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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて②

2006-06-20 22:16:29 | ファミリー
 本日は、満州・文官屯での原風景と、それぞれの家族の思いを綴りました。

  “文官屯”の風景と家族それぞれの記憶の重なり
ハルピンと瀋陽を結んでいる瀋哈高速道路沿いに、女真族で清王朝の祖ヌルハチの陵墓である東陵がある。この付近には「ミステリアス・スロープ」といい、引力に逆らって上り坂はエンジンを切ってもどんどん加速度がつき、下り坂は自転車なら必至に漕がないと下がれない坂があるそうだ。日本でなら聞き流す話だが、ここは悠久の大地中国大陸である。思わず「本当だろうか?」と素直に思ってしまう。東陵を過ぎて、中国で数少ない高速道路の「サービスエリア」を過ごし、まもなく瀋陽の東北部郊外にある浦河インターチェンジを降りた。二〇〇一年四月三十日は、先刻の鉄嶺以来ずっと雨が降り続いている。この雨は今年に入って始めての雨、すなわち二十一世紀に降った初めての雨で、作付け前の大事な時期に私たち一行が雨をもたらしたかと勝手に思い込みながら、ほっとした気分になる。
浦河インターチェンジからしばらく一般道を走り、やがて右折した。道路標識に「金山路」とあり、おそらく西方に向いて走っていたがすぐに左折し、また右折して鉄路を横切った。この鉄路が「旧満鉄」の「奉天」から「新京」(現長春)へ向かう鉄路(但し、本線ではなく「引込み線」と思われるが)であり、「文官屯」はもうこのあたりであることは十分に感じる事ができた。姉Hは車窓からこの辺の風景を凝視している。道なりにほぼ西方面に走っているのだろうが、踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に「鳥居」が残っているのを発見した。「鳥居があった」と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。左手は近代的なマンション群、右手はわずかに古い街なみの雰囲気が残っている。しばらく行くと小さなロータリーがあり、それ以上は立ち入り禁止である。姉は、必死に自分の記憶を辿り寄せようと、ずっと風景を凝視しつづけているが、街の変わりように自分の記憶とあまりオーバーラップしない様子である。
小さなロータリーをUターンし、先ほどの通りに戻り右折し、まず「文官屯」の駅の確定と「鳥居」の確認に戻った。「文官屯駅」は、地元の人たち二~三人にたずねるとすぐに分かった。先ほど横断した鉄路の延長上にあり、現在は小さなプラットホームのようなものはあるが、旅客の乗降場はなさそうである。旧駅舎なのか、古いレンガ造りの建物が残っており、あたりは小さな製材所と、貯木場であった。道路をはさんで錆びた鉄のアーチ状のものがあり、その下を「駅前通り」とでも言うような、二十メートル幅ぐらいの道路がやはり工場方面へと続いている。その道路の右側のレンガ塀で囲まれた中に、「鳥居」が敗戦後の風雪に耐え抜き、「文化大革命」の大破壊行動にも耐え、まるで昭和史の証人のように、一人「満州」の地に忽然と残っていたのだった。ここは「藤見神社」の跡だった。終戦後、本日私達が「藤見神社」を訪れるまでに、おそらく幾人かのこの地にゆかりのある日本人が訪れていることだろう。「鳥居」は歴史の記念碑として、又この地で果てた「満州棄民」のエピータフ(墓碑銘)として、朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、「鳥居」の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。
「藤見神社」跡の隣は、姉や兄が通った「国民学校」の跡地であるが、現在は「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」となっている。そして道をはさんで東南側に、家族の第二の故郷である「南満砲兵工廠官舎」が存在していたのだが、かつての居宅の現存については確認できなかった。「遼寧兵器工業大学」「瀋陽工業学院」の南端から先はやはり、「立ち入り禁止区域」で、それ以上は近付けず、そこから右折し北西方面へと現地の生活道路を走った。進行方向右側は漆喰の土台のレンガ塀だが、後日兄Jにその写真を見せると、このような風景のところを通学したとのことであった。やがて最初に工場方面に右折した少し広い通りに合流した。「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。
姉は、駅から工場に至るまるでパリの凱旋門通りのように広い駅前通りから、向かって左の方へ歩いて十分ぐらい奥まった所に、神社・学校が有ったという。その更に奥に、「官舎」が有ったとのことである。今回旅行から帰った後、兄Jと話したが、やはりおなじ記憶であった。おそらく、最初に工場方面に左折した少し広い通りが、かつては姉の言うような凱旋門通りのような広い駅前通りであったのかも知れない。「文官屯」駅もその場所にあったのかもしれない。あるいは「駅前大通」ではなく、駅から少し離れた大通りであったのかもしれない。その方が、記憶とのオーバーラップがよりフィットするようだが、じっくりと歩いて実感し検証する事ができなかった。「立ち入り禁止区域」が多く、厳重な警備が行われているからである。「もう少し早い機会に、母も兄も一緒に訪問しておればよかった」と心底思った。きわめて健康ではあるが、九二歳の母親とともに今回日本に残った兄のために、文官屯の風景を精一杯心の中に焼き付けた。
私達は、しばらくの散策後思いのたけを胸いっぱいに吸い込み、第二の故郷文官屯をあとにした。
                               (続く)
コメント (1)
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