きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

きょうの教会「棕櫚の日曜日」ごはん

2015年03月28日 | 羊のご飯


復活祭イースターが近づいています。イースターは、クリスチャンにはとても大切な日。最近日本でも、ウサギとかひよことかパステルカラーとか、まったく別の方向でイースターが取り上げられていますが、復活祭は魂の喜びの日なのです。ということで、きょうの教会ごはんも、いつもの食べ物話でなく、イースターについて書こうと思います。この日曜日は「棕櫚の日曜日」と言って、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城し、民衆が喜び迎えたことを記念する日です。マルコ伝にはこうあります。

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。




民衆が道に敷いた枝が棕櫚の枝だったため、枝の主日とも呼ばれ、アメリカではパームサンデー(Palm Sunday)です。「王の凱旋」を喜んだ民衆の歓声を聞きながら、イエス様はその先のことを御存知でした。そしてこのたった5日後に、同じ民衆の怒声の中、イエス様は十字架に架けられてしまうのです。

今週のメッセージは、「悪魔の正論」として語られ、その中で自分自身の内に潜むほんとうの動機について考えることになりました。ペテロは「他の誰が躓いても、私は躓きません!イエス様にどこまででも付いて行きます!」と豪語しましたが、その奥底にそういう自分に酔う自分、仲間を出し抜こうとする思いがいなかったでしょうか。私たちも同じです。確かに正論、正しい言葉を口にしますが、そこに「愛」(NOT 自己愛!)があるでしょうか。民衆の一時的な、あるいはノリの歓声状態ではないでしょうか。一般には「受難週」と呼ばれるイースター前の1週間は、クリスチャンのイベント週間ではありません。あなたはイエス様の十字架に、本心どう思うか、何を思うか、を黙想する時です。「知ったことではない」かもしれません。ヘンなごまかしをするくらいなら、その本心でOKです。本心にこそ、神様は語られます。だから、どんな思いであっても、1週間の内の一瞬であっても、あなたのイエス様への思いをきちんと考えてみる時を持ってください。そしてこそ、イースター、復活祭をほんとうにお祝いできると思います。あなたの復活祭を心よりお祈りします。

「全ての人に要請されている最も重要な決断は、心の底からイエスキリストに対する態度を決断することである。
一切のことがそれに懸かっている。」BY ヘンリー・ハーレー


ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。一緒にご飯を食べましょう。心の食べ物も用意しています。えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を受け取ってほしいのです。 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI


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心(KOKORO)ごはん:「怒り対処法」から

2015年03月27日 | 羊の声
聖書は少年法について何と言っているのか、子供は罪を犯しても許されるのか、今の世相を反映した質問が牧師に投げかけられる。少年犯罪の相次ぐ昨今、日本では少年法改定、選挙権年齢の引き下げの動きがあり、巷では喧々諤々と議論が交わされている。

18歳未満を「児童」と定義し、その権利を包括的に定めた国際条約によって、児童に死刑は適用されていない。この国際条約に批准している多くの国で、18歳未満は死刑にはならない。現在の日本では、性別を問わず満20歳以上の者が「成年者」とされており、それ以下の「少年=未成年者」には、原則的に刑事処分ではなく保護更生のための処置、量刑の緩和などの配慮が規定され、「少年法」で定められている。が、成人に達する年齢は、世界的にメジャーなのが18~21歳で、統計によると18歳が圧倒的に多い。同時に刑法でも18歳以上に死刑が適用されることになる。

昨今の議論の中、その筋の専門家の意見として、少年犯罪抑制のための3つの力が挙げられていた。が、日本を代表するような犯罪学権威のご高察に対抗し、一民間牧師えんぢぇるのシニカルな反論がある。

羞恥心:他人の目を気にして止めておこうという意識によって抑制される。
「恥」の意識と「罪」の意識は異なる。罪意識は、人を悔い改めに導く入口になり、改善への姿勢を生む。しかし、知られたくないことを知られてしまった故の恥意識は、まず隠そうとする意識から自分の内側に向けられ、多くは自己防衛から引きこもり、あるいは最悪自殺に発展する可能性が強い。また、恥意識として外側に矛先が向いた場合、家族や社会に対して犯罪に走ることになる。

