きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

日日是好日

2020年05月28日 | 羊、朝の一声

武漢ウィルス後の世界【エンジェル田中Ch.】

 

Stay Homeで、休職中であれ失業中であれ、一日一日を自分なりに精一杯生きて行けば、おのずと道は開けて行く。日日是好日なのである。

 


なんと三年ぶり

2020年04月28日 | 羊、朝の一声

久々に記録したいな、と思うことあり、ブログページを開いた。開けてびっくり、最後の投稿から3年以上経っている。月日の経つのは早いもので、、、などは単なる言い訳。反省の意味を込めて背景をナマケモノに変えて、再起動!の予定。ナマケモノが動き続けられるよう、応援ください。

今日の聖書箇所:申命記11章11~12節 (新共同訳)
11:あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
12:それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。

「常に目を注いでおられる土地」があるなら、ハテ?そうでないところがあるのか?と疑問を持ったのが発端。11節では、自らの力ではなく、神様の恵みによって生きることを感じた。その恵みはクリスチャンでなくても与えられていて、神様は全世界全人類に常にご覧になっているはずでは?しかし12節には、「そうでない土地」があるように読め、不思議に思った。その後、思いを巡らせていると分かったことがあった。「そうでない土地」があるのではなく、「そうでない土地」を作り、それを全力で守る人間のテリトリー(分野、域)があること。神様が目を注がれていないのではない。隠れ、塀を作り、囲いを強固にして、目を注ぐことのできない暗い場所を作っているのが人間なのだ。それは私にもある。隠してどうなる?と思いつつ、隠し続けているものがあったりする。しかし、天から降る雨、恵みで潤されている光の部分にこそ、神様の目が注がれる。この恵みなしに命はない。その最大たる恵みがイエス様の十字架だ。

あまり長文にしたくないので、要約だけ。起承転結が甘いのは承知で、個人的メモのつもりです。「朝の一声」、続けていけるといいな。とひっそり誓ってみる。


「これらが言葉である・・」 申命記FBコメント

2016年09月26日 | 羊、朝の一声


モーゼ五書の締めくくり総決算第五巻、最後の律法書である申命記。これはモーゼの決別説教。80歳のモーセが、神様の命令でイスラエルの民を罪の場所から引き連れ出し、40年もの間、荒野で「神様に従う」ことを教え続け、しかし自分は約束の地へ入れないと知った彼が最後に、新世代に対して神の民として知っておくこととして繰り返し語った渾身のメッセージ。あなたが知らなければならない、守らなければならない神の言葉はこれだ!申命記のテーマは「これらが言葉である」。

イエス様が荒野の誘惑でサタンに立ち向かった言葉はすべて申命記からあり、新約にも引用が多く、厳かで立派な書というイメージはあったものの、内容として私の中に落ちていませんでした。それが「これが神様の言葉だ!」と語られました。イエス様は御言葉の権威をもって語ってくださいます。それは過去に書かれたことが今でも生きていることを教え、神様は今も生きて働いておられていることを繰り返し知らせてくださるため。モーセが血を吐く思いで語った申命記のように、聖書は神様が強く大きな愛を持って、私たちに神様を選ぶこと、共に生きることを語り続けてくださいます。あらためて神様の言葉、聖書をより深く学ぶ意欲を与えられました。


またまた、追い付いていないブログレポートですが、まずはコメントでお茶を濁しておきましょう、と。。。

聖徒=ハギオス

2016年01月30日 | 羊、朝の一声


キリスト者は「聖徒」と呼ばれる。原語のギリシャ語は『ハギオス』で、この元にある意味は「他のものとは異なっている」という意味だそうだ。神殿は他の建物とは異なっているから『ハギオス』、安息日は他の日とは異なっているから『ハギオス』、祭壇は他のものとは異なっているもので『ハギオス』、ユダヤ人は他の民族とは異なっているから『ハギオス』、それぞれそう呼ばれている。そしてキリスト者は、他の人とは異なっているから『ハギオス』なのだ。キリスト者が他の人々とは区別され、分かたれている故に「聖徒」と呼ばれる。

