昨日は所用のためアップできませんでした。
本日は、「大峰奥駈道2-3」を掲載します。
二〇〇五年八月十三日 ガスの中、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」を越え、前鬼へ日没との競争
八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本でも高いほうの山である。日本百名山の一つ。ここで少し写真撮影だが、あいにくの濃いガスのため景色はまったく見えない。この先ルートファインディングにも少し苦労をするかもしれない。
「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風となり、飛ばされれば危ないので、緊張が走る。
鎖場を過ぎ、急坂を上りきり、十四時十分に、大きな釈迦の像が置かれた「釈迦ヶ岳」(千八百メートル)の頂上に立つ。ここは視界がよければ「弥山」「八経ヶ岳」が一望で、北は大峰山脈、南は熊野にいたる山々、東は大台ケ原と絶景だそうだが、本日は残念ながら何も見えず。釈迦像は前に傾き、像自体にも亀裂が入って痛んでいる。修理しなければならないなと思う。時間も気になり頂上では簡単な記念撮影をして十四時十五分出発。
そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。
僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰ります。」
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」
そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎えにこなければならないかも』とちょっと考えがよぎる。
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり前鬼のご主人の五鬼助さんは、心配しておられたとのこと。ご心配をかけましてすみません。
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。
本日は、「大峰奥駈道2-3」を掲載します。
二〇〇五年八月十三日 ガスの中、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」を越え、前鬼へ日没との競争
八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本でも高いほうの山である。日本百名山の一つ。ここで少し写真撮影だが、あいにくの濃いガスのため景色はまったく見えない。この先ルートファインディングにも少し苦労をするかもしれない。
「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風となり、飛ばされれば危ないので、緊張が走る。
鎖場を過ぎ、急坂を上りきり、十四時十分に、大きな釈迦の像が置かれた「釈迦ヶ岳」(千八百メートル)の頂上に立つ。ここは視界がよければ「弥山」「八経ヶ岳」が一望で、北は大峰山脈、南は熊野にいたる山々、東は大台ケ原と絶景だそうだが、本日は残念ながら何も見えず。釈迦像は前に傾き、像自体にも亀裂が入って痛んでいる。修理しなければならないなと思う。時間も気になり頂上では簡単な記念撮影をして十四時十五分出発。
そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。
僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰ります。」
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」
そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎えにこなければならないかも』とちょっと考えがよぎる。
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり前鬼のご主人の五鬼助さんは、心配しておられたとのこと。ご心配をかけましてすみません。
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。