きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

まとめて列王&歴代!

2010年11月16日 | 羊、朝の一声
少しヘタれて、一日多く時間をかけてしまいました。が、列王記&歴代誌を終えることができました。年数にすると約400年。平均して百年を1日で見ることになり、多くの出来事とたくさんの人が登場するので、きっちり内容理解はできていません。取りあえず、列王&歴代4巻まとめての感想です。

列王記では、ダビデが築いたイスラエル王国が、後継者ソロモン王の全盛期以後、北イスラエルと南ユダに分裂し、最後にはアッシリアとバビロンという他国の侵略に国崩壊の憂き目に遭います。また、歴代誌は、一見、これまでの歴史を繰り返して語られているようであり、私も「ダイジェスト版」のようなイメージを抱いていましたが、今回の通読で「視線の違い」を感じました。ただ残念ですが、どう違っているのかというはっきりした答えはまだ出せていません。漠然とした印象で、列王記より俯瞰的、しかしより緻密に書かれているのが歴代誌のように思います。この点、ちょっと興味があるので、通読とは別に考える時間をとりたいと思ったりしています。(できるのか?)

あとは預言者の存在に目が留まりました。王国は少しずつ少しずつ影を落とし、人は神を忘れていきます。その中で、天からの光が注がれるような、時には鋭い稲妻の閃光のような、神様の言葉が預言者を通して語られます。この列王歴代の4巻には、「悪」が蔓延り、挙句に国が滅んでしまった悲惨な事実がばっちり書かれ、何故こんなことまで書かなければならないのか、歴代誌でわざわざ繰り返してまで記さなくてもいいじゃない、と思います。その時、「聖書は神の霊感で書かれた神様の言葉」ということを思い、預言者が語った神様の言葉が、これからの私の人生、これからの世界のために記されていると感じました。それが、これから読み進む預言書にリンクしてより深く神様の言葉を受け取ることができるような、そんな期待に胸躍らせています。




サムエル記下

2010年11月10日 | 羊、朝の一声
続く第二サムエル。ダビデ王の即位から王国の確立、そして彼の死までの約40年間が記されています。サムエル記は、ダビデが御心に反して行った人口調査から、神様の罰が下り、イスラエル民全体に疫病が蔓延る事件で終わっています。

ダビデはイスラエルの王様として神様に従い、彼に与えられた大きな働きを成し遂げました。しかし、神様に愛されて王に召されたダビデでも、彼自身の罪、苦悩、試練がありました。この最後の出来事もまた、ダビデから発しています。それらを合わせて見ると、昨日同様、ダビデを通して「真の王」、イエス・キリストの御姿を見ます。サムエル記の最後の一文は、

主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。 (24:25)

と、「主」が主格であり、疾病という悲惨な事件の向こうに中心にいて祈りを聞いてくださる主のご臨在を強く感じました。そして、人間の王の統治によってイスラエルがどのように動き、どのように真の王が到来するか、これからの歴史書が語るのです。と、明日をまた楽しみにしつつ。。。

因みに本日の画像は、シャガールのダビデです。

どうして 「サムエル記」?

2010年11月10日 | 羊、朝の一声
昨日、珠玉の小編ルツ記にルツという一異邦人女性の美しさを見ましたが、今日のサムエル記上も一人の女性、子供に恵まれずに心を痛めていたハンナから話が始まります。ルツ記が好きで、ルツ(ルース)という名前を女の子に付けるクリスチャン家庭が多いそうですが、私個人的には、ハンナの方が好きです。2章にある彼女の祈りには心を撃たれ、彼女の芯の強さ、神様への信頼、意思した従順さ、これらを尊敬し、憧れます。そして昨日も少し書きましたが、そんなルツやハンナから、イスラエルの王ダビデが立てられていくことに女性の力を感じます。