罰に対する恐れ:処罰の厳格化によって抑制可能。実際に飲酒運転は、厳罰によって半減した。
受刑者に対し、その人が犯した犯罪によって被害者家族や周囲の人、社会の痛みをしっかりと示してわからせる、というプログラムを試したところ、逆に再犯率が高まる結果となった。このプログラムによって、「人をこんなに不幸にした自分が幸せになる価値などない」という意識が最も強く植え付けられたからだ。セルフイメージの否定&破壊は、そのまま否定的破壊的行動に繋がる。劣等感は決して人を立て上げることはない。

絆:家族、友人との絆があれば、犯罪抑制に効果がある。
正論すぎるほどの正論。しかし、正論は役に立たないことが多い。絆とは、家族のように、何が起ころうと決して崩れない関係のことだ。しかし、震災ですべてを一気に失った人と、第三者的な意識しかない人との間に絆が成り立つはずもない。人として、生きるために絆は必要だ。しかし、だから持て、と言われて簡単にできることではない。

少年法は、未成年者の人格の可塑性に着目するが故に作られている。また一つ一つの事件で、本来見るべき点は、年齢や何をしたかではない。少年であれ、成年者であれ、その動機においてそれが人間成長における未熟さ故なのか、人格的欠陥の故なのか。対処はそれによって変わるはず。そしてクリスチャンであれば、知っている。誰もが、同じ状況にいつ何時立つかわからないことを。犯罪も日常生活の小さく見える事件も、その要因は「怒り」という誰もが持つ感情から起こる。今や世界中に怒りが渦巻いている。そしてその渦は、平凡な生活を送っているはずの私たちをも巻き込む。わかっていても制御が困難な「怒り」は私たちが常に対処しなければならない切実な問題なのだ。

怒りの以下の4つに起因している。Hungry(飢餓感)、Anger(怒り)、Tired、(疲れ)、Stress(ストレス)。それぞれの頭文字をとってHATSと覚えられる。必要が満たされない時、大切にされていないと感じた時、疲れ果てた時、過大なストレスに、これらマイナスエネルギーが蓄積され、何かの拍子にその導火線に火が付き、爆発する。怒りと悲しみは表裏一体の関係にある。しかし、悲しみ要因は誰も大差ないのに対し、怒りは人によって非常に様々で複雑だ。あの人は何故あんなことで起こっているのか?と感じることは少なくないだろう。というのは、怒りと言うのは二次的感情であり、潜在意識の中に蓄積されたある感情によって二次的に起こるものだからだ。爆発の凄まじさに、しばしば火のついた導火線にばかり注意が注がれるが、実は爆発するのは導火線ではなく、その先のダイナマイトだ。それこそが、怒りの原因である第一次感情である。

例えば、夜遅く帰宅した娘に父親が怒る。「何故、こんなに遅くなったんだ!」この怒りを表した言葉の奥には、娘を心配する心、愛情がある故だ。しかし厳しい言葉で耳に届いたばかりに、娘は反撃。更に言い返して怒りの爆撃応酬となる。こうなると手が付けられない。夫婦でも、友人でも、類似の経験は一度はお持ちだろう。、世の家庭内戦、社会戦争、そして教会内紛争然り、これで怒りを繰り返している。

人生、寂しい、哀しい、辛い、期待はずれ、何で分かってくれないの!?の連続である。だが、それでいちいち爆発していたのでは、いくら体があっても持たない。そういった感情を制御出来るようになるのが、「大人」になると言うこと。何が自分をそうさせるのか?その自分の一次感情を、一度自分に問いかけ、そこを辿ってみると大抵はそこには何か深い根っこがある。その人が何に対して怒るのか?という所に、その人が本来解決すべき問題が潜んでいるのである。

安全な人生を送るための指南書とも言える箴言には、多くの怒りに対しての警鐘となる御言葉がある。

短気な者は愚かなことをする。(箴言14:17)
忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。(箴言14:29)
穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる。 (箴言14:30)
激しやすい人はいさかいを引き起こし 忍耐深い人は争いを鎮める。(箴言15:18)
激しく憤る者は罰を受ける。救おうとしても、あおるだけだ。(箴言19:19)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。(箴言29:11)
怒りやすい人はいさかいを引き起こし 激しやすい人は多く罪を犯す。 (箴言29:22)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19-20)

聖書は怒り自体を罪とはしていない。イエス様も怒られた記述もある。しかし、問題は怒りをどう表すかにによっては、そこに罪が生じることがあるということだ。ということで、怒りに対する7つの対処法伝授!

