心理を細かく見事に描写した完成度の高いショート・ショートです。

クリスティがクリスチャンだったかどうかはわかりません。(たぶん、違うでしょう。)でも、この短編で、「人はイエス・キリストに出会う(触れる)ことで、真の生き方を知る。」ということを彼女は知ってか知らずか、書いているのです。また最後のオチが秀逸!クリスチャンなら、にっこりしてしまいます。ぜひ、機会があったら読んでみてください。


「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。(マタイ9:21)

祈りの力!!

2012年02月27日 | 羊、朝の一声
今日は、1週遅れて修了試験がある日でした。前回はバタバタドタドタしており、お勉強もままならずに「主の助け」に与りました。(詳細はこちら。修了試験と主の助け)不可抗力とは言え、もうこれ以上、神様に甘えるわけにいかない!と、とりあえずお勉強はし、テスト準備万全の月曜日の朝。

そろそろ出かけようか、というその時、お仕事の電話が鳴りました。私のお仕事は旅行業で、日本からいらっしゃるお客様やグループのお世話(予約や手配)をしています。この日はサービスの予定がなく、ゆっくりとテストに臨めるスケジュールを組んでいました。ところが、電話からは突然凍りつく状態の非常事態緊急通知。。。(それも1年に一回もないだろう、という、かなり深刻なケース)

「できません。」「こちらの問題ではありません。」などなど、私の請け負っているサービス以外の部分でしたので、受けない理由はいくらでもありました。でも、先方は途方に暮れる状態にいます。困っているのです。そして必死に助けを求めているのです。とってもとっても残念でしたが、先生に「今日は行けなくなりました。テストはあきらめます。」と通知しました。これが御心かぁ、とあきらめの思い半分、でも悔しくて涙が出そうでした。

必死に打開策を探すこと約15分、突然状況が好転しました。1時間遅れで、彼らのスケジュールは予定通り実行できることになりました。その時、私もまたテストに間に合うかもしれない、と閃き、すぐ先生に電話しました。「テスト開始時間には間に合うかもしれません。今すぐいきます!」そして、何よりもびっくりしたのは次の先生の言葉。

「祈っていましたから。」

ハレルヤ!テストには間に合いました。無事、修了試験を終えることができました。まだ結果待ちですが、今回もテスト以上に素晴らしいことを教えられました。祈りの力について。特に、人のために祈ることができるのは、クリスチャンだけです。目の前の事件にパニックになって、祈ることも忘れた私を、先生たちはサポートして祈っていてくださいました。人のために祈ることの強い力。私もまた、わかっていませんでしたが、その力を神様からいただいているのです。だから、使わなければなりません。日本の家族のために、大切な人の救いのために、日本で宣教していらっしゃる牧師、宣教師のために、迫害を受けて戦う世界中のクリスチャンのために。テストの合否よりも、ずっとずっと大きなことを教えられました。これも主の助けです。


主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 (詩篇)


御言葉の実践!

2012年02月26日 | 羊、朝の一声


聖書の御言葉を正しく受け取るための3つの段階。

観察(Observation):
イエス様は、いつ、どこで、どのような状態で、誰に対して御言葉を語られたか、客観的に観察。
注意すべきは、そこに自分の思い込みを入れない。

解釈(Interpretation):
イエス様は、ここで何を仰っているのか?を正しく見る。根本的な主題をつかむ!

実践応用(Application):
自分の人生にどう関わっているか、どう応用するか。実践をもって臨む!



この日曜礼拝は、私は子供クラス担当で、メッセージを聞けませんでした。後ほど録音メッセージを聞いてレポートします。ということで、今日はえんぢぇる師の基本の教えそのⅠをまとめてみました。レポートは近日アップ予定!お楽しみに。



メッセージ(音声)はこのバナーをクリック!



