散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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一言、付記

2016-08-31 16:57:29 | 日記

2016年8月31日(水)

 この夏、ちょっとした御縁があって『統合失調症のひろば』に原稿を寄せることになった。詳しくはいずれ報告するとして、今はその冒頭に書いた一文を転載しておく。前項の学会声明に言寄せた注釈のようなものである。(負傷者数が学会の声明と違っているのは、施設職員2名を勘定するか否かによる。)

***

  「大変な事件が起きましたね、犯人は正気とは思われません。統合失調症ですか?精神疾患だと責任は問えないんですよね?」

 相模原の障害者福祉施設で19人が殺害され、26人が重軽傷を負った事件直後のことです。親しい友人のA君からメールが入りました。たたみかけるような調子の中に、医療関係者として他人事にしてはおけないという切迫感が伝わってきます。A君らしいなと苦笑しながら、しばらく考えて返信を打ちました。

 「この事件について、今の段階で確実に言えることはほとんどありません。しかし、逮捕された容疑者が統合失調症ではないことはほぼ断言できます。」

 それからまた少し考えて書き足しました。

 「すべての患者があらゆる場合に犯罪の責任を免れるわけではありません。本人にはどうしようもない病気のために、本人にはどうしようもない形で犯罪が行われた場合に限って、その限度で責任が減免されるのです。」

 送信すると同時にため息が出ました。内科医として日ごろ良心的に診療を続けている、人なつこいA君の笑顔が目の前に浮かびました。

Ω


相模原市の事件(精神神経学会見解)

2016-08-31 16:41:12 | 日記

2016年8月31日(水)

 つい先ほど精神神経学会から会員宛のメールが届き、下記の見解を発表したことを連絡してきた。ブログの読者諸賢にも見ていただきたいので、ここに転載する。

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2016 年 8 月 29 日

相模原市の障害者支援施設における事件とその後の動向に対する見解

公益社団法人 日本精神神経学会 法委員会

 2016 年 7 月 26 日、神奈川県相模原市の障害者支援施設において殺傷事件が発生し、19名の方が亡くなられ、24 名の方が負傷しました。亡くなられた方々とご家族に心から哀悼の意を表するとともに、負傷された方には一日も早く回復するようお見舞い申し上げます。

 今回の事件は、障害者を社会から抹殺する意図をもって周到に計画され実行されたとされていること、そして被疑者が事件の 5 ヶ月前に精神保健福祉法第 29 条による措置入院をしていたことなど、精神医療に深く関わる学会員に衝撃を与えるとともに重い課題をつきつけるものです。

 とりわけ、社会から障害者を排除しようとする思想がなお根深く残るなか、本事件を契機に精神医療が保安のための道具として強化されることを危惧しています。

 今回の事件の全貌が究明されていない現時点で、この事件の背景にどのような問題があり、このような事件がふたたび起こることのないようにどのような施策を講ずべきかを軽々しく言及することはできません。

 今回の事件を受けて、首相は事件の徹底究明、障害者支援施設の安全強化、そして精神障害者の措置入院後の追跡調査について検討するように指示し、それを受けて厚生労働省は 2016 年 8 月 10 日に「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」(以下、検証・検討チーム)を設置しました。検証・検討チームにおいては、被疑者を精神保健福祉法に基づいて通報したことの妥当性、精神障害の有無や診断の妥当性、精神障害があったとした場合の障害と事件との関係、事件前の措置入院および退院判断の妥当性、退院後の支援の実態などが検証検討されると思われます。

 検証・検討チームにおいて、どのような再発予防策が検討されるのかを慎重に見守る必要があります。措置入院患者の退院要件や退院手続きの厳格化、退院後の追跡の強化や強制通院命令の導入など、事件の再発防止をもっぱら精神医療に求め、精神医療が保安のための道具として強化されることが懸念されます。今回の事件によって精神保健福祉法が患者管理のための法律として再強化され、精神医療が特殊な医療へと逆戻りすることは決して許されません。また、精神障害者差別が助長されることも許されないことです。