「聖徒」であることを確認させられたメッセージをいただいた。以下、ロイドジョンズの著作から抜粋。



 山上の説教は、人間の行為の単なる描写ではない。その核心は、キリスト者と非キリスト者との間のこの相違なのである。新約聖書はこの点を、全く基礎的、根本的事柄であると見ている。

 現代の世相を見るとき、教会における第一の必要は、この根本的な相違の明白な理解なのである。この相違は漠然とされてしまっている。世は教会の中に入って来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も。教会の歴史における偉大な時期の一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部の人にも魅力的にすべきであり、できるだけ外部の人と似たようにするべきであるという考え方に接してきた。

 第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろのことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ますためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来るであろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。

 教会は絶対的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たちの希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていたいと切望すべきである。私たちが切に願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに似れば似るほど、望ましいことである。キリスト者は、キリストに似る者となればなるほど、ますます非キリスト者とは似ない者になるのである。

和解の血:Ⅱコリント5:20

2015年10月31日 | 羊、朝の一声
「私はそんなにひどい悪いことをしていないから、死んだら天国に行くだろう」と思うアナタの天国はどんなところ?天国には一切の悪がない。自分ではこれくらいと思ってしまうような、どんなに小さな嘘でも嘘は嘘。神様には受け入れられないモノ。 嘘以外にも、嫉妬、自己憐憫、虚栄心、競争心、みだらな思い、ごくごく微小でも“罪”を持って、聖い神様のいるところにはいられない。神様はどんな小さな罪にも妥協されないし、大目に見ない。だから神様なのだ。では、誰が天国にいることができるのか。神様と和解ができた人。それは、十字架で血を流してその命を代わりにささげてくださったイエス様を知る人。罪は血をもって贖われる。イエス様の血によって赦された人だけが、天国にいることができるのだ。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。




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情報力と実践力

2015年10月11日 | 羊、朝の一声
巷には累々と情報が溢れている。特にインターネットやスマートフォンの時代になった今、いつでもどこでも何をしていても、情報の波が轟々と流れるのを見る。「何を最もお得に買うか。」「どのように効率よく動くか。」「いかにそつなくこなすか。」情報の欠如は、「損」「要領悪い」「鈍くさい」となる。正確な情報をいかに入手し、生活に適応しなければ、大きな損失を生むことになる。これはグルポンとか、スマホのアプリレベルの話ではない。人生の、「いのち」の話だ。情報は力だ。

情報には、data (データ)、information(情報)、intelligence(知性)、この三種がある。データを集め、情報を選び取り、それを知性とする。その時初めて、その情報は私のものとになる。Intelligenceは、生きて行くための特殊情報という意味になる。例えば聖書を題材にすると、こうなる。

 data: 聖書は世界で最も多くの言語に翻訳され、世界一の発行部数を誇る本。
 information: 聖書は全66巻からなる神様が人間に与えた啓示である。
 intelligence: 聖書は私に語られている神の言葉であり、人生のすべての問題の解決はここにある。

「データ」とは、客観的事実や既知の事項で、調査や実験により得られて判断の材料となるものである。聖書は史上最大のミリオンセラーであり、2000以上の言語に翻訳されている他に例を見ないもの。この「データ」の類は、調べようと思えばいくらでも得られる。が、ほとんどは、右から左への聞き流し、内に留まることなく、消え去っていくことが多い。それが留まる時、「インフォメーション」になる。聖書は、歴史や預言を通して神様が人間にくださったメッセージなのだ、とわかって読む時、聖書の言葉は光を放つ。まさに啓示だ。この体験は私にとって忘れられないものなので、断言できる。しかしまだ先がある。それを「インテリジェンス」に適用すること。体現することだ。

AD68年、ローマ軍はエルサレムの城壁周囲を取り囲んで、抜け出す術はなかったその時、ただ一度だけ好機が訪れた。ほんの一時期、包囲が解かれたのだ。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」というイエス様の言葉を握っていたクリスチャンは、脱出することができた。「インフォメーション」を「インテリジェンス」に適用して、助かったのだ。

聖書は、一人一人に語られている神様の言葉だ。人生で得るべき、最大最強のインフォメーションだ。「あなたは何者なのか。」「どこから来てどこへ行くのか。」人類史上繰り返し問われたこの永遠の問いに聖書は答えてくれる。それを「インテリジェンス」にすることができれば!