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リバイバル集会 in グレンデール

2012年02月25日 | 羊、朝の一声
かれこれ30年以上、患っている持病があります。正式病名不明、個人的には「私は誰にも望まれていないのサ、病」と名づけています。基本的に、人と話をしているより一人で本を読んでいる方が好きで、友達は必要だと思うものの、「親友」と呼べるごく小数の大切な人がいればそれでいい、と思っていたのです。そんな私なので一人で平気なのが常ですが、時々ちょっとしたことで「自分だけ蚊帳の外だ。。。」とひどく疎外感を感じることがあるのです。それが私の持病、「私は誰にも望まれていないのサ、病」です。

クリスチャンになってから、『神様との関係によって生かされること、そして人との関係によって生きること』を知り、人との関係が神様が望み、私が生きるために必要だとわかってきました。中でも、教会の仲間は、透明な関係を心がけ、愛と神様でつながれ、赦し合い、重荷を担い合い、祈り合う霊の家族。でも、そんな霊の家族とであっても時々持病が疼くことがあるのです。

きっかけは実に些細なことでしたが、この集会前に傷が痛みました。つらくなって、人との関係いりません!の前の状態へ戻って行く自分がいました。でも、神様はいつでも私を憐れみ、励まし、語りかけてくださるのです。


わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。
そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。(エレミヤ33:3)



集会では「祭壇を築く」ということが語られたのです。信仰の父、アブラハムは行く先々で祭壇を築きました。ノアは方舟から出て祭壇を築きました。イサクもヤコブも、モーセもヨシュアも、旧約時代の信仰の先達たちは皆、祭壇を築きました。祭壇は、生贄をささげるところであり、血を必要とします。だから、主はカインの献げ物に目を留めず、アベルの献げ物を顧みられたという“新解釈(正解釈)”も教えられました。

やや(いえ、かなり?)後ろ向きな思いでメッセージを聞きながら、私が私の「祭壇を築く」こととして示されたのは、次の2つの御言葉。


だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。(マタイ5:23-24)

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマ12:1)


両方とも「兄弟」が出てきて「私は誰にも望まれていないのサ、病」疾患中の私に、人との関係について思い出させてくださるものでした。更に、ロマ書の御言葉は、私の信仰の軸とも言え、御言葉自体には「祭壇」が出ていませんが、私にはこう語られたのです。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして(あなたの祭壇に:付加 BY MU)献げなさい。
 これこそ、あなたがたのなすべき(霊的な、真の:付加 BY MU)礼拝です。


アブラハムはエジプトでは祭壇を築きませんでした。そして、エジプトで問題が起きたのです。私も、問題の渦中にあると思うなら、それは祭壇を築いていないのです。

イエス様が私の救いのために流してくださった血を無駄にしてはならない、いつまでの古い訳わからない持病に捕らわれていてもどうにもならない。そんなことを思った集会でした。(でも、帰りたい病は止めることができず、一番に帰ってしまって、みんなごめんなさい。)今日も私は私の「祭壇を築く」ことを忘れず、イエス様の血潮によって新しく変えられて(カイノス)行こうと歩み出します。そして、同じように古い傷に苦しむ人のために、祈ろうと思いました。お祈り必要な方、どこへでも参ります。ご連絡ください!


えんぢぇる田中と7人の乙女(心)

2012年02月24日 | 羊の群れ
白雪姫と7人の小人、の逆バージョン!『えんぢぇる田中と7人の乙女(心)』。美味しい昼食を間にして、御言葉に楽しく聞き親しむ時間を与えられました。語られたのは、この3点。(ごめんなさい、えんぢぇる師コラムからの完全受け売り、いえ抜粋です。)詳しくはこちら!http://blog.goo.ne.jp/jesus808

 ①「御言葉が霊の中に組み込まれ、脳内反応するくらいになることが、これからの時代を生き抜く生命線」であること。

 ②「教会とは何か?」その使命と構造について。

 ③ 与えられた御言葉は、ミカ書6章8説 「へりくだって神と共に歩むこと、これである。」


ココだけの話、仕事を休んでの方も、また仕事をしながら(?)の方もいました。ただ、主によって呼び集められた人々。そう、それがエクレシアと呼ばれる真の「教会」です。こんな時間を定期的に持つホームチャーチを祈っています!ご興味ある方、ご飯食べたいだけの方も、ぜひご連絡ください。213-324-6942まで!ホームチャーチ(=セルチャーチ)については下のロゴをクリック!