 当学会法委員会は、この事件によって精神医療のあり方が歪められ、精神障害者の地域移行が停滞してしまうことがないように、以下の見解を表明いたします。

一 精神保健福祉法は措置入院制度も含め、犯罪予防のためにあるのではないことを明確にしなければならない。法は第一条の目的に明示されているように、患者の医療及び保護、社会復帰を目的とし、さらには社会経済活動への参加を目指しているのである。

二 措置入院制度は、精神症状によって自傷他害のおそれのある者に対する非自発入院であり、都道府県知事または政令市長の命令によってなされる行政措置である。入院の際にも退院の際にも、精神保健指定医の診断に基づいて、当該自治体の首長によって決定されるものである。措置入院の要件である「自傷他害のおそれ」とは、現在及び比較的近い将来に見込まれる精神症状の範囲で「おそれ」が診断されるものであり、今回の事件のように、措置入院が解除されて数ヶ月後の犯罪を予測することまでを要求されてはいない。そもそもそのような予測は医学的に不可能である。したがって、この事件が措置入院制度の不備によって起きたと断ずることはできない。

三 今回の事件で特異なのは、容疑者が「障害者は不幸を作ることしかできない」ので「日本国や世界の為」(衆議院議長あての書簡)との意図で犯行に及んだ可能性が大きいことである。このような極端な優生思想は、憲法はもとより、障害者権利条約や、障害者差別解消法等に基づくわが国の障害者施策からも、到底容認できるものではない。

 他方、いかに歪んだ思想であっても、精神症状としての妄想でなく、思想であるならば、精神医学・医療の営みとしての治療の対象ではありえない。ましてや、これを封じ込めるための手段として措置入院等の精神医療の枠組みが利用されることも許されない。このような思想に対しては、障害者への差別は許されないという実践によって社会全体としてたち向かわなければならないものである。

四 容疑者が今回の事件を引き起こした背景に、偏った思想的動機にとどまらない何らかの精神症状が関与していた可能性があり、事実関係の十分な解明が必要である。

五 措置入院患者の退院後の支援体制が不十分であることが従来から指摘されており、この点については異論がない。報道によれば、治安的な観点に基づく保護観察制度ないし強制通院制度の導入を提起する向きもあるが、これには断固として反対する。

 措置入院の経験者は、治安対策の対象者では断じてなく、地域社会の一員として平穏に生活する権利を持つ市民である。その支援策は治安的観点ではなく、医療による支援と住民福祉の考え方に基づいて講じられるべきである。

六 今回の犯罪がナチスドイツ時代の極端な優生思想に酷似した動機によってなされた可能性があることに、私たちは慄然とする。それは一見、今日の市民の感覚からすれば極めて異常な動機である。しかし一方で、我が国が優生保護法を母体保護法に改めたのが、今からわずか 20 年前の 1996 年であったことに思いをいたさなければならない。私たちの心性は、極めて特異に見えるこの事件の動機と決して無縁ではなく、私たち自身が今なおこのような優生思想の片鱗を内包していることを否定できないのである。

 私たちはこの事件の悲しみと憤りを乗り越えて、差別・偏見のない共生社会を実現しなければならないが、その営為は、私たち自身の内なる優生思想を克服することなしには達成できないことを銘記するものである。

Ω


大の大人が集まる理由 / 灯台もと暗し / 絵を見せる効用

2016-08-31 09:32:41 | 日記

2016年8月31日(水)

 先週の23日(火)は午後から出かけた。主たる用事はCMCCの医療相談で、最近は申し込みがなく流れることが多かったから久しぶりのことになる。陪席のメンタルフレンドがT氏からS氏へ交代になっており、いずれも篤信の教友ながらおのずと個性の違いがあるのが楽しい。教派的な違いもあり、聖公会のおっとりした味と、セブンスデ-・アドベンチストのひたむきな敬虔とが、原因なのか結果なのか二氏の持ち味によく呼応している。その観点からは、自分はどんなふうに見えるのだろうとちょっと気になる。