「インフォメーション」とした手段を、「インテリジェンス」という目的に転換する。このためには、目的意識を持って、情報収集し、記録し、分析し、評価し、判定すること。ただ聞き流しているだけでは、決して「インテリジェンス」にならない。聖書の言葉を一「データ」としてしか理解できておらず、応用方法が見えていない。意味が分からずに暗唱聖句しているのと同じ。スポーツの上達と同じく、理論ではなく、実践あるのみ!現場での経験を培うのみ!知識と知恵を混同してはならないのだ。

知識と知恵の違いは、以前教えてもらった例がわかりやすい。

 知識=国際線フライトには、カバン二個まで、合計40キロの荷物を持ち込める。
 知恵=だから大きなスーツケース一つではなく、20キロずつ分けて持てるものを用意する。

これが、知っているだけではダメ、生活に適応して活かされる、ということだ。だから知識をわかりやすく理解して、自分の内に取り込む作業が必要なのだ。「これは人生に必要不可欠な知的行為です。」と言われたのが、今日のポイントだった。記録していない、整理していない、判定していない、頭の中は私のお部屋同様、ぐちゃぐちゃのまま。これではいけない。ということで、久々のブログ投稿だ。

今まさに現実化しつつある終末世界に備えるためには、ぐちゃぐちゃを整頓しよう。記録し、確認し、その時に「インテリジェンス」として意志判断できるように。そして自分の内の「インフォメーション」を大切な人へ伝えて「インテリジェンス」とするために。聖書を学ぶ理由は知識を得るためではない。勉強が、ただ学校に入るため、テストで高得点とるためではないように。学びを通してどう生きるのか、ほんとうに必要な知るべきことは何かをを知って、生き方を変えてもらうために学ぶのだ。それが聖書にある。聖書で語る神様は変えてくださる。だから、今、実践しよう。


聖書を共に学ぶ仲間を募集中です。ロサンゼルスで一緒に「生きた聖書の言葉」を学び合いましょう。牧師なし、会堂なし、聖書のみ、お食事しながら!平和と笑いと聖霊様が満ちて、神様を礼拝するほんとうの教会(エクレシア)を求めています。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI


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ヨム・キプール(大贖罪日)

2015年09月23日 | 羊、朝の一声
9月22日夕方から23日の夕暮れまで、イスラエルはヨム・キプール(大贖罪日)でした。悔い改めの日。その日、フェイスブックで以下の投稿を見て、私自身も悔い改めを導かれました。『またか?』と思われるでしょうが、ブログも悔い改め。きっかけとなった投稿を記録します。

「ヨム・キプールについて ピーター・ツカヒラ師」

今、終わりの時に私たちは立たされている。大贖罪日が近付いている。自らを吟味し、神様に立ち返る日。神様との関係が本来あるべき姿かどうか確かめる日。

義の門よ。 私のために開け。 私はそこから入り、主に感謝しよう。<詩篇118:19>

ヨム・キプールに主のきよめの臨在が来るよう祈ります。喜びを持って悔い改めることが出来ますように。ヨム・キプールの日は自らの魂を引き裂く時。私たちの肉に対して普段の快楽を拒む時。そうして、神様の御顔を求める時。普段の仕事の忙しさから離れる時。そして永遠の価値を思う日。

聖書のヨム・キプールは一年に一度の贖いの日として設けられている。 祭司の家族、大祭司が至聖所に入ってささげものをする。キリストの血を象徴する血を携え至聖所に入る。わたしたちの心を整えるのがこの日。自分の人生を思い返す日。最後の審判に私を裁かれる方の前に立ちおおせるか。

わたしはあなたがたに、 こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、 さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、 あなたのことばによるのであり、 罪に定められるのも、 あなたのことばによるのです。 」<マタイ12:36-37>

ここでイエス様は愛を持って弟子たちを教えられていた。神のことばの前ではすべての人は哀れみが必要。私のこころと思いにきよめと哀れみが必要。舌を制御することは難しい。誰もが口の言葉で失敗をする。

ヨム・キプールはこれを覚え、悔い改める日。このようなことを主の前に持って行く日。すべての間違ったことをイエス様の血で洗い流してくださいという日。そして、信仰に堅く立つ時。

