散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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羽生勝ち羽生敗れたり梅燦々

2018-02-19 09:26:52 | 日記

2018年2月17日(土)

 羽生(はにゅう)が勝ち、羽生(はぶ)が負けた歴史的一日。

 羽生結弦、圧巻の演技でソチ・平昌連覇達成。同じ日に中学生(15歳)の藤井聡太が羽生善治らを破って朝日杯将棋トーナメントを制し、タイトル獲得と六段昇進の最年少記録更新。こんな一日があるんだね。

 とりわけ愛知県民は嬉しくて仕方ないだろう。羽生に次いで銀に輝いた宇野昌磨は名古屋っ子、藤井は瀬戸市出身で名大(地元ではメイダイではなくナダイと呼ぶ)の付属校在学中である。名古屋近辺は腰の強い活気が続いている。

 羽生の直前にパトリック・チャンが、おそらくは五輪で最後の演技を披露した。ファンはこの人の凄さをよく知っている。ソチで羽生が優勝したとき、それ自体もさることながらチャンを凌いだことが俄には信じられなかった。彗星のような藤井の輝きも、羽生という不世出の天才棋士あればこそである。

 「羽生の手がふるえると、相手の勝ちはない」と言われるのだそうだ。読みに徹する間、感情の介在する余地はない。勝ち筋を読みきって仮想空間での勝負が終わった瞬間、生身の感情があふれてきて駒をもつ手が震える。その時、現実の勝負は既に決着して動かないというのである。これまた凄い話で、あわせてちょっと面白い。

 囲碁の観戦記で「ふるえる」と言えば、通常「優勢を意識して着手が萎縮する」ことを意味し、これが得てして大逆転の伏線になったりする。萎縮すまいとして逆に過激な着手に流れることを含め、僕らのヘボ碁でもよく起きることで、優勢な碁を勝ちきるのがいちばん難しいなどとも言う。しかし、羽生の場合は勝ちを完全に読みきった後で「ふるえる」というのだ。わずかな時間的先後の問題か、あるいは一番の将棋と一局の碁の、質的な長さの違いでもあるような。

 2週間ほども話題を溜めながら更新できずにいる間に、幕張の梅が今年も見事に咲いた。2月7日(水)の出勤途上、公園奥の梅林に足を向けると、年輩の男性ばかり何人か、本式のカメラやスマホを手にして眩しそうに枝々を見あげている。常連らしい人が「白はほぼ満開ですが、紅梅がまだ少し」と解説してくれた。

 今頃はともにピークを越えたことだろうか。

 

(横向きで失礼)

Ω


スマホコンパスとSOC

2018-02-18 09:23:31 | 日記

2018年2月16日(金)

 スマホの案外な効用について書いたところで中断していたので、そこから再開。

 小学校一年生、つまり昭和38年から39年頃だと思う。スキー場に向かう列車が長いトンネルに入ったとき、父が用意の磁石を取り出した。磁針をよく見ていろという。列車が進むにつれ、針がゆっくり向きを変え始めた。時にピクンと痙攣するように振れながら、行きつ戻りつを繰り返す。

 磁針は常に南北を示すのだから、その向きが変わったということは列車の方向が変わったということだと、得意げに父が説明してくれた。この時期から数年間、父はしきりにこの種のボーイスカウト的な小ネタを伝授してくれたが、もちろんボーイスカウトではなく、幼年学校から士官学校にかけて教わったことが主であったはずである。両者には当然ながら共通要素がある。

 その時はふうんぐらいにしか思わなかったものが、思い返すにつれ次第に意味を帯びてくるのはよくあることだが、磁石体験にもそんなところがあった。ブレない不可視の軸を身に帯びていてこそ、現に自分の向かっている方向を知ることができる。単純だが重要なことで、近年話題のSOC(首尾一貫感覚)などにも、その心理応用のような面がある。最近は面接の中で、「ブレない軸」をときどき話題にしてみている。

 磁石を持ち歩けばいろいろ面白いことはあるはずだが、虫眼鏡と同じでいつも鞄に入れておくのも煩わしい(と言いつつ、虫眼鏡は常に鞄に入れているんだが)。ありがたいことに、コンパスアプリがスマホに用意されているのを先日知った。下記のような顔をしており、現在地の経緯度や海抜まで示される(画面外)のも、GPSで常に監視されることの根源的な薄気味悪さを割り切って受け容れれば、甚だ便利で面白い。

 先日、地下鉄の中でふと取り出してしばらく眺めた。三田線の上り電車が、目黒駅を出た直後に大きく東へカーブを切り、やや北寄りに戻って白金台、ついでまた北へ舵を切って白金高輪に着く。地上図を頭に描けば分かりきった経過だが、コンパスが確かにそれをなぞるのが無邪気に楽しく、やがて楽しい以上の何かが伝わってくるように思われてくる。

 御茶ノ水の室内では、思っていた以上に建物が南北軸から振れていることに気づいた。出先でむやみに歩き回るので、ときどきとんでもない迷い方をすることがある。我を折ってスマホのコンパスを使えば、都会の真ん中で遭難することは避けられそうである。

Ω


気散じするのと気が散るのと/気が置ける?置けない?