 病んでいる孤独な人があり、その人のためにいい大人が2人、何の義理もないのに貴重な時間を割いて相談に来るという布置自体が既に感動的である。おまけに今日は当事者を含め、関係者全員が信徒という最近めずらしい構図になり、時間の終わりを祈りで締めくくることができた。一同の教派的背景が重ねて多様である。なぜだろうか、違った持ち味の者が根本的な一致に支えられて協力するという風景が、いつも無性に嬉しいのである。だからこの道に惹かれるということがあったかもしれない。イエスの群れには、ゼロタイ(右翼国粋主義者)もいれば取税人(ローマ支配の末端代行者)もいたが、それが反目の原因になることはなかった。

 相談者が去り、まとめの雑談の中でS氏が思いがけず深い自己開示をなさった。弱さや痛みを開示できる者は、本当の意味で強いのである。パウロの理屈には辟易することが少なくないが、下記の言葉には脱帽する。それを我知らず実行しているSさんにも脱帽である。

「ところが主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる』。だから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。わたしが弱い時にこそ、わたしは強いのである。」(第二コリント 12:9-10)

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 蒸し暑いので躊躇もあるが、ついでを良いことに銀座に回る。大江戸線というものがどうも頭に入っていないが、これを使うと代々木から銀座が駅間19分である。移動中の液晶情報で今日勉強したのは、

「灯台下暗し」

 これって犬吠埼や佐多岬の灯台(lighthouse)のことじゃないのね!物を知らず恥ずかしい、国語辞典ふうに言うなら「支柱の上に皿を乗せ、灯油を満たして紐状の灯心に火をつける方式の、室内照明器具」のことだったのだ。

 

 ↑ こんな感じのものだが、案外写真が出てこない。このイラストも元サイトの url が不明で示せないのである。時代劇なんかでよく見ると思ったけれど、なるほどこれは下(もと)が暗いことだろう。

***

 さて銀座に回った目的は、中学校の同級生である斉木章代(さいき・ふみよ)画伯の最近作を見ることである。今年はみゆき通りに面した小画廊、20歳前後から一貫して少しもブレない画風だが、大小二幅を対にする趣向はあまり記憶にない。

 

  タイトルは「かたりべ(希望10)」、このところの連作である。

 作者自身は千葉のかなり田舎に住んでいるので、毎日銀座までは出てこない。ぼんやり絵を眺めていると、お仲間の先生方の会話が耳に入ってきた。

 「日本では小学校に入ると、図画工作の時間にいきなり絵の具を持たせて絵を描いてみろと云う、これがマズいんです。フランスだと、まず子どもたちを美術館に連れていって絵を見せる、たっぷり見せておいてから画用紙を与えるわけですな。手本になるイメージがあるから、子どもたちの食いつきが違う。」

 なるほど一理ありそうだ。言語教育でも同じことで、まず良い文章をたっぷり読ませなければ良い文章の書ける理屈がない。自発性とか創造性とかとは別の次元の話で、見聞きするそばから覚えていく頭の柔らかいうちに、名文をどんどん暗誦させたら良いのである。欧米では今でもそれをやっている。だからそこに歴史が生まれる。オバマのスピーチがリンカーンやMLKの演説の学びの上に構想されているのを、この夏も見たばかりだ。

 良いことを聞いた、来た甲斐がありました。

 

Ω

 


すごいサイトがありました!/ הַרְפּ֣וּ (ハルフー)

2016-08-30 10:45:39 | 日記

2016年8月30日(火)

 悔しいが、こういう蓄積は断然英語が優勢に決まっている。日本語をかませずに「הַרְפּ֣וּ וּ֭דְעוּ」をそのまま検索に放り込んだら、夥しいヘブライ語のサイトに混じって、ヘブライ語・英語まじりの項目が出てきた。それをたぐって「ほう!」と嘆声、見事という他はない。

Scholar`s Gateway:  http://scholarsgateway.com/

Interlinear Study Bible:  http://www.studylight.org/interlinear-bible/

 さしあたりどちらが良いとも判断がつかないが、いずれも旧約聖書のテキストに沿ってひとつひとつの言葉の原型・活用・語釈・用例・発音(音源付き!)などが一目瞭然の形で示され、便利この上もない。日本人の多くが必要以上に英語を苦にするのは真に残念なことである。「読むのはまあまあだが話すのが苦手」ならそれでも良いから、ともかくこの種のものを活用しない手はない。これだけの知的な宝が居ながらにして無料で活用できる、まったく何という時代だろう。