 

一万時間の法則

2012年02月23日 | 羊、朝の一声
一万時間の法則

100時間、ひとつのことに集中することで、基本的なことをマスターできる。
1000時間、ひとつのことに集中することで、その人の「仕事」となる。
10000時間、ひとつのことに集中することで、その人はその「仕事」のトップクラスとなる。



あのプロゴルファー、石川遼さんは、ゴルファーになると決めたその日から毎日3-4時間、雨が降ろうが雪が降ろうが、素振りと基礎体力造りを欠かすことがなかった。そして10年後(3 x 365 x 10 = 10950時間)、彼はトップの座にいる。どんな種類のプロフェッショナルも、この一万時間無しにトップになることはない。それがほんとうの「プロ」だ。



クリスチャンたるものの時間の使い方

「時間」は、誰の上にも公平に流れるもの。神様からそれぞれに与えられている「時間」がある。日常生活の時間を如何に管理しているかは、それに一万時間を費やしてプロになるかどうかは別にしても、人生を豊かに導く大きな要因だ。
その「時間」の使い途には4つの区分けがある。


 大切であり、急ぎのこと (税金申請、受験勉強)
 大切でないけど、急ぎのこと (友だちとの電話)
 大切だけど、急ぎでないこと (聖書を読むこと)
 大切でなく、急ぎでもないこと (テレビドラマ?)


この優先順位は?と問われると、ほぼ全員が、と答えるだろう。ところが、実際にその順番に時間を使っているかと言えば、そうではないことが実に多い。実践では昨日一日で時間を使った行動トップ4つを書き上げ、その後、上の順番をつけるということをしたが、その結果は、だったりした。


では、気をつけての正しい順序で行動すればよいのか。それができる人は少ない。実際、優先順位として正しい答えは出せるけれど、実際の行動が伴わないのが私たちだ。。。


そこで、知恵を与えられる。えんぢぇる師は言う。に第一プライオリティを置くこと。これによって、にすべきことが減り、大切なことにより時間を費やすことができる。人生のクオリティが上がる。そうでなければ、迫り来る「急ぎ」ばかりに追われ、ほんとうに大切な「人生とは何か。どう生きるか」という「大切なこと」に目を向けられない。まさに心を亡くす「忙しい」人生で終わってしまう。


優先順位を決め、、そしてを心がけること。娯楽がダメ!と言うのではない。神様も7日目に休まれたように、休息、リラックスはとても大切。ただ、優先順位に気をつけること。いつもクルクルしてしまう私にとって、とても大切な、そしてすぐに取り掛からなければならない「実践」でした。



主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。

2/19のアプリケーションⅡ

2012年02月22日 | 羊、朝の一声
「死生学」の実践でのこと。同じ実践を一度したことがあります。正確な記録はないのですが、その時と比べて「変わった!」と思う点をいくつか発見しました。

まず、実践に対する姿勢が変わりました。調べてみたら、以前の実践は2010年10月。えんぢぇる師を宣教に送り出すほぼ直前です。師が日本宣教へ赴いてからは当然、教会も余儀なく変化しましたし、曳いては私の信仰生活スタイルも変わりました。良いか悪いかは私自身が判断できることではありませんが、1年余の「変化」が影響を与えたことは間違いありません。そのためか、以前の実践時より、ずっと真摯に自分の「人生」に向き合ったように感じました。

これを師が見ていたら、『前は本気だしてなかったんかい』と言われそうですが、時間としては今回はかなり短縮せざるを得ない状態でしたし、二回目だから軽視してしまうのが普通(?)かな、とも思います。でも今回、「最後までこの手に残しておきたいもの」を深く黙想し、その大切さをかみ締めることができたのでした。それは、私個人の信仰や生活状況はもちろん、やはり「時代」なのだと思います。宣教派遣によって間接的とは言え日本の現状を見聞きし、また3-11東日本震災を経て、1年前よりはずっと(たぶん、or 願わくば)深い日本リバイバルへの祈りを通して、霊に語られる「終末に迫りつつあるこの時代」。そんな思いをいただきました。

実は、「最後までこの手に残しておきたいもの」についてまだ考えています。答えは今、得られないかもしれません。ただ一日一日、この答えを得るために、主なる神様を見上げ、「最後までこの手に残しておきたいもの」を求め続けていこうと思います。来たり来る「その日」のために。