主は全てのことをきよめて下さるという信仰を持つ時。神様だけこれをなして下さる。神は全ての罪から赦して下さる。傷つけた人がいるなら、その人のところに行って謝る。その傷を癒やされるのは主のみ。

ヨム・キプールはこれらのことを覚える時。新しい日のように、新品にして下さる日。

また私は、 死んだ人々が、 大きい者も、 小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、 数々の書物が開かれた。 また、 別の一つの書物も開かれたが、 それは、 いのちの書であった。 死んだ人々は、 これらの書物に書きしるされているところに従って、 自分の行いに応じてさばかれた。<黙示録20:12>

ヨハネは終わりの日を示された。自分を吟味する日がヨム・キプール。自分がやった全ての純粋でない、悪いことを悔い改める日。信仰の確信により、神のみこころでない行った全てのことを主に哀れみをこう日。神様は契約を持って私たちに約束をしてくださっている。大きな罪も小さな過ちも全て神が拭い去って下さると確信する。

さばきの日は必ずやってくる。まるで聖霊様の学校にいるよう。神様は私を愛しており、教師であり導き手である御方。このお方に頼り、最終試験、裁きをパスすることを御言葉から学ぶ。

私が学生の時最悪のクラスになった。教師がひどい教師だった。それは数学の授業。その授業は嫌だったが、最終試験が待ち受けていた。心はどんなに頑張っても無理なことを知っていた。この日が近づくにつれて、罪に定められる思いが来た。まるで滅びに向かっていくように感じる試験を目前にして、先輩が来た。「君たちが心配しているのは数学の試験だろ」と言った。なぜ知っているのかというと、自分たちもそこを通ったからといった。その教授は毎年同じ試験問題を出すので、過去問を教えてくれた。これは恵みだった。だから、最後の試験にパスされ、今、こうして皆さんの前で話せている。

最終試験があるが、助けがある時その試験に合格する事が出来る。最終試験の時、二つの部分がある。大切な事は、その時にまでどのように生活するかという事。

もう一つは先程読んだみことばがはっきり語っていることは、行いは大切ということ。イエス様はあなたの言葉によって義とされると言っている。あなたが何を口から語るかは大切な事。ヨハネが黙示録の中で彼らは行いに応じて裁かれたと言っている。すごく重要なポイント。神について正しいことを知っていることは大切。自分の言ったこと、行ったことが裁かれる。

試験には一部と二部がある。あなたの語ること、行なうことが大切。言ったこと、やったこと。どのように生きたかが大切。だから、慈愛のもとに生活すること、正直のもとに生きること、イエス様の純粋さを追い求めるきよさ、イエス様の信仰、希望がほしい。もっと重要な事は神様の愛がほしい。どのように生きているか。神の愛の中に生きているか。まわりの一人ひとりに愛を示すという努力をしているか。自分の家族から始まり、周りの人、そして敵に至るまで。

こころを主に向けて集中する生き方。神様を愛している人に対しては素晴らしい約束がある。すべてのことを働かせて益として下さる。まちがいも失敗もひっくり返して益としてくださる。神の目的に召されている人々はそうなる。神様には義の基準があり、目的もある。地上で達成したいこともある。それは私を通して行いたい。

神様の素晴らしい恵みを与えらるのを見たことがある。人生で大きな欠点を持った人に対して。神様がやってほしいことを行っていたゆえに絶大な恵みを受けた人を知っている。逆に、神様がして欲しいことをしてないことで裁かれた人も知っている。

それはあなたが私の内臓を造り、 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。詩篇139:13

あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、 書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、 その一日もないうちに。詩篇13916

神様が私を造られ、デザインして下さった。毎日緻密に計画を私のために計画を立てておられる。それは生まれる前から。神様の目的を知りたかったらダビデが言っているように、偶然は一日もないということを知る必要がある。エレミヤも同じ結論に達した。

「わたしは、 あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、 あなたを国々への預言者と定めていた。」<エレミヤ1:5>

神はエレミヤの人生を造り召しに呼ばれた。聖書の中には私個人のために模範がある。私たちは神の御手によって計画を持って大切に造られた存在。髪の毛の数も知っているお方。あなたを備えた、計画に応じて造られた。そして、その目的、計画に沿って生きていて、実を結んだかと主は問われる。