 で、僕の基本的な誤解と疑問があっという間に氷解した。

 「Be still」あるいは「Let be」と訳される言葉は、原語でも二語に違いないというのが僕の思い込みだった。そうではなくて、הַרְפּ֣וּ (ハルフー)の一語がそれなのである。「וּדְעוּ」は既に次の文の始まり、「Know that ~」だったのだ。「הַרְפּ֣וּ」は動詞「רפה」(ラファー)のヒフィル命令形と呼ばれる活用形で、「רפה」の語義としては to sink, relax, sink down, let drop あるいは withdraw といったものが挙げられている。retreat という連想も浮かび、なるほど、それでかと納得される。

 昂揚と緊張を放棄して沈み込みリラックスする、あるいは撤退する、そのようなイメージへの回帰命令を伝統的に「Be still(静まれ)」と表現したが、ある者はこれを「Let be(あるがままにあれ)」と訳し、またある者は「力を捨てよ」と言い換えたのだ。

 「הַרְפּ֣וּ (ハルフー)」 ~ "Let be" は "Let it be" のより根源的な形で、「我・汝関係」に照応するもののように思われる。"Be still" はその一側面を指示するに過ぎない。深く静かに響く言葉、日本語では何とする?

Ω


Let be...?

2016-08-30 09:16:57 | 日記

2016年8月30日(火)

"Be still" あるいは「ほたえな」の話の続き。勇を鼓してというか、怠け心にムチ打ってというか、ヘブライ語の原典を開いてみるが・・・

 הַרְפּוּ וּדְעוּ, כִּי-אָנֹכִי אֱלֹהִים;    אָרוּם בַּגּוֹיִם, אָרוּם בָּאָרֶץ

 何というか、まあ暗号だよね。だけどこういうのは慣れだけのもので、しばらく我慢して毎日眺めていると、ふと気づいたときにはそれが意味のあるまとまりに見えてくる・・・はずである。そういう感覚は一言語について一回しか味わえない。ポリグロットの中には、この感覚に味を占めて強迫的にこの作業を反復している人があるはずだ。強くもならない碁にふけるより、こっちのほうが生産的かな。

 厄介なのは右から左へ読み書きすることで、日本語だって昔はそうだったのだが欧米語とのつきあいの都合上、左から右にひらりと変身したのが、何でヘブライ語はできないかな。できないのじゃなくてしないのか、アラビア語(中東を中心に2億人以上が使用し、国連の公用語にもなっている大言語)も右から左だし、これを維持する方がトクなのかもしれない。こういう多様性は豊かさだと思うが、PC画面上で操作するには改行とかけっこう面倒なのね。

 ともかく、ポイントとなる部分を拡大すると、

 הַרְפּוּ וּדְעוּ

 たった8文字、2語なのに解読できない。辞書?辞書はでっかいのがあるんだが、引けないのですよ、活用が分からないから。引くはおろか、発音することもできない。ふと思いついて探したら、あったあった、ありました。ヘブライ語ー英語の旧約聖書対訳に、朗読音源を載せた公開サイトが!

 http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt0.htm

 詩編46を何度か通して聞いてみる。とりあえず耳にひっかかるのは「エロヒーム」と「アドナイ」、それぞれ「神」と「主」にあたる言葉で、ただそれだけである。肝心の部分(上記)は「ハルプ(フ)ー、ウドゥルー」という風に聞こえ、ああそのはずだとちょっと安心するが、それで理解が進むわけではない。

 ただ、この部分の英訳(どの版だかすぐには分からない)が、"Let be, and know that I am God." となっている。「静まれ」「力を捨てよ」に次いで、今度は「Let be」ですか。何でかくも多義的な・・・?Beatles の名曲など思い出され、ますます原語のカラクリが知りたくなってくる。

 ひょっとして、人生のキー・コンセプトがそこに隠れているかもしれない。

Ω