見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。(黙示録22:7)

2/19のアプリケーション

2012年02月21日 | 羊、朝の一声
昨日の投稿通り、19日は超過密スケジュール。師は朗々と一部、二部とメッセージをくださいましたが、スケジュールばかりが気になって、半ば気が気でない私。 こういう時こそ、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト14:13)」の御言葉を握り締めるべきなのでしょうが、完全に自分の思い、自分の力に捕らわれてしまって気もそぞろ状態でした。しかも、この御言葉は今年の教会の御言葉なのに。。。

メッセージは、前半に脳内反応、罪の性質、熟年者の失敗、パタパタポラロイド、「ウェスト58センチの幻想」、ボルネオの猿、正しいカステラの食し方などから、自分の問題に気付くこと、霊的に生きるということの個々に受け止めるテーマを提示し、その唯一の解決である福音の絶対的再生(=新生)力を、開放の7ステップと共に語ってくださいました。また後半は、「実践」として、クリスチャン的時間管理の方法と、死生学の授業を行いました。

またまた多くのテーマの中で、私の心に入ったのは、最初の部分。「罪が引き起こす日常的性癖」。

後回しにすること
私だけじゃない、みんなそうだ。
仕方ない
責任転嫁。○○がこうだったから。××が悪いから。

この中のは、最近仕出かした失敗の記憶と重なって、自分の内の「罪」の性質を痛感しました。確か金曜日に、「罪人」についてお話がありました。クリスチャンは「罪人」ということを最初に学びます。一般的には、<罪を犯した人が「罪人」>ですが、聖書の言う「罪」の意味からは違っています。<人は皆「罪人」なので罪を犯す>のです。確かに私は神様を知り、その愛と恵みによって救われました。でも、「罪人」の性質は依然、体と霊のどこかに残っており、それまでの人生で習慣化してしまった性癖があるのです。だから私たちは、救われ続ける、従い続ける、開放され続けることが必要なのです。そのためにも、自分の失敗を見つめ、問題を問題として捉え、悔い改め(メタノイア)て神様に変えていただくよう、祈り続けなければなりません。

わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。(ヘブライ3:14)


あのパウロ先生が「わたしは何てみじめな者だろう!」と叫んだ気持ちが、このメッセージで少しわかったように思いました。私がグッサリ感じた冒頭部分の動画です。グッサリ来ている私へのアドバイス、またどんなことでもシェアリングしていただける方、コメント投稿をお願いします。








修了試験と主の助け

2012年02月20日 | 羊、朝の一声
19日の日曜日は、過密スケジュールでした。

朝から英語礼拝日本語礼拝昼食を急いで済ませて移動午後は霊的成長セミナー終わったらすぐに夜の懇親会準備懇親会は当然の流れで夜の集会に。。。集会が終わったのは、ほぼ真夜中。

実は、個人的にこの後、更に予定がありました。それは、テスト勉強。

翌日は半年受講したクラスの修了試験があり、最後の追い込み詰め込み勉強が待っていたのです。でも真夜中に終わり、あれこれして帰宅したのは午前1時。かなりヘロヘロになりながら、とにかくまとめたレポートを読もうとコンピュータを。すると先生からのメールが目に飛び込んできました。「トラブルがあって明日のテスト問題がまだ届いていないので、延期されるかもしれません。」

。。。。。。。。。

メールを見た途端、緊張の糸は切れ、コンピュータはそのまま消して、とにかく延期を必死に祈りました。「神様、万全の状態でテストを受けたいです!でも、今日はもう頭が動きません。御心がなりますように。」

そして???もちろん、祈りは聞かれましたよテストは来週です。さて、問題はそのテスト結果で主の栄光をあらわせるかどうか、です。ここで最善が成ってこそ、これは御心だったと言えるのですから、何が何でもよい結果を出さなければ!

ということで、プレッシャーは多分にかかっていますが、心から「主の助け!」を感じた一瞬でした。日曜日のセミナーでは、「クリスチャンたる者の時間管理」を聞いていますから、この実践として、計画的に、また御心に添った勉強時間を守って結果を出したいと思います。結果報告をお楽しみに。