2019年5月30日(木)
逸話にはことかかない「太平記」だが、基本が軍記物だけに、この種の挿話はかえってまた印象に強い。
「賀茂の神主職は、神主の重職として、恩補(おんふ)次第あることなれば、咎なくしては改動の沙汰なき事なるを、今度、尊氏卿、貞久を改めて基久に補任す。かれ眉を開くこと、わづかに二十日を過ぎざるに、天下また反覆せしかば、公家の御沙汰として、貞久に返し付けらる。この事、今度の改動のみならず、両院の御治世替はるごとに、転変する事、掌を反すが如し。」
(第十五巻 15 賀茂神主改補のこと、文庫(2) P. 485-)
尊氏が京を制すると基久に、後醍醐帝が復権すると貞久に、神主職がキャッチボールされている状態なのだが、事の起こりは基久の娘である。
「養はれて深き窓にありし時より、若紫の匂ひ殊に、初本結の寝乱れ髪に、末いかならんと目もあやなり。齢すでに二八(=16歳)になりしかば・・・」(P. 486)
きりがないので省略するが、要は才色兼備の誉れ高い美女として、都の噂になっていた。これに食指を動かした貴人二人。帥宮(そつのみや)は後の後醍醐帝だが、当時は立太子の見込みの立たないわびしい立場、いっぽう伏見宮は後の後伏見法皇で、こちらは東宮の最有力候補だった。
この二人が三年にわたって根気強くラブレターを競い続け、「云ひ知らぬ御文の数、千束に余る程になりけり」という具合。親に急かされた娘は「ただこの度の御文に、御歌のいとあはれに覚え侍らん方へこそ、御返事申さめ」と、恨みっこなしの歌比べを申し出る。
まず伏見宮は、紙からして香り豊かにゴージャスに、
「思ひかね云はんとすればかき暮れて涙の外は言の葉もなし」
なかなかこれ以上の歌はあるまいと思っているところへ帥宮は、色あせた紙にさらりと、
「歌ならぬ身ののを山の夕時雨つれなき松はふるかひもなし」
これで娘の気もちに火がついた。
その夜、帥宮から迎えの牛車に乗ろうとしている娘に事情を聞いて、あわてたのが父・基久である。
「事の外なるわざをも計らひ給ひけるものかな。伏見院の宮は、東宮に立たせ給ふべき御沙汰あれば、この御方へ参りてこそ、深山隠れの老木までも、花咲く春にも逢ふべきに、そぞろなる生上達目(なまかんだちめ)に仕へん事は、誰がためとても待つべき方やある」
あかんあかん、皇太子候補を捨てて、うだつのあがらぬ半端公家を選ぶアホがあるかいな、というわけで、親の欲心からストップをかけ、娘の恋路をあっさり閉ざしてしまった。同時に基久の出世の道も閉ざされた。
後に事情を知った帥宮あらため後醍醐帝の怒るまいことか。
「御憤りの末深かりければ、帥宮御治世の初め、基久さしたる咎はなかりしかども、勅勘を蒙り、神職を解かれて、貞久に補せらる」
という次第。
「その後、天下大きに乱れて、二君、三度天位を替へさせ給ひしかば、基久、貞久、わづかに三、四年が中に、三度補せられ、三度改めらる」
こととあいなった。
身から出たさびとは言え、たまったものではない。基久しまいには、ほとほと嫌気がさしたらしい。
「『うたたねの夢よりもなほあだなるはこの比(ごろ)見つるうつつなりけり』
と、一首の歌を書きとどめて、つひに出家遁世の身となりにけり。」
仮寝の夢よりはかないものは、近頃見た現実であることよ、といった現代語訳が註がついている。「あだなる = はかない」は定訳だろうが、いっそ「バカバカしい」とでも言い換えてみたい。すまじきものは宮仕え、こんなことなら、欲をかかずに娘の恋路を通してやればよかったと、さぞや悔いたことだろう。
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それにしても歌の力の偉大なること、痛感するのは両宮の恋の歌より、あわれ基久遁世の一首である。
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