きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

熱い思いで、沙漠の街ベガスへ!

2015年08月25日 | 羊、朝の一声
ハレルヤ 昨夏に続き、再びラスベガスの日本人教会の仲間と共に礼拝する時を与えられ、往復で約1000キロの道のりを旅してきました。 昨年の記事はこちらから。「老舗500年の秘密」 at Las Vegas Japanese Community Church

先週のロサンゼルスも熱波の到来でかなり気温が上がりましたが、さすがラスベガス、この日の最高気温は摂氏44度。暑いラスベガスで、熱いメッセージが語られ、篤い賛美と礼拝が捧げられました。

今年のタイトルは、皆様のリクエストにお応えして「仏教と福音」。通常3-4時間かけて行なうセミナーを、礼拝メッセージでお伝えしました。時間的には厳しかったですが、日本人として知っておくべき「仏教」の実態と、それを包括した神様の愛を語るえんぢぇる師。そしてそれに熱心に応答してくださった鶴田先生とラスベガス教会の仲間たち。外の気温に劣らない“熱烈な”思いが礼拝に充満しました。(まちがいなく祈りの煙が立ち上っていたことでしょう礼拝は、イエス様の愛が溢れ、イエス様の光があり、イエス様のいのちを受ける時です

仏教の教えは実践哲学としては確かに優れてはいますが、真の解決には至りませんでした。苦しみからの解放を目指して修行を重ね、最終的に「無」になることが目的の仏教は、一般の人々には適応することが出来なかったのです。ゴータマ・シッダールタ(仏陀の本名)はイエス様が来る前の時代の人ですから、そこには真の救いがないのです。だからこそイエス様がこの地上に来られ、十字架の贖いによって私たちを解放してくださいました。苦しみの根源である「罪」を打ち砕いてくださったのです。ハレルヤ!

「殺すなかれ」の戒めは仏教にもあり、イエス様もそうおっしゃいます。しかし、仏教は自分の徳のために殺生するなと説き、イエス様は神様の愛ゆえに殺人を禁じます。人間中心と神様中心。同じ戒めでも、どうして?の動機が全く違うのです。人間の力には自ずと限界があり、いくら修行をしても、決して「無」にはなることが出来ないまま苦しみは続きます。しかし今、その苦しみの根源である「罪」からの解放は、ただイエス様によってのみ可能となるのです。これがBAD NEWSからGOOD NEWSへの驚くべき転換です

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 (使徒17:23-25)

教会では、このGOOD NEWSを世界中に方々にお伝えしています。ラスベガスでも、ロサンゼルスでも、もちろん日本でも。どうぞ今日、それを受け取ってください。えんぢぇる師をお呼びください。必ずあなたの人生に大きな転換が訪れます。今日、神様があなたの人生を完全に新しく、美しく、素晴らしいものに創り変えてくださるからです。あなたの祝福をお祈りしています。


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死後の世界とセカンドチャンス

2015年08月02日 | 羊、朝の一声
今日のメッセージは、ルカ16章のラザロと金持ちの話から、死後の世界のこと、そして救いについて確かめました。死後の世界をはっきりと語っているのは、聖書しかなく、これは私たちの信仰の基本です。同じ信仰を持つとは言え、色々な人の色々な意見を聞きます。それらを聞き、受け入れる前に大切なことは、「聖書はどう言っているか」、BACK TO THE BIBLEの姿勢。聖書が語っていること基本として再確認しました。

ルカ伝ラザロと金持ちの話は、聖書の中でも死後の世界について記されている独特な記事で、他の福音書には記載がありません。ここから、聖書の語る死後の世界について読み取れることをまとめました。

これは実際にあった話であること。
 イエス様の譬え話は「ある人」と名前なしで語られますが、これは「ラザロ」という実名で記載されていますので、譬え話ではありません。

死後の世界は実在すること。
 苦しい場所と、苦しくない場所の二か所があります。苦しい場所は「地獄(HELL)」ではなく、陰府(ハデス)というところです。苦しくない場所は、ユダヤ人には「アブラハムの懐」と呼ばれています。

死後、現世の記憶が残っている。

死後、生きている人と交信することはできない。

死後の二つの世界は相互に見ることができるが、移ることはできない。
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(26節)

最終的な裁きは、この後にある。
 死後、人は一度黄泉へ行き、最後の審判を待つ状態に置かれます。今は終末の時で、やがてイエス様の再臨があり、悪が滅ぼされ、千年王国が始まります。最後の審判は、その千年王国の後にあり、そこですべての人が裁きを受け、天国行きか地獄行きかが決定されます。

そしてこの話の結論は、死語の世界のキーポイント、人生の答えは聖書にあるとあります。
『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)
『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)
両方にある「モーセと預言者」というのは、この時代の「聖書」を指します。聖書に耳を傾けよ、聖書に答えがある、と繰り返しアブラハムは答えているのです。