7秒耐えて祈る!
瞬間的怒りの持続時間は6秒だそうだ。怒りがこみあげたら深呼吸して、心を落ち着かせて7秒祈る。

その場を離れる。
怒りの対象を目の前にしたままでは、収まるものも収まらない。怒り爆発の寸前、真っ先にすべきはひとまずその場を離れること。衝動的な行動を起こさずに済む。

怒りはその日のうちにおさめ、翌日に持ち越さない
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

怒っている時に重要な判断をしてはならない。
怒りの最中は正常な精神状態ではない。一旦口にした言葉は、簡単に取り消すことができない。

怒ると叱るは違う。
親が子に対し、叱ってもよいが、怒ってはダメ。叱るは教育だが、怒るは感情。怒ると叱るがこんがらがっていては子供に伝わらない。

怒りの代償は高くつく。
人前で起こるのは、感情制御できない子供と同じだ。その代償は高い。

私の怒りは正しいのか?再チェック。
怒っている人の頭の上には、「私は正しい」の錦の旗が堂々とはためいている。が、それは正しいことか?感情に支配される前に、なぜ憤っているのか?をチェックするのは賢明だ。

言うは易し、行うは難し。怒りのコントロールは難しい。しかし難しいことだからこそ、そこに神様の救いを求めることができる。誰もが怒りから解放される必要がある。過ちを犯した時、「お前はもうダメだ。生きていられないよ。」と囁くのは悪魔。私たちの主、イエス様は、こう仰る。「確かにお前は間違いを犯した。でも、お前の罪はすべてわたしが肩代わりしたんだよ。さあ、安心して行きなさい。」怒りは必ず制御することができると確信を持つこと。そうすれば、あなたは命を得るのだ。あなたのすべての過ち、怒り、涙の理由は、すでにイエス様が代わりに背負ってくださった。このことに信頼し、解放の人生へ今、歩み出そう!

ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。聖書のみ、恵みのみ、お食事付き!毎週土曜朝に、集まって祈り、分かち合いの時を持っています。一度でも、「教会って敷居が高い。。。」と悩んだことのある方、ぜひこちらへ!教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。ただそれだけを目指して、小さな群れながら、神様を礼拝します。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI



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きょうの教会ごはん 困った時のサンドイッチ

2015年03月21日 | 羊のご飯


教会ごはんの定番と言えば、カレー、野菜スープ、そしてサンドイッチ。困った時は、定番に戻る!中でもサンドイッチは、前日に用意する時間がない時に最適メニューです。カレーやスープなどの煮込みものは、一晩置くことで美味しさアップというメリットがありますが、サンドイッチは逆に、とにかく作り立てをすぐいただくと美味しさ倍増です。定番はフレンチブレッド使いですが、今回は日本風の食パンサンドイッチが恋しくなって、ちょっと手をかけてみました。

具材のハム、チーズ、菜っ葉、トマト、アボカド、そして飲み物のオレンジジュースは、近くの「トレーダー・ジョーズ (Trader Joe's)」マーケットにて入手。在米日本人間では、「トレジョ」と呼ばれ(もちろん、アメリカ人には通じません。)、日本人観光客にも人気のお店です。プライベートブランドのオリジナル商品と、グルメなお惣菜サラダ、デリ食品が特徴。私がアメリカに来た当時、20年前はまだ「地元のかわいい食料品屋さん」風情でしたが、この10年程で、オーガニック食品の注目の波に乗って、今や業界でも注目のお店。教会のあるグレンデールにも、新店舗がオープンしたばかりです。因みに私は20年前から変わらないガリ版刷りのようなチラシとトレードマークのレトロなイラストのファンです。




サンドイッチに添えたサラダはこれ。初挑戦でしたが、美味しかった!


これも教会ごはんの超おススメ。冷凍のパイですが、1時間くらい常温に置いて、
つまりメッセージの後くらいに、ちょうどよい具合にいただけます。


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小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:32)


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心(KOKORO)ごはん:「心の復興」から

2015年03月20日 | 羊の声


東日本震災から4年が経った。教会でも被災地を訪問しているが、メディアを通しての見聞と、その場を訪れて実際に五感で感じることとは天地の差がある。「百聞は一見に如かず」という有名な故事の続きを御存知だろうか。

