きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

変装

2009年11月23日 | 羊、朝の一声


母がしばしば教えてくれた言葉に「天知る、地知る、我知る」がある。これは聖書からではないが、今朝のテキストタイトルを見て、ふと思い出した。タイトルは、「神の目はごまかせない。」

攻撃を望み、そのための同盟を結び、神の言葉に逆らってでもその望みを貫こうとしたアハズ王は、実際攻め入る段になって変装した。本当の姿を偽った。「保身」のために。誰でも自分の身を守りたい!と思う。しかしそのために嘘や誤魔化しで自分自身を変装する、偽るほどの望みなのか?それで望みが叶って、偽の姿のまま心から喜べるのだろうか。

社会生活では、本音を隠さなければならない状況がある。それはわかる。でも、それが人生のすべてになったら、それはあまりに悲しいことだ。嘘で固めた人生は、嘘でしかないのだから。天より広く、地より深く、自分自身よりはっきりと、ほんとうの姿を知っているのは、創り主の神様。神様の目をごまかすことはできない。真実の神様は、何よりも真実を愛される。私の真実の姿を、真実の人生を、そして真実の心の叫びを。真実に生きるために、真の集まりである教会がここにある。





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喜びと平安

2009年11月19日 | 羊、朝の一声
今週の礼拝で、平安と喜びは信仰によってもたらされる、という第一ポイントを聞いた。人生順風満帆なら問題はない。いつでも神様を賛美できるし、人に優しく、自分も大切にすることができる。でも、そうでなくなったら?

病気、経済的困窮、人間関係の破綻。そんな時、人は何によって平安と喜びを得られるのか。問題が解決されれば、と答える人がいる。しかし、病気や人間関係にしても、どうしようない問題、解決しようのない問題は、残念だけど確かにある。死もそのひとつだ。『すべてが崩れ去る時、あなたは何をしますか。』 今日の黙想エッセイの一言を考えた。

聖書の姦淫の女の話を思い出した。恋人と快楽の時だったはずが、突如現場を押さえられ、丸裸同様で町中の晒し者にされ、一緒にいてくれるはずの彼の助けはなく、周囲至るところから冷たい敵視、蔑みと好奇の目を向けられ、惨い石打刑の挙句の“死”が目前に迫る。すべてが崩れ去るその瞬間、彼女は何をしただろう?絶望のどん底で彼女がしたことは、目を上げたこと。もう何も見たくない、顔を上げたくない、このまま“死”へ堕ちる覚悟すらし、それでも”生きる”思いに導かれて見たのは、自分と同じ目線にいて見つめる神様の姿。

すべてが崩れ去ると思うその時にこそ、私たちを創り、この世界を創り、万物を創り上げた神様に戻ろう。振り返って目を上げて見よう。神様はいつでも、立ち返る者の手を取ろうと傍にいてくれる。背を向けてしまった私たちを見守り続けていてくれる。崩れるすべてを立て直す力をくれる創造主がいらっしゃる。その確信が希望だ。『たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える。』その希望に生きていたルターは、この言葉を残した。





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ベストを尽くす

2009年11月17日 | 羊、朝の一声
今朝、心に響いた一言。『神は、完璧な人ではなく、弱さの中にとどまる人に恵みを与えてくださいます。』

昨日書いた親子関係でも、「私、これできるもん!」「放っておいて、私がしているの!」と、子供に手出し無用を宣言されると、親としては見ているしかない、かもしれない。(親になっていないので、推測です。)でも、「お母さん、ダメだった。。。」「お父さん、できないよー。」と自分にはどうしようもない弱さを嘆く子供に、ホレ見たことか!と突き放す親はいないだろう。誰でも、「よし、お父さんに任せておけ!」になるはず。それが親子。

しかしその泣き言も、子供がテキトーにやった結果だったら?自分がすべきことにも手をつけないで、ただ「ダメ」「できない」「やって~」と泣かれて、手を貸すのは親の務めではないと思う。「完璧主義」と「ベストを尽くす」、この二つの意味は全く違う。完璧主義を目指すのは、ある意味、自分が完璧と思う限界を設けること。自ずとそれは、自分の思考行動の想定範囲内になる。そして、ベストを尽くすことは、自分の持てる力を余すことなく使い切ること。そこに限界はなくなる。人はたゆむことなく成長を続け、精一杯の行動に追いかけるように、守ってくれる方から励ましと力が注がれるからだ。木がどこまで伸びよう、と考えて根や枝を伸ばすのではないように、人間もただ生きることを望み、成長を願い、弱さを知りながらも今一瞬のベストを尽くすなら、尽きることない恵みの雨が注がれ、果てしない「ベスト」に辿り着くことができるのだ。





