のんびり里山日記

里山を次の世代へ引き継ぐために、何かできることはないかな? のんびりと考えながら、里山のできごとを紹介していきます。

「絆」よく見ますね。

2021年03月08日 | 日々のこと

東日本大震災から10年。
そう言えば、あの頃から『絆』の文字はよく目にしていました。
ただ、最近、その文字に対する感じ方が私の中で変わったのだと思います。
なので、その文字を掲げられるたび、違和感を感じてしまうのです。

当時、この文字は、あの大災害は被害地域の人たちの頑張りだけでは復興は無理で、
揺れを感じなかった私たちや、海外にいた人たちも、手を取り合うという意味にとらえていました。
たぶん今も、掲げる人の気持ちは変わらないのかもしれません。

当時も今も田舎に住んでいる私には、昔ほどではないけれど、
ご近所さん(近くても100m離れているとかは置いておいて)と、回覧板を回しがてら、
お裾分けをあげたりもらったりは、今でも普通。
でも、地区の行事がだんだんと減って、みんなで集まってご飯を食べるようなことはどんどん減っています。

新型コロナの影響で、今まで通りのお葬式ができなくなりました。
そう、コロナだから・・・と思っているけど、本当にそうでしょうか?
コロナの前から、人が集まることをわずらわしいと思ってましたよね?
家族葬が増えましたけど、家族葬専用の会館ができ始めたのは最近のことではないのです。

親戚が亡くなって、初七日の夜、親族でお食事を頂きながら雑談をしていると、
今後の七日七日の法要をどうするかという話になりました。
私たちの世代は、親が仕切る法要に参加させて頂いていますが、
だんだんと自分たちがしなければならない時期が来ているから、
役をもらいながら覚えていきたいという話になったのです。

ふと、本当に自分たちの代になった時、そんなことが必要なのだろうか?と思いました。
そもそも、四十九日まで、七日ごとに法要をしているところも少ないですし、
していても家族だけというのがほとんどではないでしょうか。
今でさえ私たちの代の親族は2人しか参加していないのに、
子供の数も減っていれば、自分たちだけでと思ってしまうのは自然なことです。
関東の親戚では、火葬まで冷暗所にご遺体を預けて、それまでは、日々と変わらない生活。
各々友達をご飯を食べてくるというのを聞いて、
火葬の事情も違うから同じようには語れないと言っても、家族との別れ方の違いを恐いとさえ思いました。

そんなことがあって、『絆』の文字を見たときに、
ああ、絆ってわざわざ言わないといけないほどに、なくなってしまったものなんだと感じたわけです。

集まることがいいこだという気はないけど、
自分自身もコロナが良い言い訳になったと感じていることがある気がして、
ほころび始めていたものが、コロナのおかげではっきりと姿を現したという感じ。

この先、どのような世の中になるのか、やはり恐い気がします。

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