「百聞は一見に如かず」「百見は一考に如かず」「百考は一行に如かず」「百行は一果に如かず」

と続く。つまり、聞くことより見ること、見ることより考えること、そして考えることより行動することが大切だ。いくら考えて見たところで、実行しなければ何にもならないのだ。そして、その成果を得ることが最後の目的。実際、いざ自分が一歩進んで実行する人はごく僅かで、ほとんどの場合は、忙しない日々の生活の中で出来ない理由を前に立ちすくんでしまう。しかし、出来ることはある。現実をどう受けとめ、それをいかに将来に活かしていくか。ここに人生のポイントがある。

震災は決して対岸の火事で済まされることではなく、日本の縮図だ。誰もが、いつ何時同じような災害に遭うかもしれない。南海トラフが30年以内に起きる可能性は、実に70%というのが専門家の意見で、つまりは時間の問題ということになる。被災者も、2011年3月11日の朝、まさか午後に大地震と津波が自分たちを襲うとは、考えていなかったはずだ。この数週間で、今は終末の時というメッセージを繰り返しているが、これまでにない苦難があると聖書は確かに預言しているのだ。教会はこの誤りのない聖書の真実な、そしてシリアスな言葉を人々に伝えて行く使命がある。人は誰でも、大きな局面に直面する時があり、何よりも人間が死ぬ確率は、例外なく100%。その先の世界について、はっきりとした現実を示すのは聖書以外にはない。

人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(へブル9:27)

死は厳粛な事実であり、現世での、あなたの選択と判断によってその後の裁きの行方が決まる。だからその前に「天国」(=ほんとうの救い)と「地獄」(=ほんとうの滅び)を知らなければならない。和を尊ぶ日本人は、死後も同じ場所に行くことを望む。気持ちはわかりすぎるくらいわかる。が、押さえるべき以下のポイントを考えてみよう。

人間の本質は霊であるから、肉体が滅んで終わりではない。が、草葉の陰という世界には根拠がなく、その世界は存在しない。死後、霊は「見守っている」状態にはない。

天国は光の国。一方、地獄では光が遮断された完全なる闇の世界。光がないから見ることができず、同じ場所にいても互いに認知はできない。つまり天国以外に、死後に再会できる場所はない。

もし、先に逝かれた愛する人が天国でないところにいたとして、その人は愛するあなたを同じ場所に来てほしいと願うだろうか。あなただけは助かってと願い、それに応えるのが愛だ。

では、なぜ聖書の神様が真の神様と言えるのか?これも聖書はロマ書で応えている通り、この世の自然、被造物を見る時、宇宙の構造を考える時、すべては誰かが何かの目的によってデザインし創ったとしか考えられない。多くの科学者も、知識を得るほどに「何かしらの偉大な力(Something great)」の存在を確信していく。しかし知恵ある彼らも、その存在証明には至らない。証明できないことこそ、神様の意志だからだ。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(Ⅰコリント1:21)

聖書では、しばしば信仰を結婚に喩えている。どちらも理解とか証明ではなく、信じるという能動的態度に懸かっているからだ。例えば、この人と結婚したら一生安泰でお金に困らないから結婚します、というのは結婚ではない。営利的取引だ。神様との関係もまた、神の存在が目に見える形で明らかになり、その利益故に信仰を持つことがないように、神様によって定められていることだ。でないと、偽装結婚を求める仮面夫婦志願者ばかりになってしまう。そんな偽りが溢れる場所が天国のはずがない。天国行の切符を得るには、資格も条件も必要ない。ただ信じることによってのみ、手にすることができるのだ。

マタイ13章には天国の喩え話が3つ書かれている。畑に埋められた宝、海で見つけた真珠、そして、網の中に集められた魚のより分け。ここから学ぶことは、

天国という「宝」は、持っているすべてのモノを投げ出しても手に入れるべきもの。
宝を見つけたら、すぐに自分のものにすべき。明日では間に合わないことが人生にはある。
宝の価値を知ること。蔑ろにして後でくやしがっても、時すでに遅し。手遅れになる。

震災から4年。今なお復興が立ち行かず、喪失感や悲しみに打ちひしがれる人にイエス様は、「がんばって、もっと努力すれば、復興できるよ!」と仰るだろうか?NO, NO, NO!山上の垂訓で、極貧で八方塞がりの人々には、「幸いなる哉!貧しき者よ。」と宣言された。ここで使われている「貧しい」という言葉は、もうどうしてよいかわからない、なす術のないような大貧困のこと。当時のイスラエルには、そんな厳しい状況の人が大勢いた。彼らが何故「幸い」か。「天の国はあなた方のもの」だからだ。イエス様の言葉に嘘はない。

