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“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

パライソメッセージ 3

2013-03-28 19:02:19 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.03.29

 

        Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130329」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

 

【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:理念、ポリシー、哲学を語ろう(3)

 「どうすれば理念、ポリシーそして哲学を語ることができるのか。」

 といったことは、余計な話かもしれないが、やはり勉強することだと思う。勉強するということは具体的には本を読んだりWEB情報を収集したり、新聞を読んだりあるいは映画を見たってかまわない。ただし、単に惰性で『のんべんだらり』と勉強していても駄目で、勉強するにあたって3つのポイントがあると思う。余談だが私は『3つのポイント』が好きで、学生との面談でも『面接の3つのポイント』とか『自己理解の3つのポイント』などとよく言っている。まあその話は別の機会として、『哲学を語るための勉強の3つのポイント』とは以下のとおり。

 第1には、批判的に、クリティカリリィに勉強すること。これはなにもシニカルに、世間を『拗ねた』目で観るといったことでは決して無い。経済・哲学理論でたとえて言えば古典哲学もアダムスミスもケインズも新自由主義もマルクスも全て是という前提ではなく、批判的にアプローチし、勉強するということ。歴史でも皇国史観であっても英雄豪傑の人物史観であっても唯物史観であっても、疑って勉強を始めるということである。何故そのような『ひねくれた』勉強の仕方をするかというと、批判的にクリティカリリィに情報にアプローチしないと、自分の理念やポリシー、哲学が形創られないからだ。すべてに無批判に情報に接すると、例えば最近のマスコミ特に新聞などひどいもので、世の中の表層的な現象、あったことを連々と書いてあるだけならまだしも、世論誘導に載せられかねないような記事が満載で、額面どおり信用してしまえばとんでもないことになる。アベノミクスで日本経済は好転した、とかTPPは第3の開国だ世界に取り残されない日本を、まるで当たり前のように評論家的にリストラの記事が出たり、経済同友会長谷川代表やら竹中平蔵氏らが「解雇規制の自由化」など平然と声高に言われたりで、まるで愚民化への誘導を目論んでいるとしか思えないような記事や情報が溢れかえっている。『物言わぬ・物考えぬ』若者や民衆に押さえ込もうとしているのか。

 批判的に情報を収集し勉強しなければ愚民化への奔流に流されてしまう。批判的にクリニカリリィに勉強することが、語るべき理念、ポリシーや哲学を醸成する苗床となる。

 

 第2の『哲学を語るための勉強のポイント』は、物事の本質を見抜くこと、それを意識して勉強すること。これは、第1のポイントと同じように思うかもしれないが、実はかなり違う。第1のポイントは批判的に勉強する、いわば勉強へのアプローチの『態度』であるが、物事の本質を見抜くというのは、勉強のオブジェクトといえるだろう。

 例えば、『資本論』を勉強しているとしよう。技術進歩が人類にもたらすものとして、ケインズは1930年の論文で、20世紀の終わりには技術進歩のおかげで人類は週5時間だけ働くようになるだろうと予言した。この予言は見事に外れ、実際は労働時間はかえって増え、しかもハードになっている。過労死などといわれる労働実態が有り、過労死はブラック企業の象徴にもなっている。資本家が「大洪水よ、わが亡き後に来たれ」(資本論)の心情で、競争におびえ特別剰余価値のあくなき追求の挙句、新自由主義が跋扈し、ギャンブル資本主義が吹き荒れ、リストラ企業やブラック企業が徘徊する今日の社会はマルクスの資本論を勉強すれば論理的に納得がいく。世間の表層の奥にある『本質』への理解が論理的な納得へと繋がっていく。

                     (続く)

 

【一押しMovie】

 今週は、映画の紹介。試写を見てでの話題提供ではないので恐縮ですが・・・

-映画「遺体~明日への10日間~」を見て-

 映画は石井氏のルポルタージュを映像化したものであり、ストーリーは無く、東日本大震災・津波による犠牲者を収容する釜石市のある遺体安置所で繰り広げられる人間模様を著した原作を忠実に映像化している。西田敏行が一人の軸となる民生委員を演じ、釜石市役所職員、医師、歯科医師、歯科医師の助手、僧侶、犠牲になった子供の母親等々の人間模様を、尾形直人、柳葉敏郎、佐藤浩市、酒井若菜、國村隼らが演じている。

 私は石井氏の原作を読んでおり、活字を通してでも苦悶にゆがんだ表情や姿態の遺体、人間の尊厳を踏み潰すように傷んだ遺体、悲しみや絶望に突き落とされる子供の苦しみに歪み悶える遺体、収容しきれなくなるほど隙も無く並べられた遺体やその腐臭など、およそ言葉にできないほどの地獄絵図がイメージとして心の中に焼き付いていた。果たしてこの映画はどれほどのリアリティで地獄絵図を映像化しているのか、映画を見る前はある種恐怖心のようなものを持っていた。

 映画は、無駄な描写やPTSDを起こすような津波の映像とかは一切無い。原作に忠実に映像は展開していくが、遺体の表情や姿態、寒々とした遺体安置所の中での人物描写や葛藤など淡々と映像化され、涙なしにはとても見られないのだが、直視できないような残酷でグロテスクな映像は一切出てこない節度のある画面であった。

 見終わった後で、私はこの映画に関わった製作者、スタッフ、出演者たちのメッセージは何だったんだろうと考えた。残酷な事実を節度ある画面で映像化し表現することに、私は逆に強いメッセージを感じた。この映画が問いかけるものは、自虐や過去の教訓に学ばないことへの戒め、自然に対する諌めや教訓でもない気がする。そういったモラルへの問いかけではないだろう。ましてや原発等も出てこず、告発や怒りでもない。私は、この悲劇・惨劇に対して目を背けるとか、この事実を忌避するのではなく、これからもこの事実に向き合わなければならないのだ、というメッセージをこの映画は発しているのではないだろうかと感じた。

 時間があれば、原作を読むのとあわせ、この映画を見られることをお勧めする。

コメント
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