散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

井山と秋山 ~ 久しぶりに囲碁のこと

2013-10-12 23:40:57 | 日記
2013年10月12日(土)

囲碁の話、ブログを読んでくれる皆はどのくらい関心があるのかしらん。
通じるといいんだけどな。

日曜日のNHK杯、二週連続で見ごたえのある対局になった。

9月29日は、当代最強の井山裕太が女流の強豪青木喜久代と対戦し、快勝。
週刊「碁」は「井山流 最強の仕掛け」と評した。
井山の碁を語るに「最強手」という言葉は、すっかり定番になった。それはそうなんだろうが、僕の受け取るポイントは少し違う。碁盤全体を、ひとつのでっかい手筋の場にしているように思えるんだな。

手筋って何だ?

定義不能だ、そんなもの。
ある種の手筋(あくまである種の、だ)を説明するとすれば、「A地点における利きを活用し、これとは離れたB地点において得を図ろうとする手法」とでもいうことになろうか。
「利き」というのは、こちらがある手を打った場合に、相手がどうしても特定の受け方をしなければならないという状態、つまり一方が他方に対してもつ強制力のことだ。

この種の手筋そのものはさほど神秘的なものではなくて(いや、むしろ手筋はすべからく神秘的なものであって、というべきかな)、特にA・B間の距離が比較的小さいものであれば、僕らヘボアマもそれなりに手筋を使う。シチョウアタリぐらいなら、盤の反対側に仕掛けることもある。棋力が上がるにつれ、より複雑で洗練された手筋を用いるようになり、より遠隔の地点において利きを活用する(あるいは、より遠隔の地点で活用できるような利きを準備する)ようになる。

プロともなれば盤全体が手筋の場であり、より高級な手筋を求めて日々研鑽していること言うまでもない。井山の場合、そのような意味でのプロらしさが人並み外れて洗練されているのではないか、そんな風に思えるのだ。

この対局で、井山は右下に一連の細工を施した。局地的には成立しない手段で、解説の小林覚九段もそのことを指摘しつつ、それらがいずれ利きとなって働くだろうことを仄めかした。序盤に三度続けて考慮時間を使った時、井山はまさに盤全体に広がる手筋パズルに取り組んでいたに違いない。果たして数手後、盤の中央を直線的に動き出した白石に対して、黒は止めるすべなく追随するほかなかった。

もちろん、僕らに真似も何もできたものではない。
が、
盤の局所を別々に分割して考えるのではなく、盤全体をひとつの大きな図柄として考えようとする、その姿勢は学べても良いはずだ。
人生に応用可能な学びではないかと思う。

*****

10月6日、和歌山行きの前日、宝塚で長男の録っておいてくれた録画を見る。
秋山次郎八段が、強敵・柳時薫九段を終盤にねじ伏せた一局だ。

秋山八段については不思議なことがあって、気づかないうちにこの人の棋譜が何局分か手許に溜まっているのである。もちろん強い人だが、「アマが並べるならこの人の棋譜」などと紹介される風ではない。おまけに僕は棋譜の収集にさほど興味がないから、棋譜が溜まったのは彼の棋風によほど惹かれているからに違いない。

その理由がこの日はよく分かった。
外勢重視の力戦派ということが理由の一つである。緑星学園流の雄大な布石なども打っていたっけ。
もうひとつは時流におもねらないことだ。二手目の三々、今どきは珍しい。
解説の溝上八段は「秋山さんは坂田栄男さんの棋譜をよく並べているので」とコメントしたが、確かに坂田師は三々を愛用したけれど、両者の棋風はまるで違っている。
外勢に三々はなじまないとしたものだが、その後も右下でハサミに対するコスミから外に回り、左辺ではカカリに対して二間バサミと、「昭和を思わせる定石選択」(溝上)が続く。

結果、ふと気づけば盤の左上に白の大きな正方形が出現している。
この土俵に黒を呼び込んで戦おうとしているのだが、左上が星ではなく三々なのがここへ来て意味をもつ。星ならば黒から隅へ入って地を稼ぐ手があるが、三々ではそうはならない。あくまで中央で戦うほかはない。
地にカラく打つための三々ではなく、相手を中央に追い込むための三々ではないか。