確かに、復興にも生活にもお金は切実な要因だ。しかし、お金があれば大丈夫、と思っている間は、真の復興はあり得ない。お金はない、パンはない、どうしてよいかわからない、という人々が、どこに希望を見ることができるのか。現世だけの人生であれば、こんな不公平はない。生まれた時の境遇に甘んじて、諦めて生を過ごすしかない。しかし、人生は来世が統合された時、初めて意味を持つのだ。イエス様の言葉が、その希望に繋がっていく。イエス様によって現世と来世を合わせて、人生は真に充実したものになる。天国への切符を手にする所から、真の復興が始まるのだ。

 

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きょうの教会“春”ごはん

2015年03月14日 | 羊のご飯


春です!とは言え、ロサンゼルスはここしばらく30度超えの暑い日が続き、春を飛び越して夏になったかも?と思うほど。ロサンゼルスも聖書の世界、パレスチナ地方も、気候区分としては同類の「地中海性気候」です。パレスチナはもっと激しい両極端で、クリスチャン新聞のエッセイでは、「この地にあるのは基本的に夏と冬の2つの季節で、夏は乾燥して厳しく、冬もまた寒い。」と書かれていました。

更にそこに聖書には「春」という言葉がない、と書かれていてビックリ。早速チェックしました。「春」はほとんど「春の雨」という雨を伴う言葉で登場するのみです。「春の雨」は、実際には「後の雨」という意味の言葉であって、わかりやすいように「春の雨」と訳しているそうです。私たち日本人が「梅雨」とだけ言うのを、外国人は「6月の長雨」とか、「夏になる前の季節的な雨」と説明っぽく言うのと同じでしょうね。確かに、「夏」と「冬」は聖書に登場しますが、季節としての「春」という言葉は見つかりませんでした。(口語訳では、新年という意味での春がいくつかありました。)

地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない。(創世記8:22)

あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。(詩編74:17)

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。(マルコ13:28)

しかし、「春」がない訳ではありません。冬と夏の間の短い時ですが、移行時期に「春」があり、「秋」があります。イスラエルでも、アーモンドなど幾種もの花が咲き、草が芽吹き、鳥が囀り、風が和らぎ、「春」が訪れます。雅歌ではその風景が美しく語られています。

ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
 花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。
 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
 恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。(雅歌2:11-13)

「春」という言葉はなく、でも「春」はある。その「春」は新しいいのちに溢れた時であり、愛しい人に会う時、そして過越の祭りの時で、刈入れの季節で、それを「後の雨」が知らせる。そんなことを考えた興味を惹かれる発見でした。睦美のちょっとした聖書アドベンチャー?

思わず興奮して前置きが長くなりましたが、「春ごはん」の雰囲気でちらし寿司に初挑戦。母が得意だったお料理です。母直筆のレシピを送ってもらって、トライしました。菜の花畑をイメージして、いり卵でしつらえました。黄色味にかけ、満開っぽくならなかったのはご愛嬌。



ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。牧師なし、会堂なし、聖書のみ、お食事付き!毎週土曜日朝に、集まって祈り、分かち合いの時を持っています。一度でも、「教会って敷居が高い。。。」と悩んだことのある方、ぜひこちらへ!教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。ただ、それだけを目指して、小さな群れながら、神様を礼拝します。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI


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心(KOKORO)ごはん:「神の40年」から

2015年03月13日 | 羊の声
40年周期説というものがあるそうだ。明治維新からの近現代日本では、約40年毎に栄枯盛衰が繰り返されているというもの。

 明治維新から軍事大国になるまでの上昇期:1868-1905
開国し、明治維新の後、日本は世界の大国を相手に戦争を続け、次々と勝利。1895年の日清戦争、1905年の日露戦争での勝利で、日本は「軍事大国」となった。

 軍事大国から敗戦までの下降期:1905-1945
「軍事大国」として一気に名を馳せ、国外進出を図るも、続く戦争で没落の一途を辿る。結果1945年、WWIIの敗戦、各地空襲、原爆投下で日本国内は廃墟と化した。

 終戦から経済大国になるまでの上昇期:1945-1988
敗戦後は、軍事力を捨て、経済中心に国力再建し、高度経済成長を成し遂げて世界第二位に至るまでの「経済大国」となる。

