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四国八十八カ所 自転車遍路の旅①

2006-06-28 22:48:13 | 遍路
 今回からは、四国八十八箇所 自転車遍路の旅を掲載します。
未だ、工事中のところもありますが、完成部分から順次掲載します。

 本日は、プロローグ。

四国八十八ヶ所 自転車遍路の旅 (1-1)
はじめに
一九九六年の夏、私は「自転車(ママチャリ仕様)」で大阪茨木市発着、二泊三日で琵琶湖一周の旅をした。このときの「紀行文」は、当時のR大学教職員組合機関紙『はみだしユニオン』に掲載されている。とくに琵琶湖一周のモチベーションがあった訳ではないが、若い頃から登山や、アウト・ドアースポーツが好きで、一九九六年五月にはテントをかついで、一日半で比良山縦走などもしている。いろんなアウトドアの楽しみ方の中でも、自転車での旅はその地方地方の『生活のにおい』や、『四季それぞれの香り』の中に、自分のペースでたっぷりと浸ることができるので、好きである。
比良山縦走は、JR湖西線「堅田駅」を午後出発する「梅ノ木」行きのバスに乗り「坊村」で下車し、「奥の深谷」を大橋小屋まで登りテント泊。翌朝一気に「武奈ヶ岳」からいくつかの山峰を越え「蛇谷ヶ岳」を踏破し、スキー場を縦断してそのまま林道・県道をひたすら歩き続け、午後七時過ぎに湖西線「近江高島」まで行った。
一九九八年夏には、やはり「ママチャリ」で「淡路島」一周の旅を茨木市午後発、翌日夕刻帰宅でやり遂げた。この時は、阪神大震災の震源地である「北淡」を訪ねてみたかったのと、ちょうど「明石大橋」の開通する年で、それまでキャンプや四国への出張でよく利用した甲子園フェリーが廃止になるというので、「去り行くフェリー」を利用するメモリアル・ジャーニーを味わうという動機もあった。この「淡路島」ママチャリ一周の「紀行文」は別に記してある。
一九九九年は所要で何処へも行かなかったが、内心、次は四国一周それも八十八ヶ所参りにしようと決めていた。理由は、私が民間の会社で営業マンをしていた一九九〇年から一九九五年の間、四国の問屋・商社を担当し、営業車で頻繁に出張していた時に、よく『四国八十八ヶ所 第○番霊場○○寺』という看板を見かけたことがある。よく見れば、あちこちに赤い色で『遍路みち』と書かれ、その横に『お遍路さんマークの模様』が描かれた小さな札がぶら下げてあったり、木杭に『四国のみち』と書かれた道しるべが随所にあったり、なによりも若者からかなりの年配と思われるお遍路さんが、一心に歩いているのを時々見かけたことが、たいへん興味深く、気になっていたからである。
そんな理由で、二〇〇〇年の夏季休暇を利用して、(主として)自転車で四国八十八ヶ所参りを始めだした。とはいっても、全行程は急峻な山道を含む歩きの遍路みちでも千二百キロメートル、自転車で走行できる道路を辿ってもでも千四百キロメートル余りあり、歩いて回るには約二ヶ月、自転車で一気に完結するには二十~二十五日程かかり、そんなに日程的な余裕が無い。そこで各県二回、一回あたり二~三泊(予備日一~二日)三~四日程度を目途に計八回かけて完結しようと決め、イメージを作った。但し、私の遍路には一切『宗教的』理由や『人生を見つめなおす』といったような崇高な理由は無かった。以前からそうであったように、何らかの完結性のあるアクションをやり遂げるのが好きであり、いわば四国一周スタンプラリーのオリエンテーションのようなつもりで、「納経帳」の記帳をチェックポイントのスタンプ替わりに、愛車 (台湾製の重たいマウンテンバイク) を駆って、たっぷりと『四国の生活のにおい』に浸りにいこうと思ったのが、素直な動機なのである。
以下、各行程ごとに『自転車遍路』の記録と感想を書きとどめてみた。なお、四国は歴史的な旧跡や、『つわものどもの夢の跡』が数多く残っている土地柄なのだが、今回の『自転車遍路』 にあたって、予め勉強をしていった訳ではない。感じたまま、思ったまま書きなぶったものであり、記述の不正確な部分があると思われるが、それらについては後日「思いや感銘」が大きく変わらない範囲で、加筆修正したいと思う。

                            (続く)
コメント
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