2023年1月22日(日)
カトリックに七つの秘蹟があり、その一つが告解すなわち罪の告白と赦しの秘蹟である。宗教改革は秘蹟を二つにまで絞り込み、その過程で告解は秘蹟から外された。
これが適切だったかどうか、議論も分かれようし個人的にも思うところがある。世俗のカウンセリングや心理療法が主としてプロテスタント圏で発展してきた事情は、遡れば宗教改革が告解を秘蹟から外したことと関連するとの持論がある。
それはさておき、罪の赦しはキリスト教信仰の核心であって、宗教改革者らもゆめこれを軽んじはしなかった。個別の告解に代えて礼拝式文そのものの中にそれを織り込んだのは、軽んじるどころか礼拝共同体の公同の行為として、告解を一段高める趣旨であったとM師の説教のまずはイントロ。
続くマタイ福音書の連続講解が27章に入り、1-10節はユダの自殺のくだりである。ユダのことは気になっている。数年前に義母から贈られた本が手許にある。
荒井献『ユダとは誰か』講談社学術文庫
そこに記される通り、ユダの「裏切り」に対する呪詛の調子は福音書の成立年代に沿って比例的に厳しくなる。
そもそもマルコにはユダが自殺したという記載がない。「裏切り」は端的に「引き渡した」ことに留まり、復活の主の顕現にガリラヤであずかった弟子たちの中にユダが含まれていたとの推測すら可能である。
マタイはちょうど今朝読まれた箇所において、イエスの処刑に先だってユダが後悔の念から縊死したと伝える。「自殺」説の唯一の根拠である。
ルカは福音書の続編にあたる使徒言行録の冒頭で、ユダが「不正を働いて得た報酬で買った土地」で無惨な転落死を遂げたことを記す。
ヨハネはユダの死について直接言及しないが、その動機と行為の「悪魔化」は他の福音書と比較して最も強い、ざっとこんな具合。
ところがそのヨハネ福音書で「イエスの「引き渡し」は、神の定めに従うイエスの意思の結果であることもまた同時に最も強調されている」(荒井、上掲書)というのである。
それならば「ユダはユダで託された役割を忠実に果たしたのではないか」というのがアマチュアの素朴な感想というもので、いずれにせよ自分の内側に素直な目を向けるなら、敵の手にわが主を引き渡す弱さも卑しさもいやというほど見えるのだから、「ユダはあちら側、自分はこちら側」などというのんきな位置どりは到底成立しない。逆にユダにこそ、他の誰に対するより同情も共感も最も容易である。
太宰は太宰らしくこの点を見逃さず、『駈込み訴へ』という名品を遺した。「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」との美知子夫人の証言があるという。
「主より大事なものがあるとすれば、私たちもまたユダと同じ危険をもつものでありましょう」とM師。
「神さまより大事なものがあっちゃいけないから」という若者の言葉を思い出す。
「ユダの方では、逆に主イエスに裏切られたと感じて憤っていたかもしれません。」
なるほどそうに違いない。
そして何より、
「ユダの自殺は自分自身に絶望した結果であり、ユダの心はついに主イエスに向かって開かれることがありませんでした。」
目のさめるような結びである。
自殺や絶望について、ということは希望を抱いて生き続けることについて、ある真理を指し示す言葉でもある。
Ω