2014年3月31日(月)
TS大の報告に、藤掛明氏の講演記録が載っている。
「自分のストレスをいかに知るか」、その最大のポイントとして「自己洞察によらないで、自分を管理、点検していくこと」を挙げているのが目を引いた。「頑張る人ほど自分のストレス状況がわからないから」だという。
それもそうか、ちょっと釈然としないのだけれど。
「洞察」に替え、第一に「日頃から自分が息切れしたときの(客観的に観察可能な)サインを自覚しておく」こと、第二に「身近な人との交流の中」で、その指摘に耳傾けることを提言なさっている。
「洞察」という言葉の意味が問題である。たぶんそこが引っかかるのだ。
自分は自己点検以上の自己洞察をしたことがあるだろうかと、これはまた遅ればせながらの自己洞察だ。
***
昨日、N先生のN教会最終説教から。
「生活には必ず終わりがある。そのことを弁えないものは、毎日の生活をおろそかにし、今日すべきことを明日に延ばす。」
いきなり脳天を一撃された。
主題聖句はペトロの手紙Ⅰ 2:11~25
「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(2:11)
上記はこの句に依っているのだが、よく読めばこの句も意味深長である。
肉欲と戦ってこれを克服せよ、とは書かない。
戦いを挑んでくる肉の欲を避けよ、と言うのだ。
「三十六計逃ぐるに如かず」あるいは「君子危うきに近寄らず」、「非戦」、いな「避戦」のススメではないか。
聖書のここに、こんなことが書いてあったのか。
しかもその根拠づけが「(この世では)旅人であり、仮住まいの身なのだから」とある。それでは本籍・本拠はどこにあるかと言えば、「天にある」(フィリピ 3:20)のに相違ない。ここは仮住まいなのだから、身を慎んで戦いを避けよと。むろん、あらゆる戦いのことではない、「肉欲との戦い」限定の話だけれど、ニーチェなら「背面世界論者」と斬って捨てるところ。
これは相当に考えさせられる。
逃げてたまるかとばかり突撃敢行して泥仕合に陥り、あげくに足をすくわれる counter-phobic なパターンを繰り返してきただけに。
***
N先生が声を励まして語られるのを聞きながら、目はすこし先を見ている。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」
(ペトロⅠ 2:16)
これがまた耳にも心にも痛い。
ふと思い出した。
「自由を制御できない人は、自由の人とは言えない。」
(ピタゴラス)
高校受験前、中学生向けの雑誌から切り取ったこの言葉を、鉛筆削りに貼りつけて励みにしていたのだ。まだどこかにあるかな、少年はひたむきだった。
賢人の言葉通りであるなら、今よりもあの頃のほうが、よほど自由であったかもしれないのだ。年を経て、いったい何がどう成長したのだろう?
さらに連想が飛び火する。
「私たちが自由であるのは、何ものかによって自由にされている時なのです。」
(ヤスパース)
そうだった。自由とは、てんでんバラバラや勝手気ままのことではなく、真に自由な者との一体化のことだったのだ。
様々な不自由を甘んじて受け、忠実に仕えてこられたN先生を壇上に仰ぎつつ、自由を巡る連想が頭の中を駆けている。
TS大の報告に、藤掛明氏の講演記録が載っている。
「自分のストレスをいかに知るか」、その最大のポイントとして「自己洞察によらないで、自分を管理、点検していくこと」を挙げているのが目を引いた。「頑張る人ほど自分のストレス状況がわからないから」だという。
それもそうか、ちょっと釈然としないのだけれど。
「洞察」に替え、第一に「日頃から自分が息切れしたときの(客観的に観察可能な)サインを自覚しておく」こと、第二に「身近な人との交流の中」で、その指摘に耳傾けることを提言なさっている。
「洞察」という言葉の意味が問題である。たぶんそこが引っかかるのだ。
自分は自己点検以上の自己洞察をしたことがあるだろうかと、これはまた遅ればせながらの自己洞察だ。
***
昨日、N先生のN教会最終説教から。
「生活には必ず終わりがある。そのことを弁えないものは、毎日の生活をおろそかにし、今日すべきことを明日に延ばす。」
いきなり脳天を一撃された。
主題聖句はペトロの手紙Ⅰ 2:11~25
「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(2:11)
上記はこの句に依っているのだが、よく読めばこの句も意味深長である。
肉欲と戦ってこれを克服せよ、とは書かない。
戦いを挑んでくる肉の欲を避けよ、と言うのだ。
「三十六計逃ぐるに如かず」あるいは「君子危うきに近寄らず」、「非戦」、いな「避戦」のススメではないか。
聖書のここに、こんなことが書いてあったのか。
しかもその根拠づけが「(この世では)旅人であり、仮住まいの身なのだから」とある。それでは本籍・本拠はどこにあるかと言えば、「天にある」(フィリピ 3:20)のに相違ない。ここは仮住まいなのだから、身を慎んで戦いを避けよと。むろん、あらゆる戦いのことではない、「肉欲との戦い」限定の話だけれど、ニーチェなら「背面世界論者」と斬って捨てるところ。
これは相当に考えさせられる。
逃げてたまるかとばかり突撃敢行して泥仕合に陥り、あげくに足をすくわれる counter-phobic なパターンを繰り返してきただけに。
***
N先生が声を励まして語られるのを聞きながら、目はすこし先を見ている。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」
(ペトロⅠ 2:16)
これがまた耳にも心にも痛い。
ふと思い出した。
「自由を制御できない人は、自由の人とは言えない。」
(ピタゴラス)
高校受験前、中学生向けの雑誌から切り取ったこの言葉を、鉛筆削りに貼りつけて励みにしていたのだ。まだどこかにあるかな、少年はひたむきだった。
賢人の言葉通りであるなら、今よりもあの頃のほうが、よほど自由であったかもしれないのだ。年を経て、いったい何がどう成長したのだろう?
さらに連想が飛び火する。
「私たちが自由であるのは、何ものかによって自由にされている時なのです。」
(ヤスパース)
そうだった。自由とは、てんでんバラバラや勝手気ままのことではなく、真に自由な者との一体化のことだったのだ。
様々な不自由を甘んじて受け、忠実に仕えてこられたN先生を壇上に仰ぎつつ、自由を巡る連想が頭の中を駆けている。