試験で問題に何が出るかを知っていることは大切。他の人と比べる必要はない。他の人の夢、ビジョンに対して主はあなたに申し開きを求めない。あなたに関して主は問われる。エレミヤも、ダビデもあなたを神の中で組み立てたと言っている。あなたが生きる前からそれらは全て計画されていた。あなたには大きな計画、デザインがある。

今、悔い改めの話をしている。悔い改めが必要ない分野もある。英語では神は悔い改め、思い直しをしないと書かれている。あなたの召命に対して思い直しをしない。今、あなたはどのように生きているか。どのように神に対しての純粋さを保っているか。

もう一つ大切なのは、主が私達を神の子として造った。その道にしっかり歩めているか。他の人の願いなどに歩んでいないか。ヨム・キプールにその事を悔い改めるべき。自分の死んだ行いから立ち返るべき。命をもたらさないことから主に戻るべき。それは主にある完全な人生。命を与える方に立ち返る時。毎年この年を主が備えてくださっていることに感謝する。まことの大祭司が私たちのために贖罪をして下さる日。リセットボタンが押される日。

裁きの日は神の顔に笑顔があると信じている。裁きの日に弟子たちが語った。タラントの話がそれ。主人が長旅に出て、その人が3人のしもべにお金を預け、10タラント、5タラント、1タラント与えた。主人が戻ってきた時、タラントを増やした人と増やさなかった人に違うことを言われた。増やした人には「よくやった、よく忠実なしもべだ。小さなものに忠実だったので、大きなことをまかせよう」と言われた。このような人になりたい。主が与えて下さった人生の全てを用いたい。3人目のしもべは神様が与えてくださったものを隠した。盗んでなく、無くしたものでもなく、与えられたものを返した。彼は行いが違っていた。何を信じ何をするかが大切。

ヨム・キプールの日は機会を与える日。王のもとに出て行って、今、主の笑顔を見出す時。最後の日までそれを待ってはいけない。信仰の先輩の話を聞こう。試験に何が出るのかわかったらそれに集中して勉強する。ほしいのは主の笑顔。ヨム・キプールは集中する日。聞く耳がある人、御霊が民に言っているのがきこえるでしょう。今日、この日を離れて、主の笑顔を知るでしょう。主を喜ぶことは私たちの力です。

ヘブル書の記者が贖い、血の生け贄について書いている。動物のいけにえは私たちを完全にできない。今、イスラエルで起きていることを文脈で説明したい。神殿の丘で最近衝突が起きている。イスラエル人が神殿を建てなおそうととても熱心。彼らは動物のいけにえを戻そうとしている。そのために熱心になっている。再び祭壇に動物の血が捧げられるために一生懸命になっている。ところがヘブル書の著者は、動物のいけにえは完全にされないと言っているlだから毎年捧げなければならない。しかし、ただ一度ささげられたいけにえがある。十字架において流され天の至聖所に捧げられた神の小羊の血。それによって義の門が開かれる。ヨム・キプールは主の前に来て主イエスの血潮を覚える日。

しかしキリストは、 すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、 手で造った物でない、 言い替えれば、 この造られた物とは違った、 さらに偉大な、 さらに完全な幕屋を通り、また、 やぎと子牛との血によってではなく、 ご自分の血によって、 ただ一度、 まことの聖所に入り、 永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、 やぎと雄牛の血、 また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、 それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。<ヘブル9:11>

これは効力がある。私たちが言ったこと、やったこと全て永遠に至らないすべてのこと。これを主の前に持っていくのがこの日。完全にされた心を持って新しくされるのがヨム・キプール。次の年の準備の勝利の時。神の御国の基準を持つ日。今年、ひとりひとりにおいて、きよめられた良心を持って歩める一年となる。高いレベルのきよさを与えられる。もっと隣人を愛するようになれる。今まで以上に神の愛の中に歩める。そのような一年になります。

もっと信仰の目が開かれ、目的をはっきり見ることができるように。今年、主のことばを聞きます。これが主の顔に笑顔を作ること。これはひとりひとりが個別に聞く必要がある事。あなたがこの事を行なうなら、主が笑顔になられる。主の前に立つ時「よくやった」と言われる。あなたは正しく、うまくおこなった。それを私は全て見ていたぞ。と。 主人の喜びの中に入ってください。そのために歩んでください。なんという素晴らしき歩みだろう。

