きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

マルティン・ルター

2011年02月18日 | 羊、朝の一声
 465年前の今日、1546年2月18日はマルティン・ルターが天に召された日だそうです。宗教改革の中心的な人物ですが、彼は当時の教会権力の前に信仰のあり方を求め、ついに「人間は善行でなく、信仰によってのみ義とされること、すなわち人間を義(正しいもの)とするのは、すべて神の恵みである」という真理に達してようやく心の平安を得ることができたのです。

「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」。私たちが今、当然のことと知るこの真理は、イエス様の十字架から1500年も経ってから、今からはたった(とは言えませんが)500年前にルターの命を懸けた求めに応じて明らかにされました。今週の礼拝は、2000年に亘る教会時代や永遠の神の国を語られたためか、長い長い時の中に煌く神様の言葉、神様の真理を感じる時を持っています。そして同様に、私たち一人の人生100年弱、あるいはもっともっと短いかもしれませんが、その中でも神様は同じ御言葉をくださっています。一人でも多くの方が、この御言葉に生かされ、永遠の命をいただくことをお祈りします。


すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ3:22-24)

2011年02月14日 | 羊のお出かけ


みみた様ブログには、梅の開花が書かれていましたが、リトル東京ではもう桜が咲いていました。まだ咲きはじめの様子でしたが、そろそろお花見礼拝も企画しなくちゃ!と思わされました。昨年は私の日本の家族が参加できたお花見礼拝。今年も盛り上げます!乞う、ご期待。


黙示録が語る終末

2011年02月13日 | 羊の声
今日の礼拝は、黙示録からでした。イエス様昇天後のペンテコステから今に続く二千年余を聖霊の時代、また教会時代と呼びます。そしてまた、今は終末に近づいている時でもあります。終末には何が起きるのか、黙示録は何を語っているのか、私たちはそれを聞いてどうするのか。黙示録講解ダイジェストのような形で、フェイス師には珍しくホワイトボード一面を使って、熱くメッセージをくださいました。

Good News Station.com でも日々お伝えしている世の中の情勢を見ても、聖書の預言が完成に近づいているのを見ることができます。聖書の語る「終末」は、地球がなくなるとか、人類が滅亡の危機に瀕するとか、「終わり」の話ではありません。「終わり」の先に何があるか、同時に「始まり」を迎えます。その「始まり」の最初、私たちは皆、神様の前に出て、それぞれの「始まり」を知ることになります。クリスチャンはその「始まり」を今から知り、それに備えているのです。人間には知ることができない「その先」について、聖書は教えてくれます。そんなアプリケーションを家の教会でも行います。ご参加ご希望の方、いつでも info@goodnewsstation.com、213-324-6942 までご連絡ください。






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What's セルチャーチ?

2011年02月09日 | 羊の声
「GNSのセル教会の活動模様をお知らせしています。」というのが、このブログの副題のはず。しかし最近はセル報告がありません。セルをしていないので、できないのです。ということを開き直って書こうというのではなく、神様が招いてくださる集まり、「セル」を実感できた感動をお知らせしたいのです。

セルを実行しなくちゃ、、、と心では思っているものの、集まる仲間もなく、熱心に呼びかけるにはバタバタとあわただしい毎日で、ペンディングのまま1月が過ぎました。そんな時、朝のディボーションでフォーカスを定めて祈ることを教えられ、具体的なフォーカスと言えば何といってもセル!とセルの仲間について、すぐに祈ったのです。応えはすぐにやってきました。その日、教会で「またセルしましょう!」と声をかけてくれる人がいたのです。早速、スケジュールを合わせて火曜日に集合することにしました。

そして火曜日。残念なことにその人は来れませんでした。ま、来週があるさ、と思っていたところへ、思いがけず一人の訪問者がありました。その人は今職場で直面している悩みを聞いてほしくて、思い立ってやって来たのです。急いでご飯を用意して、食事を共にして、その人の話をじっくりと聞くことができました。私が聞いたからとて、その人の職場に乗り込んでいくことができるわけでもなく、問題は変わらずそこにあるかもしれません。でもその人が「一対一でお話できて、よかった。来てよかった。」と言ってくれました。

誰もが悩みを持っています。人生にはどうしようもないことが確かにあります。しかし、それをどうしようもないと放って置くか、どうにかしたいと直面するか、それによって問題の展開は変わって行きます。少なくてもその意識が変わります。そして、心分かち合った仲間と一緒に祈ることができたら、問題は神様の手に委ねられて解決の方向へ進み出します。もうそれは、「どうしようもないこと」ではなくなるのです。「セル」はそのための場所です。

今回のことで、「セル」を予定し、そこに仲間を集めてくださるのはまぎれもなく神様の力だと感じました。「セル」で待っていてくださるのは、あなたの問題を解決することができる神様です。思い立ったら、愚痴りたかったら、おなかがすいたら、ぜひセルチャーチへお越しください。グレンデールでいつでも待っています。


