このお寺は、正式名は「仏徳山観音導利院興聖宝林禅寺」と言います。普通の寺院は石段を登りますが緩やかな坂道を、岩盤を切り崩して、直線の長い参道にしてあります。
その参道を登ると、さながら龍宮造の様な楼門、さらにその奥に薬師門と有ります。
曹洞宗の開祖道元が宋より帰国後、天福元年(1133年)にいまの伏見深草に一宇を創建したことに始まります。根本道場として曹洞宗の修業の場で有りましたが、叡山の衆徒の圧迫により道元が越前永平寺に移った事や焼き討ちにあい、本寺院は荒廃しました。
江戸時代・慶安元年(1648年)に万安英種を講じて、興聖寺を再興し淀藩主「永井尚政」は亡父と池田恒興の冥福を祈りました。
楼門をくぐり左手に、周囲を岩で配して「秋葉大権現」が祀られ、境内を鎮守し、右手には鐘楼が有ります。
この鐘楼は「興聖の晩鐘」として、宇治十二景に数えられています。
法堂は伏見城の遺構と伝えられ「釈迦如来像」が安置されています。
宇治市宇治山田27-1
また、宇治地区に戻りますが、「橋姫神社」からほんの少し歩いた所に、ちょっと「県」(あがた)と珍しい名前です。
この神社の由来は二説あります。祭神の木花開耶姫命の別名吾田津姫(あがたつひめ)であったことから、また、上代の宇治県の守護神として創建されたと言う事からです。
永承7年(1052年)藤原頼道が平等院を建設するさいの守護神となり、三井寺の管理下に有りました。
この県神社が良く知られているのは、別名「暗闇祭」と称する奇祭「県祭」です。
この奇祭は六月五日から六日にかけて行われる例祭で、とくに六日午前一時ころ、お旅所の宇治神社から、八尺八節の竹の棒書紙約千六百枚を束ねた、「梵天」といばれる御幣神輿を中心にして行列が向かいます。
宇治橋西詰で梵天回しを行い、沿道の燈火や家々の明かりをすべて消されて真暗闇の中、行列は進みます。
また、このむくの大木も有名です。
ご利益は、病気退散・縁結びの神事となっています。
宇治市蓮華72
京都におられる方や、京都に来られた方は、一度は必ずこの有名な「平等院」を訪れられると思います。(月並みな散策ですが)
つまらない、うんちくは抜きにして。歴史と、数多くの寺院を散策してきて発見したことをつらつら考えて、以下あまりにも有名な「平等院」を散策します。
嵯峨と宇治は平安貴族たちの別荘地でした。嵯峨に山荘「棲霞観」(せいかかん・現在の清涼寺)を建てた嵯峨天皇の皇子「源融」はここ宇治にも別荘寺院を営みました。それが藤原道長の宇治殿となり、後に末法に入ったとされる永承7年(1052年)に寺院に改めて、「天台宗平等院」となりました。
後に、諸堂が建造され、法華堂・護摩堂・多宝塔などの建物が建造されました。
治承4年(1180年)反平氏になった、以仁王(もちひとおう)と源頼政が平知盛とのこの地で戦い、頼政は自刃しました。後には「楠木正成」が平等院などを焼き払い、応仁の乱でさらに荒廃します。
ただ、唯一の救いは「阿弥陀堂」は兵火をのがれ、往時の華麗さを現在に伝えてくれます。
この阿弥陀堂を「鳳凰堂」と呼ぶようになったのは江戸時代以降の事です。古来中国で尊ばれた空想の瑞鳥が翼を広げた姿に似ていることからの名前です。
しかし、いくつもの寺院を散策して、ふと気がついた事は、以前に「清水寺の七不思議」で鐘楼の柱は普通四本と記しましたが六本でした。清水寺の柱に限って六本、鐘が重たいからかな?しかし、この平等院の鐘楼の柱は、なんと六本です。訪れた方は気ずかれましたか?
どこから見ても六本です。この鐘は六本で支えるほど重そうに無いと思いますが。(この鐘楼の鐘は天下三名鐘の一つです)。勢い東大寺・形の平等院・声の三井寺。また別に、神護寺・妙心寺・この平等院の鐘というときもありますが、とにかく、名鐘です。発見!!!柱は六本。
この六本柱の謎をどなたか教えて下さい。
一般的に鐘の音色は、撞木(しゅもく)で当る鐘の撞座(つきざ)が下の方が良い音色がが出ると聞いています。(普通の鐘は下の方に有ります)大きな国宝級の撞座は比較的上に有りますが、音色は素晴らしい物です。(これは余談)鐘の形や音は設置する場所や地形により色々工夫されています、そのうんちくはまた後ほどに。(昔の人は偉かった)
特報:1月31日に晴明神社が大人げない看板を出し、土産物店が和解勧告を表明しましたが、本日土産物屋はこんなことでのゴタゴタはバカバカしくて取り下げました。これで、晴明神社の一人相撲・土産物屋の方が大人でした。(経緯は1月31日の記事を参照下さい)
宇治市宇治蓮華116
ここ、金閣寺を訪れると、禅寺という観はほとんどしません。臨済宗相国寺派の禅寺です。
「足利義満がここで見せているのはたんなる財力の誇示ではなくて、明らかに公家文化を象徴した、彼の文化的な自己主張であったといえそうである」山崎正和氏著より。
朝から雪模様で有りましたので、めったに訪れた事のない「金閣寺」を散策しました。
足利義満は室町幕府第三代将軍として「華の御所」を造営し、政事でも守護大名を巧みに弱体し、また南北朝を統一して、日明貿易をおこない、室町幕府の絶頂期を築きました。
もとは、衣笠山東麓のこの地は平安貴族たちの遊楽の地であり、鎌倉時代のはじめ元任元年(1224年)には西園寺公経(きんつね)が広大な山荘を造営した所でした。公経が築いた山麓の北山第は苑池を中心に諸堂や邸宅を配して「天下の壮観」といわれるものでした。
義満が西園寺家の衰えに目を付けたのが荒廃していた北山第の敷地でした。
応永4年(1397年)広大な山荘を手に入れた義満は金閣を中心に、新たに華麗な殿楼の建造を始めました。後に、北山文化といわれる華やかな文化が華開きます。
しかし、この華やかな文化は長く続かず、義満没後、法号は「鹿苑院天山道義」とされました。鹿苑院とは、釈尊が仏の悟りをえたのちにはじめて説法した所の「鹿野苑」(ろくのおん)からの名です。
足利義持が義満の遺命より「夢窓疎石」(むそうそせき)を開山として禅寺にしました。そして義満の法号を採り、鹿苑寺という寺名にしたと言う事です。
のち、応仁の乱で多くの諸堂を焼失しましたが、金閣・方丈・書院・庫裏・不動尊が再建され、禅寺の伽藍が復興されました。しかし、禅寺というよりも何か庭園寺院という観がします。
安民沢(あんみんたく)に立つ西園寺家の守り神、白蛇塚。
金森宗和(そうわ)が好んだ茶室「夕佳亭」(せつかてい)。
弘法大師自刻の石不動明王を安置する不動堂。
京都に住んでいても、たまにはいいものです。
北区金閣寺町1