そのような神との正しい関係に歩める日を一年に一度設けてくださったことに感謝したい。しかし、賢い人はこれを毎日行う。その事を忘れていた人もヨム・キプールでその事を思い出せる。誰でも今日、この日、神の前で心を完全にして欲しいなら、今、神の御前に進み出る機会が与えられている。創り主と真剣な関係を築きたいと思っている人。これから私のすべてを捧げますと。新しい始まりがある。

今日がその日であって欲しいと思う人はいるか。今日、主の血潮によってきよめてほしい。主の明確な指示を得たいと思う人はいるか。主と真剣な関係になりたい人のために祈ります。

熱い思いで、沙漠の街ベガスへ!

2015年08月25日 | 羊、朝の一声
ハレルヤ 昨夏に続き、再びラスベガスの日本人教会の仲間と共に礼拝する時を与えられ、往復で約1000キロの道のりを旅してきました。 昨年の記事はこちらから。「老舗500年の秘密」 at Las Vegas Japanese Community Church

先週のロサンゼルスも熱波の到来でかなり気温が上がりましたが、さすがラスベガス、この日の最高気温は摂氏44度。暑いラスベガスで、熱いメッセージが語られ、篤い賛美と礼拝が捧げられました。

今年のタイトルは、皆様のリクエストにお応えして「仏教と福音」。通常3-4時間かけて行なうセミナーを、礼拝メッセージでお伝えしました。時間的には厳しかったですが、日本人として知っておくべき「仏教」の実態と、それを包括した神様の愛を語るえんぢぇる師。そしてそれに熱心に応答してくださった鶴田先生とラスベガス教会の仲間たち。外の気温に劣らない“熱烈な”思いが礼拝に充満しました。(まちがいなく祈りの煙が立ち上っていたことでしょう礼拝は、イエス様の愛が溢れ、イエス様の光があり、イエス様のいのちを受ける時です

仏教の教えは実践哲学としては確かに優れてはいますが、真の解決には至りませんでした。苦しみからの解放を目指して修行を重ね、最終的に「無」になることが目的の仏教は、一般の人々には適応することが出来なかったのです。ゴータマ・シッダールタ(仏陀の本名)はイエス様が来る前の時代の人ですから、そこには真の救いがないのです。だからこそイエス様がこの地上に来られ、十字架の贖いによって私たちを解放してくださいました。苦しみの根源である「罪」を打ち砕いてくださったのです。ハレルヤ!

「殺すなかれ」の戒めは仏教にもあり、イエス様もそうおっしゃいます。しかし、仏教は自分の徳のために殺生するなと説き、イエス様は神様の愛ゆえに殺人を禁じます。人間中心と神様中心。同じ戒めでも、どうして?の動機が全く違うのです。人間の力には自ずと限界があり、いくら修行をしても、決して「無」にはなることが出来ないまま苦しみは続きます。しかし今、その苦しみの根源である「罪」からの解放は、ただイエス様によってのみ可能となるのです。これがBAD NEWSからGOOD NEWSへの驚くべき転換です

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 (使徒17:23-25)

教会では、このGOOD NEWSを世界中に方々にお伝えしています。ラスベガスでも、ロサンゼルスでも、もちろん日本でも。どうぞ今日、それを受け取ってください。えんぢぇる師をお呼びください。必ずあなたの人生に大きな転換が訪れます。今日、神様があなたの人生を完全に新しく、美しく、素晴らしいものに創り変えてくださるからです。あなたの祝福をお祈りしています。


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死後の世界とセカンドチャンス

2015年08月02日 | 羊、朝の一声
今日のメッセージは、ルカ16章のラザロと金持ちの話から、死後の世界のこと、そして救いについて確かめました。死後の世界をはっきりと語っているのは、聖書しかなく、これは私たちの信仰の基本です。同じ信仰を持つとは言え、色々な人の色々な意見を聞きます。それらを聞き、受け入れる前に大切なことは、「聖書はどう言っているか」、BACK TO THE BIBLEの姿勢。聖書が語っていること基本として再確認しました。