これが創造性ということだ。個々のパーツに新しみはないけれど、仕上がった布石は彼でなければ打てない。
棋譜のストックに、秋山次郎がもう一局追加された。

*****

僕自身のヘボ碁修行も継続中。

自分がどういう碁を打ちたいのか、ようやく少しわかってきた。
それにつれて、少しずつ手ごたえが増している。

先週はK五段に快勝、今日はM六段(?)に初めて勝たせてもらった。
勝ったことよりも、お手本にしてきたこの人たちと、どうやら対等に打てるようになったらしいことが嬉しいのである。

感謝


はだしのゲン、静かな騒擾

2013-10-12 23:26:00 | 日記
 関東地方のある中学校で、「命の授業」の一環として『はだしのゲン』の英訳者を招くことを予定していた。ところが前日になって県の教育委員会から校長宛てに電話が入り、中止しろとのこと。しかも、それが教育委員会の指示であることは厳に秘し、当然ながら外部に知れないよう注意されたいとのお達し付き。

 校長が「保護者にも伝達済みで、直前にそんな変更はできない。代わりを立てようにも代役がいない」と抗弁したところ、それならばと教育委員会が別の講師をよこして代講した。

 とはいえ、人の口に戸は閉てられないものである。どこから漏れたか地方紙が嗅ぎつけ、取材攻勢への対応で教職員一同ぐったり疲弊したことは御賢察の通り。

 未確認の伝聞情報である。迷惑をかけてはいけないから、情報源は厳に秘す。

臨床雑記 011 喪の作業 ~ 穏やかな

2013-10-12 11:47:46 | 日記
2013年10月12日(土)

Yさんが父上を送ってから一か月半。
まだそんなものか、受診のたびにYさん自身の確実に変化していることが、時間の密度を高めている。

***

 メールを整理していたら、八月に父が入院した前後のものが目に留まったんです。姉とのやりとりが主なんですけど、メールって発着時刻が秒単位で記録されているから、すごくリアルに記憶がよみがえるんですね。
 急ぎの時で姉が相手なのに、とても丁寧な言葉を自分が使っていて。少し年が離れているし、「です、ます」を使う傾向は日頃からあったんですけど。
 で、入院の時にお医者様が、「ちょっときびしいかも知れない」という言葉を使っていらしたんです。私はそれを「在宅を続けるのはきびしい」という意味にとったのだけれど、後から考えてみると、もっと本当に「きびしい」意味だったみたいなんです。
 いえ、恨んだり責めたりということではなく、その後の経過ですぐに分かりましたから。ただ、伝えたつもりと受け取ったことが、こういうふうにずれるんだなあと思って、自分が福祉の仕事をしているだけに、気をつけなくちゃって思ったんです。

***

 いろんな人に支えていただきました。ゼミの先生が「お花を贈らせていただくわね」っておっしゃったのに、なかなか届かないので忘れていらっしゃるのかなと思ったら、三日ほど前に。どうやら四十九日あけを待っていらしたみたいなんです。わが家はキリスト教だからそういう発想がなかったのだけれど、またひとつ勉強しました。
 別の友達で、タロットが趣味という人がいて。いえ、あれは占いではないんですって。内省の道しるべとでも言うんでしょうか、ええ、カードを使うんですけど。
 私、death というカードを引いちゃったんですよね、それで「やだなぁ」って言ったら、「あら、death は『再生』を意味するのよ」って。ああそうなんだ、キリスト教なのかしらって思いました。
 彼女が「カラオケルームに行きましょう」って。静かで邪魔が入らないし、お部屋代と飲み物代を払うだけだから、いちばん便利なんです。そんな使い方があるんですね。

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 私が父を亡くしたって聞いた利用者家族の方が、「つらいことがあったのに、いつもと変わらず働いている姿に感動しました」って言ってくださって。
 変わらなかったりしないんですよ、ほんとは。暇さえあれば泣いてばかりで、みっともないぐらい顔が腫れてたんですけど、仕事に行くだけは行って。仕事になってたのかどうかも、わからないんです。それでもそんな風に言われて驚きました。ええ、嬉しかったです。

