きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

教会に何がある?

2009年01月28日 | 羊の群れ
 あなたは教会で何を得ようと思いますか。友人との交流?心の平安?ただで食べられる食事?あるいは、人生の目標?それぞれが様々な思いを抱えて教会に来ます。それぞれに導かれている動機や意図があります。それはOK。ただし忘れてならないのは、教会でしか得られない、とっても大切なものがあること。それが永遠の命。

 人はすべて信仰によって生きていると言えます。キリスト者はイエス様を主とする信仰があり、無神論者は「神などいない」という信仰を持っています。人間には、神様が存在することも、あるいは絶対にいないとも、どちらも証明できないのです。無神論者は、神様がいないことを「知って」いるのではなく、「いないと信じて」いるに過ぎません。また、一般的日本人は、「家内安全、無病息災、商売繁盛」の三つの言葉にまとめられるように、災いなし、病なし、貧困なし、の人生を目指し、それを信仰していると言えます。それが完全な幸せだと言えるのでしょうか。いえ、決してそうではありません。

 今回は2つの礼拝のアプリケーションを行いましたが、共通点がありました。どちらも同じパスカルの言葉に始まったのです。GNS礼拝はタイトルが、「神在りと賭けて損は無し」と言うパスカルの言葉でしたし、もう一つの「人間とは?」という学びのシェアは、「人間とは、ほんとうに素晴らしい存在なのだ」と言うパスカルの言葉に始まりました。何故素晴らしいのか。学びのシェアで人間は霊的な存在だと繰り返されました。神様がていねいにご自分に模って創り、霊を吹き込み、共に労し、共に喜び、共に愛し合いたいと願ってくださる存在が人間です。一人一人が神様のオーダーメイド&マスターピースとして身体と心と霊を持っているのです。

 取り上げられたイザヤ書43:7には、3つの「つくる」が出てきます。何もないところから創造する(=create)、あるものを組み立てる(=make)、そして形作る、仕立てる(=form)です。それは神様の栄光のため、と聖書は語っていますが、つまり一人一人に神様によって託された使命、人生を生きる目的があるということです。

彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。

 この体、この世の人生は、いずれ来るほんとうの命、ほんとうの生の影に過ぎません。だからこそ、今の災い、病、貧しさを避けることだけを求めても真の解決には至りません。どんな安楽も、健康も、富も、このままでは「肉体の死」と共にすべてなくなってしまうからです。だからこそ、永遠の命を得るために教会が必要であり、ほんとうに「生きる」ために福音が必要なのです。同じイザヤ書でも、口語訳ではこう書かれています。「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ」。生きる意味を考える方、このSBCでも真理の種を得ていただきたいと祈っています。

“汝の敵を愛せよ”ができますか。

2009年01月21日 | 羊の群れ
 今回のSouth Bay Cellでは、お客様をお迎えしました。サスカチュワンというカナダの真ん中にある州にある神学校で2年程過ごし、日本へ帰る前に立ち寄ってくださった泉さんです。(私にとって)聞いたこともない、(私にとって)いつまでも覚えられない地名の通り、学校に日本人は2人だけ。そこで英語と聖書を2年程学ばれたそうです。一番学んだことな何ですか、という問いに、「孤独の中で神様を一番とすること」という答えに感動しました。

 孤独が好き、と言っても、絶対的な孤独に、人は寂しさ、心細さを覚えます。神様が創られた通り、人は「愛」という関係無しに生きていくことは適わないからです。自分ではどうしようもない独りの環境で、神様に会うことができる、と彼女のお証しから感じました。今回は3つの礼拝のアプリケーションをそれぞれシェアすることになりましたが、彼女のお証しは、GNSの「人には不可能なことを可能にする神様のパワー」、そして他の2つ「試練に乗り越えて、パートナーに再会する時に現れる神の栄光(Ⅰペテロ1:7)」、「感謝と展望(フィリピ3:13-14)」に共通するひとつの答えへ導いてくれたように思います。

 「引き出しの中の真理」とタイトルされたGNS礼拝では、聖書でも有名であり、難解で、しかし源である「汝の敵を愛せよ」という御言葉を検証しました。知っているけど、引き出しの奥深くに仕舞っている御言葉がいくつもあります。イエス様が、人間としてこの世界に降りていらして愛を実践されたように、私たちキリスト者にとって必要なのは、自分の内に蓄えて、持っていることに満足しているだけの真理でなく、それを取り出し、見つめ直し、その美しさを分かるように見せること、使うこと。敵を愛するなんてできない、と頭で思っているだけでなく、神様が仰るなら、それが神様の助けによって可能だと知ること、そして信じてやってみること。そうして、私たちは「愛する」ことを学び、成長していくのです。子供は本を読んで歩けるようになるのではありません。お父さん、お母さんの助けと家族の支えによって、歩き出し、育っていくのです。South Bay Cellがそんな励ましの場であることを感謝し、そしてますます神様の声に聞き従っていくつもりです。

※写真:泉さんと、連れてきてくれた順子さん。

2009年だよ、全員集合。

2009年01月14日 | 羊の群れ
神様を人生の主とした「楽々クリスチャンライフ」7か条

人を恐れなくなる。
人は知らずと人の目を気にし、人を恐れて、自らの人生を狭めている。人を恐れず、神を畏れるべし。「楽々クリスチャンライフ」第一条。

世の中のことに振り回されなくなる。
世論、流行、ゴシップなど目まぐるしい現代でも、神様を見上げれば苦しくない。これが「楽々」第二条。

怒りすぎなくなる。
人間ならば怒りはある。が、罪に至るほどの過大な怒りはない。何故?赦されているからだ。赦しを知って、さあ「楽々」。

欲張りすぎなくなる。
ほんとうに大切なものは、目に見えないもの。見えるものは、続かない。家があって家族があるのではなく、家族があってこそなのだ。欲張って得られるものではない。それを知っているから、はい「楽々」。

ネガティブなことを考えすぎなくなる。
全知全能の神様がお父さん。どうしたらよいか、何が必要か、お父さんに頼めば、願いは聞かれる。だから「楽々」第五条。

現実離れではない。
この世界も人間も神様が創られたもの。働くこと、生きること、愛すること、すべて神様が教えてくださっている。逆行する罪の世界から離れても、現実から離れる必要はない。「楽々クリスチャン」は良き証し人。

所有物、認知度などによる高慢がなくなる。
神様からの恵みは、思う以上に素晴らしい。それが「楽々クリスチャン」が受け取るべきもの。でも、それらは恵みだと知る時、謙遜になるしかない。「楽々クリスチャンライフ」第七条完結。

 年末帰省していた仲間が帰って参りました。2009年初の全員集合SBCは、1月生まれの私のお誕生日を祝って、お夕食セルとなりました。用意してくれた皆さん、ほんとうにありがとう。そして、呼び寄せてくれた神様に、何よりも感謝です。

 今週のメッセージから、「楽々クリスチャンライフ」7か条をシェアしました。なかなかできないこともあるよね、と意見がありましたが、セルの内で、そして教会の中では、この7か条は生きています。恐れる人はいないし、世の中に振り回されず、怒り過ぎず、欲張らず、悩まず、日常生活の証しをして現実離れせず、何を持っている、何を知っているという高慢もない。この場をもっと広げていくことが、セルの今年の目標です。

 教会(セル)は、神様が人を呼び、人が神様を呼び求めるところ。今のメンバも神様に呼ばれ、集い、御声を呼び求めています。そして、「楽々クリスチャンライフ」の原動力として、皆で励ましあって行きたい、そして周囲を励まして行きたいと思います。皆さん、今年もよろしくお願いします。(睦美)