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親子関係

2009年11月16日 | 羊、朝の一声
あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。

アメリカへ来る前に、血液検査を受けた。父がO型、母がB型と聞いていた私は、それまでの四半世紀、O型と思い込んでいた。A型だという検査結果から学んだことは二つ:思い込みは恐ろしいということ、そして事実はテレビドラマのようにはならないということ。O型とB型の両親から生まれるはずのないA型だと聞いても、「この人たちは両親でなかった!」とは微かにも思わなかった。例え生物学的に証明できなくても、私たちは「親子」だと疑わなかった。「親子関係」は、生物学や知識を超えて確かに信じられるもの、信頼できるものなのだ。

今朝の聖書箇所にあった上の聖句を見て、ふとこのことを思い出した。そして、微塵も疑うことなかった日本の両親と共に、天のお父さんのことを思った。遠く離れている両親とは1年に一度くらいしか会わないが、ずっと「家族」だ。泣き言を言いたい時、困った時、嬉しさを伝えたい時、お互いが必要な時はいつでも、家族が支えてくれていること、そして私も彼らの傍にいることを知る。同時に今は、天のお父さん、神様も同じように見えなくても傍にいて、聞こえなくても語っていて、私が求める時には確かに現れてくださることを知っている。

親はいつも子供と一緒にいてくれる。物理的にはどうあれ、心はいつも寄せている。そして、子供が親を求める時、必ずその前に現れ、手を差し伸べてくれる。天のお父さん、神様もそんな方。私という子供を愛し、見守り、助けてくれる、そんな方なのだ。ただ、その存在を認め、その関係を守りさえすれば。





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試練

2009年11月14日 | 羊、朝の一声
 「神は、耐えられない試練を与えない。」今、人気のテレビドラマで出てくる言葉だそうだ。一般に登場する聖句を聞くのが決して嬉しくないわけではないが、一番大切なのは、その「聖句」をきちんと理解して、その言葉を口にするのかどうか。耳にすることができるかどうか。神様は何を思ってその言葉を残してくださったのか、を正しく知ることだ。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

 これが「神は、耐えられない試練を与えない」に続く聖句だ。耐えられない試練が与えられないのは、真実な神がそこにいらっしゃるからだ。そして、問題になっているものが、ただの苦しみではなく、成長するための「試練」としてくださる守り、逃れる道がそこにあるからだ。それを信頼しないままでは、いつか耐えられなくなるのは間違いない。

 今朝の聖書箇所のタイトルは、「神の民の勝利」。真の神を信頼する人々が、神から離れて財力戦力を得た大軍に打ち勝つところ。勝敗は、「神様を知り、信頼する」ことで分けられた。敵軍は、知略と戦力を以て前から後ろから、倍の軍勢で攻める。その時、私は何に信頼するだろう。どこに逃れる道を求めるだろう。この答えは、ただ一つしかない。そして、ふと松山美穂子先生のお話しを思い出した。神様に信頼した時の勝利がここにもある。





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何を求めて生きるのか

2009年11月12日 | 羊、朝の一声


 今朝の聖書から思わされたことは、「何を求めて生きるのか」ということ。人生の最後の最後まで、大切に追い求めるものは何だろう、ということ。

 先日亡くなった祖母は97歳だった。同じ年までこの世の生を歩むかどうかわからないが、人生80年として前半の半分は過ぎた。十代・二十代・三十代が過ぎ、そこでたくさんの“財産’”を得た。家族、人間関係、スキル、知識、そして信仰。幸か不幸か、ほとんどが形ないものだ。形あるものが不要と思っている訳ではない。みんなで住める家があればいいな、と思うし、あまり苦労を感じたことがないからこそ、お金の大切さも知っている。しかし形あるものは、まず、人生の最期までは追い求めない。それを持って旅立つことができないから。

 では、今を含む人生の後半、何を追い求めて生きるのか。築いた財産を守って生きる?今ある大切な財産、家族も友人も最期の時に付き合ってもらえない。スキルも知識も、肉体と共に、あるいはその前に無くなってしまうだろう。人間が死んで尚、在り続けられるものは、心であり、霊だけだ。人を愛する心、慈しむ気持ち、思いやり。聖書には、霊が結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制だとある。一瞬で生るものではなく、努力でどうにかなるものではない。だからこそ、人生の最後の最後まで、追い求め、この世の生を全うする意味を持たせるものなのだ。そう思った。




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再構築

2009年11月11日 | 羊、朝の一声
 『ほんとうに大切なものは、失った時にその価値を知る。』と昨日書いた。そして今日思わされたのはその逆のこと。つまり、「失ってその無価値を知る」。私にとって大切で、手放すことなどとんでもない!と思っていたものがなくなった時、実はそれは自分にとって意味がなく、場合によっては悪い影響を与えたものだったと知ることがある。何だ、もっと早く捨てるべきだった、と思わされることがある。