終末時代の今、映画やメディアでも多くのテーマが取り上げられていますし、教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなど、様々は教えが流布しています。中には明らかに間違っているものもあります。私たちキリスト者は、それら間違った教えに対する時、聖書に戻り、聖書で確認しなければなりません。今回、それぞれの意見を持つ前に、これだけは知っているべき大前提と、聖書が語る基本の確認を繰り返しました。

前提:
聖書、神様の言葉は、神様と「私(あなた)」のことです。他の誰か別の人のこと、人の救いについてではありません。「私(あなた)」自身で確認し、受け取ってこそ、神様の言葉なのです。

その聖書には、子供や福音を聞いたことがなくて死んだ人がどうなるかについて、直接的な記述はありません。だから、これ、という断定はできないのです。

基礎事項:
前述通り、イエス・キリストが再臨され、裁きがあり、人間の行き場所が二つに分かれる、という流れがあります。この順序は変わりません。そして、裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を受け入れているか、そうでないか」の一点のみです。

人間には「私の知っている神様ならこうあってほしい」、「愛の神様ならきっとこうされるはず」、という思いがあります。夢や幻、また超自然的現象で天国体験する人もいます。しかし、それらが自分の思いか、神様の啓示か、悪魔の誘いか、立証することはできません。「私の神様」が過ぎると、偶像になってしまうのです。極端な例はカトリックのマリア信仰です。だからこそ、聖書に戻って検証するのです。

最後に、天国には、どんな状況であっても罪を持った人はいません。いたら、そこは天国ではないのです。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ロマ5:12)

悲しい哉、人間は罪を持った存在として生まれます。胎児も子供も例外ではありません。そして死に支配されているのです。そこから解放のために為し遂げられたのが、イエス様の十字架であり、これが神様の恵みです。恵みとは、価値も資格もないのにいただけるもの、神様からの一方的な愛です。恵みは、受ける側が与えられなかったからと不満を述べる権利はありません。だから恵みなのです。そして悔い改めて求めるなら、誰にでも与えられるものなのです。

ルカ伝の金持ちは、死んで苦しいところに落とされました。酷い目に遭ったなら、誰でも「私がまちがっていた!」と悔い改めるかと思えば、彼は悔い改めていません。相変わらず、ラザロを使い走りと考え、自分の立場を変えることをしていません。人間は死んだらその時点でその意識や価値観は固定されてしまって、悔い改めができなくなるのです。だからこそ、今、生きている間に福音を伝えること、聞くこと、イエス・キリストに出会うセッティングをすることが大切なのです。今しかできないことが、確かにあるのです。「なぜ、私が地獄へ行くの?」、この不満をぶつけるのは今です。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにあります。今日、あなたの人生を天国行き人生に変換させましょう。恵みは求めるなら、誰にでも与えられるのですから。



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教会遠足 海へ!

2015年08月01日 | 羊のお出かけ

夏休みシーズンです。お仕事や家事で、実際にお休みがあるわけではないけれど、何となく気持ちはワクワク、お出かけムード一杯です。ということで、家の教会では礼拝後に海へお出かけ。教会遠足パート2です。

今日の目的地は、マリブの海。そしてお目当ては、フレッシュ獲れ立てのシーフード料理サンタモニカの北、マリブビーチには、お勧めのカフェがあります。マリブ近海で獲れたお魚を売るマーケットと、それをその場でお料理してもらって食べるパティオスペースが一緒になった、知る人ぞ知る大穴場の「マリブ浜茶屋」。その名も「マリブ・シーフード」(そのまんま?)








着いてビックリお店の前は長蛇の列。確かに昔から人気のお店ではあるのですが、それにしてもこの列、ハンパない!しかし、教会行事は神様の導きがあるので、駐車場も注文も場所取りも実にスムーズに進みます。これ、ホントですよ。嘘と思う方、ぜひ一度ご同行ください。もちろん、参加は礼拝からお願いいたします。

浜茶屋周辺は少々混み合っていますが、マリブまで来ると空はいっそう青く、陽は燦々と輝き、風は爽やか、波はさざめき、神様の創られた自然を満喫できます。ちょっとしたハイキングコースを歩くと荒野の雰囲気を味わえますし、(ほんとうのイスラエルの荒野を知らない私の意見です。たぶん全然違うでしょう。)コース終点のヴィレッジには、嬉しい嬉しい羊さんのダンス彫刻を発見。





イスラエルはエジプトを
ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
ユダは神の聖なるもの
イスラエルは神が治められるものとなった。
海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
どうしたのか、海よ、逃げ去るとは
ヨルダンの流れよ、退くとは
山々よ、雄羊のように
丘よ、群れの羊のように踊るとは。
地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に
ヤコブの神の御前に
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
(詩編114)



教会遠足は楽しい!ぜひぜひ一度ご参加ください。自然の中で、また霊の家族との屈託ない交わりの中で、神様を礼拝しましょう。あなたの参加を心待ちにしています。



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