1523 E. Windsor Rd., #107B, Glendale CA 91205
(213) 324-6942 / Mutsumi


殉教者

2011年02月05日 | 羊の群れ
今から400年前、1597年2月5日、26人のキリスト者が長崎で殉教しました。カトリックでは「聖人」の列に加えられたこの26人ですが、聖人かどうかは別にしても、神様に仕える心とその信仰は真実に違いありません。今週の礼拝では、この2月5日を記念してか、彼らのことを教えられました。

26人の内、24名はもともとクリスチャンで、各地で捕まえられて大阪に集められた後、処刑命令を受けて、厳冬期、長崎へ歩き出しました。途中、彼らを世話していたクリスチャンでなかった2名が、望んで列に加わり、26名になったそうです。一行の中には少年たちもいました。幼い子供が傷つけられ、刑に処されるのを見かねて、信仰を捨てるように何度も勧めたそうですが、最年少では12歳の少年たちはそのまっすぐな信仰を貫き、「自分の十字架はどこ?」と刑場で十字架を求め、賛美を口にしながら天に召されたそうです。

またパウロ三木という方は、長崎への道中ずっと福音を伝えながら歩いていたそうです。手には縄をかけられ、耳をそがれ、重罪人として侮蔑されるよう引き回されながら、彼の口には泣き言や弱音がもれるのではなく、福音が流れ出ていました。そして、到着した長崎の西坂の丘に、刑を見物に来た4000人の人々を前に彼は朗々と説教したのです。

『十字架に付けられたパウロ三木の説教』
ここにおいでになる全ての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンの者ではなく、れっきとして日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵だと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。


主の十字架教会のパウロ秋元師は、彼に因んで「パウロ」の名前をいただいたそうです。日本にはこのような偉大な殉教者が何万人もいると言われています。今、数多の殉教の魂によってリバイバルが起きているウガンダ、タヒチ、中国同様、日本もまた献げられた彼らの祈りによってリバイバルが起きつつあるのです。すべての人が殉教するわけではありません。しかし、すべての人がひざをかがめ、主を畏れる日は近いのです。パウロ三木師の祈りを私たちひとりひとりの祈りとして、日本の家族、知人、すべての人に伝えていきたいと思います。すべての日本人が神様を知り、愛するようになるために。


ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12)

あたりまえ

2011年02月01日 | 羊の声

アヤロンの谷に群生するヒナゲシ/横山匡氏


今日の御言葉は、Ⅰテサロニケ5:16-18。クリスチャンであれば暗誦聖句している人も多いところ。

いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。
 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

真正直なトヲル師は、この聖句からメッセージするのが嫌いだ、と仰る。喜ぶ、祈る、感謝する、クリスチャンであればこそ行いたい、でもなかなか、いや全然できないことを知っているから、できないことを他人にメッセージしたくない、と本音トークで仰ったのに感動。そんな彼が、始めて自分からこの御言葉を選んでメッセージしてくださいました。そのメッセージの中で読まれた「あたりまえ」という詩は、癌で片足を切り落とし、でも完治することなく命を失った若いお医者さん、井村和清さんのもの。本や映画にもなった『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』という作品中に出てきます。


あたりまえ

こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう。

あたりまえであることを。
お父さんがいる。お母さんがいる。

手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。
音が聞こえて声がでる。

こんなしあわせはあるでしょうか。

しかし、だれもそれをよろばない。
あたりまえだ、と笑ってすます。

食事が食べられる。
夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。
空気を胸いっぱいにすえる。

笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、
みんなあたりまえのこと。

こんなすばらしいことを、
みんなは決してよろこばない。

そのありがたさを知っているのは、
それをなくした人たちだけ。

なぜでしょう。あたりまえ。



「あたりまえ」であることのすばらしさ、失って始めて知る「あたりまえ」の恵み、「あたりまえ」のことへの感謝、そんな「あたりまえ」のことが気付かれない悲しさが切々と歌われています。そう、「悲しみ」です。すばらしいことだとわかっても、それを失ってしまった時、人間として喜んだり、感謝したりできるはずありません。しかし、聖書は「いつも」感謝と教えます。それは、「イエス・キリストにあって」可能なのです。

クリスチャンにも体の自由を奪われた方は大勢いますが、GNSでもしばしば登場する星野富広さんも詩を書かれます。彼の詩には「悲しみ」ではなく、「希望」が見えています。それは彼は、「あたりまえ」と引き換えに、もっと素晴らしいものを得たことを歌うからです。比べるものではありませんが、富弘さんの歌う「あたりまえ」です。

ひなげし

花が上を向いて咲いている
私は上を向いてねている
あたりまえのことだけど
神様の深い愛を感じる



名残惜しむ「あたりまえ」の代わりになるのは「イエス・キリスト」。全能の神様、私の人生がどんな「“非”あたりまえ」になっても、BACK TO「あたりまえ」どころか、最高の“完全”へと導く救い主。そんないつでも味方してくれ、いつでも助けてくれるイエス様が一緒にいてくださることで、私たちは「いつも」感謝ができるのです。そんな思いを箴言の聖句と共に教えられました。


常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。





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