 経済大国から経済崩壊の下降中:1988-???
バブル崩壊、リーマンショックで下降線を辿る。

また上記区分での下降期半ばで、1923年の関東大震災、2011年の東日本大震災と、未曽有の災害が起きていることも共通している。更に、戦前にも1940年に東京オリンピックが予定され、戦争のために中止となっている。前下降期の終点5年前のことだ。それは、2020年に予定されている東京オリンピックとも、皮肉なことに、サイクル的にほぼ符合している。

では、この「40年周期説」に則って、次の転換期は2028年頃、あと13年後になるのか。まだ13年もの間、日本は停滞を続けるのか?その頃には、超ハイパー高齢社会になっており、国民の半分以上が就労不可能な状態にあると言ってもよいその時に?そして、日本は立ち上がることができるのだろうか。



40年周期説は聖書ベースではないが、聖書にも「40」は特別な数字、重要なキーワードとして、しばしば登場している。モーゼの羊飼い時代が40年、イスラエルの民が出エジプトから荒野を彷徨った40年、ダビデ王とソロモン王治世が40年、イスラエルがメシアを拒否して国が亡びるまでが40年。40日では、ノアの洪水、シナイ山でモーゼが律法をいただくまでが40日、約束の地の偵察期間の40日、イエス様の荒野での誘惑が40日。聖書では、「神様から試される期間」「訓練の期間」、つまり「新しいことへの準備の期間」という意味がある。

メッセージ後のアプリケーションで分かち合いをして気が付いた。私は信仰を持って10年余、つまり40年周期で考えると、前半上昇期半ば過ぎ、まだまだ行け行けドンドンかもしれない。またある人は、すでに20年以上の教会生活、ということは下降期に入っていることになる?また信仰ではなく、実際の人生では、1988年以降に生まれた今の働き盛りの方々は、生まれてからずっと下降を続ける中で、そして更にあと10年以上もこの停滞が続く中で生きるということか。そんなことがあって良いはずがない。神様はそれを黙認される方ではない。だから聖書にも40年が記されているのだ。

確かに40年周期は納得できる説のひとつかもしれないが、所詮たかが1度繰り返されただけのことだ。多くの人は、現在の価値観が未来永劫続くという暗黙の前提で生き、それに囚われてしまう。歴史をを学ぶということは、今後繰り返して起きるだろうことを予測する能力を持つためではなく、過去を知って今の生活に適応するためだ。過ちは二度と犯さないことを学び、それを活かした将来を創るためだ。だから聖書にも、数々の失敗の歴史が記されている。遥か先の13年後から始まる未来を憂うのではなく、今この時をどう生きるか、それが重要なのだ。必要なのは現実直視。

「日本に残された時間はあと20年しかない。日本人が物の考え方を根本から変えない限り、20年後日本は滅びる。一人一人の人間の覚醒と努力によって流れが変わる。」京セラ創業者の稲盛氏の言葉だ。これは真理だ。今、苦しい時代であったとしても、復活の時は必ず来る。そのためには、外の世界に向けて視野と行動を広げ、実際的な準備で備えなければならない。クリスチャンも然り。そのために、必要なこと。

人生を遂行する長期的展望
そのための5年先に向けた中期的展望
日々の生活の短期的目標

そして展望の軌道修正、バックアップのためには、

現実・歴史に対する深い認識洞察
聖書の御言葉の学び
聖霊の力

結果はある意味大切だが、それがすべてではない。ぶれない信念と信仰に立った人生の素晴らしさは、過程にあるのだから。そしてその過程、私にしかできない人生を為し遂げてこそ、結果が与えられる。あなたにあなたの人生をくださった、創造主、神様によって。





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きょうの教会ごはん プリム祭

2015年03月07日 | 羊のご飯
夏時間が始まります。すると、春はもう間近!先週は、イスラエルの最初の春祭り、プリム祭がありました。ユダヤ暦アダルの月の14日で、喜びのお祭りとされています。きょうの教会ごはんでは、麻婆茄子豆腐に加え、デザートにこのプリム祭のお菓子、「オズネイ・ハマン」=ハマンの耳、と呼ばれるジャムをフィリングしたクッキーを用意しました。

プリム祭は、かつてイスラエルの民がペルシャに捕囚の民となり、民族の危機に際した時のお話に由来しています。聖書のエステル記にこのことが書かれています。シナゴーグでも、またメシアニックジューの礼拝でも、全10章を朗読して祝うのですが、ここでは結末だけ抜粋。

