きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

リバイバル集会 in グレンデール

2012年02月25日 | 羊、朝の一声
かれこれ30年以上、患っている持病があります。正式病名不明、個人的には「私は誰にも望まれていないのサ、病」と名づけています。基本的に、人と話をしているより一人で本を読んでいる方が好きで、友達は必要だと思うものの、「親友」と呼べるごく小数の大切な人がいればそれでいい、と思っていたのです。そんな私なので一人で平気なのが常ですが、時々ちょっとしたことで「自分だけ蚊帳の外だ。。。」とひどく疎外感を感じることがあるのです。それが私の持病、「私は誰にも望まれていないのサ、病」です。

クリスチャンになってから、『神様との関係によって生かされること、そして人との関係によって生きること』を知り、人との関係が神様が望み、私が生きるために必要だとわかってきました。中でも、教会の仲間は、透明な関係を心がけ、愛と神様でつながれ、赦し合い、重荷を担い合い、祈り合う霊の家族。でも、そんな霊の家族とであっても時々持病が疼くことがあるのです。

きっかけは実に些細なことでしたが、この集会前に傷が痛みました。つらくなって、人との関係いりません!の前の状態へ戻って行く自分がいました。でも、神様はいつでも私を憐れみ、励まし、語りかけてくださるのです。


わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。
そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。(エレミヤ33:3)



集会では「祭壇を築く」ということが語られたのです。信仰の父、アブラハムは行く先々で祭壇を築きました。ノアは方舟から出て祭壇を築きました。イサクもヤコブも、モーセもヨシュアも、旧約時代の信仰の先達たちは皆、祭壇を築きました。祭壇は、生贄をささげるところであり、血を必要とします。だから、主はカインの献げ物に目を留めず、アベルの献げ物を顧みられたという“新解釈(正解釈)”も教えられました。

やや(いえ、かなり?)後ろ向きな思いでメッセージを聞きながら、私が私の「祭壇を築く」こととして示されたのは、次の2つの御言葉。


だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。(マタイ5:23-24)

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマ12:1)


両方とも「兄弟」が出てきて「私は誰にも望まれていないのサ、病」疾患中の私に、人との関係について思い出させてくださるものでした。更に、ロマ書の御言葉は、私の信仰の軸とも言え、御言葉自体には「祭壇」が出ていませんが、私にはこう語られたのです。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして(あなたの祭壇に:付加 BY MU)献げなさい。
 これこそ、あなたがたのなすべき(霊的な、真の:付加 BY MU)礼拝です。


アブラハムはエジプトでは祭壇を築きませんでした。そして、エジプトで問題が起きたのです。私も、問題の渦中にあると思うなら、それは祭壇を築いていないのです。

イエス様が私の救いのために流してくださった血を無駄にしてはならない、いつまでの古い訳わからない持病に捕らわれていてもどうにもならない。そんなことを思った集会でした。(でも、帰りたい病は止めることができず、一番に帰ってしまって、みんなごめんなさい。)今日も私は私の「祭壇を築く」ことを忘れず、イエス様の血潮によって新しく変えられて(カイノス)行こうと歩み出します。そして、同じように古い傷に苦しむ人のために、祈ろうと思いました。お祈り必要な方、どこへでも参ります。ご連絡ください!


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