***

 母は遺骨をしばらく置いておきたいみたいです。「お父さんと一緒にいたいから」って。私、こういうことは規則で決まってるのかと思ったら、お坊さんが「いつでもいいですよ」と言ってくださって。それが良かったらしくて、初めは「お父さん、どこへ行っちゃったんだろう」って言ってた母が、ここ数日は「お父さん、ここにいるみたい」って安心し始めた様子で。
 はい、そうなんです。先祖代々のお墓がお寺の付属で、訳を話したらお坊さんが構わないと言ってくださったので。ただ「納骨は仏式で行います」って。お坊さんが帰られたら、皆で讃美歌を歌おうかって言っています。
 え?牧師さんに?そうですね、お願いしてみましょうか、来てくださるかしら、お寺の墓地に。

 私はお骨よりも遺影ですね、不思議なもので、鏡みたいなんです。遺影が微笑んでいる時もあるし、ちょっと寂しそうに見える時もある。こちらの心が映るんですよね。反射?投影?さあ、どちらでしょう。ともかく、私の心を映す鏡なんですよ、父の遺影が。

穴二つ

2013-10-12 11:29:46 | 日記
2013年10月12日(土)

「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。」
(マタイ福音書 7:1)

有名なこの箇所のギリシア語原文は、単語わずかに5つから成る短文だ。
Μη κρινετε, ινα μη κριθητε.

これをさらに短縮して、単語3つにできるのではないかと考えた。
Κρινετε, και κριθητε.

変化形が正しいかどうか自信がないが、発想はこれで良いはずである。
「裁くがよい、汝も裁かれるであろう」

裁くに急な自分への戒めとして、唱えながら日を送ろうか。
「クリネテ、カイ、クリセーテ」
リズムがあって良さそうだ。

ふと気づいたら、日本語の中によく似た言葉があったよ。
古典落語なんぞに出てくる表現、

「人を呪わば穴二つ」

穴はもちろん墓穴の謂、さしあたりこれで十分役に立つ。

熱烈歓迎

2013-10-12 10:36:54 | 日記
2013年10月12日(土)

朝からあったかいですね。
今日も31℃になるんだそうです。

さて、今日も御訪問ありがとうございます。
4月から始めたブログですが、日に日に深くハマりこむ一方。
最近は朝起きると、まず前日の訪問者数を確認してしまうというありさまです。

いえ、決して数の多寡にこだわっているわけではなくて。
ブログは前日の閲覧ページ数と訪問者数を教えてくれるのですが、閲覧ページ数(PV)は更新したページ数によって左右されますから、気にする理由もないんですよね。
気になるのは、どちらかというと訪問者数で、これはこのところ一日平均して100人前後。

100人前後というこの数字が、とても気に入っているんです。

数字が安定しているということは、ほぼ毎日の固定訪問者が100人と考えて、大きく外れていないだろう。でも、私の方で思い浮かべることのできるお顔は、100人には遠く及びません。たかだか50人?そんなに浮かばないかもな、

ということは、私の方では認識していないのに、ちゃんと覗いてくれている人が50人ほどおいでる(伊予弁のおさらい)ということで、そう思うと感謝で頭が下がるんですよ。
人生の縮図ですよね、自分の気づかないところでどれほど支えてもらっているか。

再来週は某女子大学で『生きる力、生かす力』と題して講演するのですが、この件はぜひ聴衆の皆さんに伝えることにしましょう。
皆、こうやって生かしてもらっているということを。

同じく嬉しい幻は、私と全く面識がなかったのに、偶然立ち寄ったら面白いので見てます、という人。
あるといいなあ、そういう人が。

***

ところで、お顔の浮かぶ方のお一人が、「毎日のように見ているけれど、Facebook の『いいね』を押しても反映されないので残念」とお伝えくださいました。
ごめんなさい、ことさらそのように設定しているわけではなく、IT音痴なので気づかなかっただけです。

オジサンはITイノベーションに本能的に警戒姿勢を取りますので、mixi、Twitter、Facebook、line、すべて無視して暮らしています。ブログだけを、やっとこわごわ始めたところでした。
といって「いいね」を怖がる理由もないと思うけれど、小心者の自分は「いいね」が少ないときっと落ち込むよな~と、別の心配があったりします。

でも、一度試してみようかな。
どこをどういじったらいいか、goo ブログの設定に詳しい方、どなたか教えてください。

どちらさまも熱烈歓迎、引き続きよろしくお願いします。

店主敬白


(「蝦夷人」より拝借)