京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その137)北山文化の象徴・金閣寺

2012-02-20 04:24:25 | 京の話題

ここ、金閣寺を訪れると、禅寺という観はほとんどしません。臨済宗相国寺派の禅寺です。

「足利義満がここで見せているのはたんなる財力の誇示ではなくて、明らかに公家文化を象徴した、彼の文化的な自己主張であったといえそうである」山崎正和氏著より。

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朝から雪模様で有りましたので、めったに訪れた事のない「金閣寺」を散策しました。

足利義満は室町幕府第三代将軍として「華の御所」を造営し、政事でも守護大名を巧みに弱体し、また南北朝を統一して、日明貿易をおこない、室町幕府の絶頂期を築きました。

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もとは、衣笠山東麓のこの地は平安貴族たちの遊楽の地であり、鎌倉時代のはじめ元任元年(1224年)には西園寺公経(きんつね)が広大な山荘を造営した所でした。公経が築いた山麓の北山第は苑池を中心に諸堂や邸宅を配して「天下の壮観」といわれるものでした。

義満が西園寺家の衰えに目を付けたのが荒廃していた北山第の敷地でした。

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応永4年(1397年)広大な山荘を手に入れた義満は金閣を中心に、新たに華麗な殿楼の建造を始めました。後に、北山文化といわれる華やかな文化が華開きます。

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しかし、この華やかな文化は長く続かず、義満没後、法号は「鹿苑院天山道義」とされました。鹿苑院とは、釈尊が仏の悟りをえたのちにはじめて説法した所の「鹿野苑」(ろくのおん)からの名です。

足利義持が義満の遺命より「夢窓疎石」(むそうそせき)を開山として禅寺にしました。そして義満の法号を採り、鹿苑寺という寺名にしたと言う事です。

のち、応仁の乱で多くの諸堂を焼失しましたが、金閣・方丈・書院・庫裏・不動尊が再建され、禅寺の伽藍が復興されました。しかし、禅寺というよりも何か庭園寺院という観がします。

安民沢(あんみんたく)に立つ西園寺家の守り神、白蛇塚。

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金森宗和(そうわ)が好んだ茶室「夕佳亭」(せつかてい)。

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弘法大師自刻の石不動明王を安置する不動堂。

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京都に住んでいても、たまにはいいものです。

北区金閣寺町1


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