サムエル記上では、イスラエルの民が他国と同じような「王」を求め、ハンナから生まれて主に献げられて成長した最後の裁き司、士師のサムエルがイスラエル最初の王サウルと、イスラエル王国の繁栄を導いた次代ダビデ王誕生のことが記されています。なぜ「サムエル記」なのだろう?と考えてしまいました。今日のサムエル記上では生きているものの、明日のサムエル記下ではサムエルはもういません。またサムエルが書いたものというわけでもありません。そんなことを考え、初代王として召されたにも関わらず、即位後、主への不従順によって死んでしまうサウル(礼拝メッセージも見てね!)と、続くダビデの任命を読む時、すべてが主の導きによって進んでいることを感じました。だからこそ、主の言葉を執り告いだ「サムエル記」なのです。ルツもハンナも偉大なる王ダビデの登場に大役を果たしています。しかし、それは個人の功労ではなく、ダビデの偉業もまた、彼の誉れではなく、すべてはその背後で見守り、導き、御計画のために働いておられる主なる神様がいらっしゃること。それをサムエル記上に感じました。




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Good News Stationではないのですが、この紙芝居、面白かったので。。。



聖書中、最も美しい物語 ルツ記

2010年11月09日 | 羊、朝の一声


「最も愛らしい、小さな総体」 by ゲーテ
「聖書中、最も美しい物語」
「砂漠の中のオアシス」

このように賞賛の誉れ高いルツ記は、今、一日30~40章を猪突に読み進む私にとっても、まさに「砂漠の中のオアシス」です。長文の歴史書が続く只中、たった4章の珠玉の小編「ルツ記」がここに組み込まれている意味を、士師記にやや疲れた私は感じました。昨日書いたように、主の存在を忘れ、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」イスラエルの民は、自己中心を推し進める内に罪の深みに落ち、遂には非常な残虐性を見せてしまいます。それは「王」、正しい導き手の不在のため。そして、イスラエルは他国のような王様を求めるようになり、ダビデという王が神様によって与えられます。そんな王を求める足がかりのこの時代だからこそ、ルツ記がここにあるのです。変わりゆく時代の潮流の中で、一人の異邦人女性、ルツからダビデが生まれ、そしてイエス・キリストの誕生へと続いていく、そう考えると、一人の信仰から栄光が現れる「力」を確信できます。同じ一異邦人女性として、ルツの信仰、静かな霊性に倣おうと思います。

頭グルグルで 士師記

2010年11月08日 | 羊、朝の一声
レポートは一日遅れてしまいましたが、士師記クリアしています。が、頭はグルグル、読んでいても疑問の連続、何を受け取ればよいのかわかりません。

これが神様の御言葉なの
どうしてこんな残虐なことが聖書に記されているの
どうしてこんなに物事混乱しているの

が、そんな訴えを神様に吐き出した時、少し前に礼拝メッセージで聞いたあることが思い浮かびました。日本の政治、首相交代のことです。最近は、首相が非常に頻繁に交代して、まったく訳が分からない状態。それが、この士師の時代と合わさって見えました。何故そうなってしまったのか、その答えは士師記にありました。

その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。(2:10)
そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(17:6 & 21:25)

極めて優れた士師もいました。しかし、絶対の王(神様)を迎えていないイスラエルの民が、自分が良しと思うことを行い続けることで、たまに浮き上がりはするものの、着実に落ちている様子を見ることができます。これが現代日本?と思うと、背筋が凍ります。三千年前とは違う!と反論があるかもしれませんが、旧約聖書は人間の本性を鋭く赤裸々に記しています。どうしてこんな?と思うそれ、罪を見据えて方向転換すること。それが士師記を通して神様が涙ながらに伝えたいとされていることと思いました。もちろん、何よりも私自身に対して。

そして、ダビデというイスラエルの王を生み出すルツの話へ進んでいきます。

強くあれ!雄雄しくあれ!! ヨシュア記

2010年11月06日 | 羊、朝の一声
モーセ五書と呼ばれる「創(世記)、出(エジプト)、レビ(記)、民(数記)、申命記」を終え、今日から歴史書分野が始まりました。一息ついたようですが、「歴史」の始まりと考えると、先の道のりの長さにクラっと来る。。。そこでヨシュア記ならではの御言葉に励まされます。強くあれ、雄雄しくあれ。