ルカ伝ラザロと金持ちの話は、聖書の中でも死後の世界について記されている独特な記事で、他の福音書には記載がありません。ここから、聖書の語る死後の世界について読み取れることをまとめました。

これは実際にあった話であること。
 イエス様の譬え話は「ある人」と名前なしで語られますが、これは「ラザロ」という実名で記載されていますので、譬え話ではありません。

死後の世界は実在すること。
 苦しい場所と、苦しくない場所の二か所があります。苦しい場所は「地獄(HELL)」ではなく、陰府(ハデス)というところです。苦しくない場所は、ユダヤ人には「アブラハムの懐」と呼ばれています。

死後、現世の記憶が残っている。

死後、生きている人と交信することはできない。

死後の二つの世界は相互に見ることができるが、移ることはできない。
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(26節)

最終的な裁きは、この後にある。
 死後、人は一度黄泉へ行き、最後の審判を待つ状態に置かれます。今は終末の時で、やがてイエス様の再臨があり、悪が滅ぼされ、千年王国が始まります。最後の審判は、その千年王国の後にあり、そこですべての人が裁きを受け、天国行きか地獄行きかが決定されます。

そしてこの話の結論は、死語の世界のキーポイント、人生の答えは聖書にあるとあります。
『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)
『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)
両方にある「モーセと預言者」というのは、この時代の「聖書」を指します。聖書に耳を傾けよ、聖書に答えがある、と繰り返しアブラハムは答えているのです。

終末時代の今、映画やメディアでも多くのテーマが取り上げられていますし、教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなど、様々は教えが流布しています。中には明らかに間違っているものもあります。私たちキリスト者は、それら間違った教えに対する時、聖書に戻り、聖書で確認しなければなりません。今回、それぞれの意見を持つ前に、これだけは知っているべき大前提と、聖書が語る基本の確認を繰り返しました。

前提:
聖書、神様の言葉は、神様と「私(あなた)」のことです。他の誰か別の人のこと、人の救いについてではありません。「私(あなた)」自身で確認し、受け取ってこそ、神様の言葉なのです。

その聖書には、子供や福音を聞いたことがなくて死んだ人がどうなるかについて、直接的な記述はありません。だから、これ、という断定はできないのです。

基礎事項:
前述通り、イエス・キリストが再臨され、裁きがあり、人間の行き場所が二つに分かれる、という流れがあります。この順序は変わりません。そして、裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を受け入れているか、そうでないか」の一点のみです。

人間には「私の知っている神様ならこうあってほしい」、「愛の神様ならきっとこうされるはず」、という思いがあります。夢や幻、また超自然的現象で天国体験する人もいます。しかし、それらが自分の思いか、神様の啓示か、悪魔の誘いか、立証することはできません。「私の神様」が過ぎると、偶像になってしまうのです。極端な例はカトリックのマリア信仰です。だからこそ、聖書に戻って検証するのです。

最後に、天国には、どんな状況であっても罪を持った人はいません。いたら、そこは天国ではないのです。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ロマ5:12)

悲しい哉、人間は罪を持った存在として生まれます。胎児も子供も例外ではありません。そして死に支配されているのです。そこから解放のために為し遂げられたのが、イエス様の十字架であり、これが神様の恵みです。恵みとは、価値も資格もないのにいただけるもの、神様からの一方的な愛です。恵みは、受ける側が与えられなかったからと不満を述べる権利はありません。だから恵みなのです。そして悔い改めて求めるなら、誰にでも与えられるものなのです。

ルカ伝の金持ちは、死んで苦しいところに落とされました。酷い目に遭ったなら、誰でも「私がまちがっていた!」と悔い改めるかと思えば、彼は悔い改めていません。相変わらず、ラザロを使い走りと考え、自分の立場を変えることをしていません。人間は死んだらその時点でその意識や価値観は固定されてしまって、悔い改めができなくなるのです。だからこそ、今、生きている間に福音を伝えること、聞くこと、イエス・キリストに出会うセッティングをすることが大切なのです。今しかできないことが、確かにあるのです。「なぜ、私が地獄へ行くの?」、この不満をぶつけるのは今です。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにあります。今日、あなたの人生を天国行き人生に変換させましょう。恵みは求めるなら、誰にでも与えられるのですから。



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