それはアダルの月の十三日のことである。十四日には安らぎを得て、この日を祝宴と喜びの日とした。 スサのユダヤ人は同月の十三日と十四日に集合し、十五日には安らぎを得て、この日を祝宴と喜びの日とした。(エステル9:17-18)

イスラエルでは、このお祭りゆえに、アダルの月を「一年中で一番幸せな月」と呼び、仮装したり、お菓子を贈りあったり、ジョークを飛ばしたり、お酒を飲むなど、大賑わいの日となるそうです。流浪の民となり、史上多くの迫害を耐えてきたユダヤ人にとって、このお祭りは悲しみが喜びに、嘆きが幸福に変えられる、「終わりの時」に起きることの象徴の日なのです。

 


折しもこの時期、イスラエルのネタニヤフ首相が、米国議会での演説を行い、ユダヤ人の彼にとっては当然ですが、エステル記を引用していました。「現在ユダヤ人は、我々を破壊しようとする、もう一つのペルシャ権力者による企みに直面している。」と、テロを続けるイラン(かつてのペルシャ)には、甘い態度は有効でないと明言し、イランの現状を、世界に対して警告を発しました。そして「いずれの立場であろうとも、イスラエルを支持してくれるものと信じている」と締めくくりました。

この議会演説もあって、今年のプリムの祭ではイスラエルのために祈り、そのイスラエルを愛する神様に心を向ける時となりました。神様は、イスラエルとの独特な関係について語られ、イスラエルを祝福する者に祝福を、呪う者には災いが与えられると語っておられます。なぜイスラエルなのか、エステル記って何?と思われた方、いつでもお菓子を用意して、お話ししましょう。グレンデールの家の教会にお出でください。また、日本在住でこの辺りの事情をぜひ学びたい、という方は、えんぢぇる田中師までご連絡を!(info@goodnewsstation.com)



最後に、エルサレムからのニュースレターを引用します。神様の祝福をお祈りしています。

今、神の国にあるあなたの目的を知り、人生の優先順位を自信を持って定めたいと思うなら、主を求めてみてください。必ず答えてくださいます。主が与えてくださった道の、どこを歩いておられるにしても、すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈っていきましょう。

モルデカイがエステルに言ったように、私ももう一度、申し上げます。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:13-14)

シャローム


ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。一緒にご飯を食べましょう。心の食べ物も用意しています。えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を受け取ってほしいのです。「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI


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心(KOKORO)ごはん:「十人の乙女」から

2015年03月05日 | 羊の声


礼拝でも、聖書塾でも何度も語られている「十人の乙女」の話から。これは、マタイ伝24章のイエス様の終末論に続く4つの譬え話の内の一つ。イエス様が十字架に架かられる直前に、私たちに教えてくださった最後のメッセージ。言わば、イエス様の遺言とも言えるもの。そのイエス様の御心を決して見失ってはいけない!

タラントのたとえ、賢い乙女と愚かな乙女、忠実なしもべと悪いしもべ、羊と山羊、これら4つの譬え話のテーマは、一貫して『天国へ行けるか行けないか。再臨は必ず起こる。目を覚ましていなさい。』というもの。天国へ行けない(=行かない)人への状況は、非常に厳しく書かれている。が、内容としては決して難しいものではない。「光あれ」の神様の言葉から世界ができた、と信じるか信じないか、同様に、イエス様が最後に教えてくださった終末時への警告を受け取るか受け取らないかは、各自の判断次第だ。ただ、自分勝手な解釈をしたり、付け加えたり、薄めたりすることはしてはならない。しても意味がない。信じたことだけが真実なのではい。あなたの真実であっても、絶対的な真理ではない。信じようが信じまいが、真理は真理なのだ。真理は変わらない。

イエス様の譬え話を聞く時には、語られている状況・背景を知り、どういう状況で語られているかを理解し、それぞれの譬えの意味するものを捉えることが重要、と、えんぢぇる師に繰り返し教えられた(叩き込まれた)聖書解釈の原則に則って、十人の乙女を読む。この舞台は結婚式前夜。当時のユダヤ式では、子供の頃に婚約してから結婚式まで、長ければ10年以上も時間があった。そして結婚式は、譬え話の通り夜から始まり、式の後の披露宴は1週間程も続いたらしい。お式の当日は、花婿が花嫁のお家まで迎えに行き、会場として用意している花婿の家に連れて行くところから始まる。この譬え話のシーンそのままだ。そしてまた、花婿の到着が遅れることもよくあることであって、遅刻は問題ではない、