発見したことが幾つかありました。モーセと言えば、律法を代表する旧約時代の預言者。クリスチャンでなくても知っているでしょう。一方「ヨシュア」と言うとノンクリさんは「?」と思うかもしれませんが、ヨシュアとは「イエス」様のヘブライ語読みです。モーセさんは約束の地に入れず、ヨシュアさんが達成した、というところに、イエス様による律法の完成を感じます。また、ヨシュアさんは約束の地に入るためヨルダン河を渡りますが、その時の光景はモーセさんが紅海(葦の海)を渡った時に似ています。葦の海を神様に導かれて渡ったことは「洗礼」を表しているのですが、ヨシュアさんは後にイエス様ご自身が洗礼を受けられたヨルダン河を「信仰」によって渡った、神さまが与えてくださっている霊的祝福の約束を「信仰」によって受け継いだ、そんなことを思いました。


わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。(23:14)


今回一番心に響いた上の御言葉から、またヨシュア記全体から、キリストを信じる信仰によって生きる前進していただく祝福を読み取りました。これこそが、これからも通読を進める一番の励ましです。明日は士師記!乞うご期待!



(写真は、同じ名前というだけの理由でJOSHUA TREE。)

申命記 (!)

2010年11月05日 | 羊、朝の一声
申命記を読破しました。まず気付いたことは、これはモーセの最後の言葉であり、イスラエルの民に対する彼の遺言だということ。パウロのエフェソ教会に対する告別説教は、学びやメッセージでも聞いて使徒言行録の中に読み取って、心にグッと迫るものを感じましたが、申命記をモーセの告別説教と考えたことはありませんでした。新発見に感謝です。

約40年前、モーセはシナイ山で神様からの契約を預かりました。しかしその後、イスラエルの背信、不従順、反逆などがあり、約束の地へ入れないまま荒野を彷徨います。そして40年経て、再び約束の地が目の前に広がるその境の場所で、モーセは民に神様との契約を告げ、彼自身は神様の言葉通り、カナンの地へ入ることのないまま天へ帰るのです。そこに込められているのは、イエス様も最も大切だと仰る、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)であり、イエス様が荒野での誘惑を受けられた際に、悪魔に対して放った御言葉のすべて。モーセが神様から預かって大切に大切にしていたその言葉を、万感の思いを込めて新しい世代に渡し、託していったその思いに触れることができました。

さて、民数記 (=Numbers)

2010年11月04日 | 羊、朝の一声

民数記クリアです!ここでは、カナンを目前にして不信仰に陥ったイスラエルの民が辿った約40年の「荒野の旅路」が記されています。そこに私自身の信仰生活の在り方を見たように感じました。頑なさ、不信仰、自己過信、自己憐憫、そして当然起きる失敗。神様から離れようとしてしまうが故に感じる神様の厳しさと同時に、いつもいつもイスラエルを支え続けてくれ、守ってくださる神様のいつくしみがあるのです。

「神の慈愛と峻厳とを見よ。(ローマ11:22)」

私の好きな聖句が、1BOOKの歴史で表されているようでした。そしてまた、その神様の慈愛によって信仰を継承したイスラエルの新しい世代が、約束の地に到達します。それは、私たちがイエス様の贖いによって、新しく変えられて御国に至る、そんなヴィジョンを導かれました。と、少し楽しくなってきたミッション・インポシブルですが、明日はあの「申命記」。神様が何を語ってくださるのか、ちょっとわくわくしながら読み進みます。

レビ記

2010年11月03日 | 羊、朝の一声
昨日の出エジプトは、シナイ山のふもとに「神様と出会う幕屋」が完成して終わっています。そして、次にくるこのレビ記では、出会った神様の教えが記されているのです。今回キーとして得た御言葉は、レビ記10:10。

あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること

一見、小難しい、理解不能な掟がズラズラと書かれているレビ記ですが、これらを通して神様は「聖なること」を教えてくださっていると知りました。教えを聞いて、頭で知って、そして行いを変える神様の聖なる基準がこれなのです。主から選ばれて与えられた地に住まう者としてどう生きるべきか、礼拝する者としての責任を語られました。そうは言っても聖くなりたい一方で、俗なるものを俗と知って尚、決して手放せない自分自身がいます。だからこそ、イエス様が来てくださって神様の律法が成就されたのです。旧約聖書はイエス・キリストの予表であることをかみ締めて読破したレビ記でした。