 手放せなかったものを失った時、大切と思っていたものが壊れてしまった時、その空いた手ですることは「再構築」だ。ある意味では、ゼロからの出発より難しいかもしれない。再構築のためには、自分の内の必要と不要と見極めなければならないのだから。でなければ、せっかく再構築しても同じことがまた起き、また壊れ、また痛い思いをしてしまう。それでもしなければならない「再構築」、それが人生であり、人間関係であり、そして信仰なのだと思う。





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天国と地獄の証し

2009年11月10日 | 羊の群れ
 セルのメンバーと松山先生のお証しをシェアしました。そして、もう一つの証しも聞きました。レイプされて心が病み、何度も自殺を図って生きているとは言えない状態にあった女性が、教会で祈ってもらって、やり直しの人生を歩み始めることができたというものでした。彼女は、「私は地獄を知っています。そして、今が天国にいることも知っています。」と仰ったそうです。

 松山先生も、その彼女も、ご自身の「地獄を見たような」お証しから、それを聞いた人に「天国への道」を示してくださいました。それが証しの力です。証しの前提となるのは、相手を思う誠意と熱意です。レイプされた彼女は、あまりの辛さに家族にすらそのことを相談できなかったそうです。自分の家族や友人が、実はどれだけ苦しんでいるか、どんな地獄を見ているか、私たちにはなかなかわかりません。でも、どんな時でも、天国への道を指してくれる証しは必要とされるのではないでしょうか。神様が差し向けられた時であれば、尚更です。

 松山先生が多くの人の前でお証しされることは稀なことで、ご一緒に来てくれたお嬢様にとってすら、思いがけないことだったそうです。そのお証しが、私を、そして教会の多くの人を力づけ、証しすることの素晴らしさに気付かせてくれたのは、神様がそれを望んでいらっしゃったからに違いありません。一人でも多くの人を、天国へ招き入れるために。それが神様の御心です。SBCでは、神様が私たちにくださった贈り物をお見せします。ぜひ火曜日夕方、サウスベイまで見に来てください。

松山先生のお証しのあらすじはこちらをクリック!
    ↓
http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation





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ほんとうに大切なもの

2009年11月10日 | 羊、朝の一声
 ほんとうに大切なものは、失った時にその価値を知る。その時、人は何を求めるだろうか。取り戻すこと、「回復」を何よりも欲するだろう。もはや取り戻すことができないと心のどこかではっきり知りながらも。。。そんなどうしようもない喪失感の中で、適うはずなく、しかし求めずにおられない「回復」を祈る中で、そんな時だからこそ見つける真理がある。

 今朝の聖書では、主を尋ね求める者たちが、住んでいた土地を離れ、エルサレムに戻り来る様子が書かれている。大切なものを失ったからこそ、もう二度と失わない。自分の持つ何かを手放すことになっても、これだけはもう失いたくない。今だからこそわかる、この素晴らしさ、尊さを。そんな思いは、喪失感を経てこそはっきりと感じられるはずだ。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ10:39)




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2009年11月09日 | 羊、朝の一声
 人生は、いつも無駄なく、筋道が通って真っ直ぐで、ゴールへ向かって一直線!というものではない。道に喩えれば、すっきりフリーウェイではなくてゴツゴツした山道や林道で、列車に喩えれば、最速新幹線ではなくてゴトゴト鈍行列車で、車に喩えれば、フル装備のスポーツカーではなくてたくさんの余計なものを積んだ軽トラック、そんな感じに思うことがある。

 レハブアムは長老たちの知恵を退け、血気盛んな若者たちの助言にのせられて、イスラエル10部族からそっぽを向かれた。思いがけない展開にびっくりして、自分の町、エルサレムに逃げ帰り、その後、気を取り直して10部族を武力で屈服させようと大軍を率いて出兵する。さあ、敵を叩き潰すために一直線!というその時、目の前に現れた一人の人の言葉で、おとなしく家に帰ることになる。

 物語として考えるなら、彼の行動はとっても非論理的。何がしたいか、はっきりしろ!と言いたくなる。でもふと考えると、自分の人生もそんな部分がたくさんある。行ったり来たり、あっちこっちうろうろしたり、なかなかまっすぐ一直線、ゴールへ向かってまっしぐら!ということにならない。そんな私のグネグネ道に神様という目標ができた時、道はまっすぐになる。

常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言3:6)

 まっすぐな道を歩くということは、ずっと先が見えるということです、と牧師先生に言われたことがある。今歩いているこの道が行き止まりになるのか、先に障害があるのか、ゴールは光り輝いているか。それがわかる道がまっすぐな道。レハブアムは多くの長老たちの言葉には耳を傾けなかったが、神様の声に従った。彼の良心に従った。何よりも神様の声に従うなら、この道はまっすぐになり、目的がはっきりと見えてくるのだろう。





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