譬えている意味は、
花婿=再臨されるイエスキリスト
花嫁=譬えには直接登場していないが、教会
乙女=教会の信徒たち
灯=詩編119:105にあるように、御言葉
ほとんどの絵画、映像では、ランプを持つ乙女たちが描かれているが、実際の花嫁行列で屋外を移動する時は、屋内用照明のランプではなく、夜道を照らす松明を利用したそうだ。長い夜道を歩くための松明用の油を確保しておくこと。これは花嫁行列での備品なので、当然油も花嫁側、つまり「教会」が整えておくべきものだった、ということ。その油を手元に持っていたか否かが、乙女たちの命運を分けた。ここでの最大の問題だ。ではその「油」は何を指しているのか?

一般的伝統的(ここ曲者!)には、油=聖霊という理解が主流だ。しかし、油は聖霊のことではない。その理由1つ目は秀逸だった。私のアプリケーションで語ってみると、

睦美は唐揚げが大好物。いつでも食べることができるよう、家に唐揚げは常備してあり、睦美は唐揚げと一体になることすら願っていた。睦美は言う。「唐揚げは私を満たし、体の栄養となり、心に安らぎを与えてくれる。そう、唐揚げは私のお母さんそのものなの!」

と、公言したとしたら、さすがの「信友」も何人か距離を置いてしまうかもしれない。言っていることが、ちょっとヘンだからだ。唐揚げがお母さんになる訳がない。同様に、無機質の油を、明確な意思と位格を持つ聖霊様とを同列で考えるのは、失礼な話かもしれない。聖書では、王や祭司の任命式の意味を持つ「油注ぎ」を聖霊様に繋げて語られていて、それは「注がれる」ことに重きを置いて理解しなければならない。だから、安易に油=聖霊様ではない理由として、以下の3つ。

それぞれ異なる位格を持った自在者がひとつの実体となる、三位一体の神の理解において。
 売ったり買ったり貸し借りできる油と、位格ある聖霊様が同列のはずがない。

イエス様を信じた時、救いの証印として聖霊様が与えられるので、すべてのクリスチャンには聖霊の内在がある。
 愚かな乙女が婚礼の式に入れなかったのは、聖霊の内在がなく、信仰の欠如ゆえ。
 最後の審判では、クリスチャンが二つに分けられるのではなく、クリスチャンかそうでないかの二つに分けられる

私たち人間は、愚かで弱い。だから、イエス様は私たちを救うためにこの地上に来てくださった。
 そして悔い改め、救われた者に対し、聖書は「悪い者」「愚か」とは決して言わない。

 愚かな乙女も悪いしもべも、失敗したクリスチャンではなく、最初からクリスチャンではなかった。

つまり「油」は、聖霊の内住という問題ではなく、私たちが絶えず吟味すべき「信仰」のことだ。終末の前に心することとして、イエス様は「信仰」を教えてくださっている。私たちは繰り返し信仰の有無を確認し、そこに焦点を当てなければならない。天国(婚宴)は、主の御心を行う者だけが入ることができ、その御心を行う「信仰」は、他の誰にも分けてあげることができないのだ。「信仰」は、その人の生き方そのもの。神様の天国へ入る前に質問される。「あなたはどうであった(BEING)のか。」と。

自分の限界を知り、いのちをくださる神様を畏れ、信頼する賢さを受け取ること。それが罪からの脱却であり、信仰の始まりだ。最初に書いたように、これら譬え話のテーマは、『主を待ち望む再臨信仰』。迎えつつある終末の時代、暗闇の世界を、御言葉と信仰の光で人生を点し続けてこそ、私たちは歩き続けることができるのだ。

あなたの御言葉は、わたしの道の光
 わたしの歩みを照らす灯。
 (詩編119:105)



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神様はいつでも私を見ていてくださる。

2015年03月01日 | 羊の声


以下の記事で「(私の)不信仰ゆえに、空に虹はなかった。」と書いた。書き終えた後、3月になったのでカレンダーをめくってビックリ虹が出た神様って、「ンなこと書いても、わたしは見てるよ」って言ってくださるみたい。なんて素敵、なんてお茶目。思わず大感動の一瞬でした。いつでも見てくださる神様に感謝。


更に神は言われた。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。
 水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、
 すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
 神はノアに言われた。
 「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
 (創世記9:12-17)

周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。
 これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。
 そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
 (エゼキエル1:28)

その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。
 (黙示録4:3)