2018-02-04 11:06:31 | 日記

2018年2月4日(日)

 「気立て」もまた「気のつく言葉」の係累で、この系列の面白さは無尽蔵とも思われる。これを鎌倉時代までの日本人が知らなかったということが、かえすがえすも不思議である。

 最近目についたものに、「気散じ」というのがある。今は耳慣れないが、ちょっと古めの小説などには「気晴らし(をする)」という意味で、「気散じ」「気散じする/気を散じ(ず)る」といった表現が現れる。

 「気が散る」「気を散らす」との対比が面白い。「気」が集中を失って散漫になる同じ現象を踏まえながら、「気が散る」「気を散らす」は集中欠如という負の面に注目し、「気散じ」は過度に集中して凝り固まった「気」を緩めて解放し、疲労を回復する正の面を見ている。

 そうそう、そう言えば・・・

***

 昨秋のことだったと思うが、すいた電車でぼんやりドアにもたれていたら、近くの座席から若い女性同士の会話がコロコロと聞こえてきた。

 「気が置けるとか、置けないとかって、混乱しない?」

 「する!このあいだ◯◯ちゃんが、うちらの仲間いいよね、安心して気が置けるよねって」

 「それって、違うくない?あ、いいのか」

 「う~ん、どうだろ・・・」

 樹上の小鳥のように賑やかに囀っていたのが、ここでぴたりと静まった。振り返ってみたら、2人並んで競うようにスマホを操作している。数十秒後、にっこりと顔を見合わせ、

 「ってことは」

 「私たちって」

 「気が置けない!」「気が置けない!」

 座席の上で跳びはねるように笑い交わした。

 スマホも使いようですね。こんなことでもなかったら、彼女らは生涯この語の用法を会得しなかったかもしれない。

 友情に乾杯!

Ω


ケーキのロウソクと節分の豆

2018-02-03 09:34:46 | 日記

2018年2月3日(土)

 「バースデー・ケーキよりもロウソクの方が重くなる時、人は人生について考え始める。」

 大昔のクイズダービーか何かに、「ロウソク」のところを伏せて当てさせる形で出題されたものと記憶する。アメリカの女優の言葉と聞いたが、惜しいことに女優の名前を覚えていない。

 いっぽうこちら。

 「お昼に節分の豆がでましたが、歳の数には足りませんでした。今年はこれだけにしようかな。」

 数えで95歳になる日本人女性である。場面も小道具も違っていながら、こめられた感慨とか哲学とかいったものが見事に等価なのだ。

 叡知は老いず、風雪を経て堅く立つ。

Ω


気立て、石立て、組み立て、見立て

2018-02-02 10:26:05 | 日記

2018年2月2日(金)

 入試で女性志願者の判定を行った際のこと。筆記試験の成績は申し分ないし、面接の印象も、とても気立ての良い感じでと言ったとたん、「ハラスメント!」と鋭い声がかかってギョッとした。回りはキョトンとするばかりで、その場はそれで流れたものの、腑に落ちない思いが尾を引いた。

 後から思ったのは「気立てが良い」というフレーズが、嘗てはお嫁さん候補の従順温和な性格を表すといった場面で常用されたことである。指摘したのは僕と同年代の女性なので、おおかたそうした世代の記憶にもとづいて反射的にパターナリズムを感じ取り、これに反発したものと了解した。

 本来の「気立て」という言葉は女性限定ではないし、従順温和ばかりを意味するのでもない。手許の国語辞典には「心の持ちかた、性質、気質。▽ 多く、よい場合に使う」とある(岩波国語辞典 第四版)。ただし用例として、いの一番に「~ のやさしい娘」と出てくるのが微妙なところで、このあたりに反射のカラクリが潜んでいただろう。

 僕自身は「気立て」という言葉を愛用しており、たとえば親しい人に息子たちのことを聞かれた時など、「欠点は多々ありますが、いずれも気立ての良い若者で」などと親バカを曝している。これも父親的な言い条だとすれば、「やっぱりパターナリズム」と食い下がられそうだけれど。

 ***

 「~ 立て」という言葉の部品は意識もせず使っているが面白いもので、「~」に入る言葉の基本構造を示すといった意味合いがあるようだ。

 「気立て」は、その人の「気」のあり方の基本構造のことで、そこから「性質、気質」という意味になる。

 棋道には古来「石立て」という言葉があり、今日でいえば布石にあたる。序盤においてその碁の方向性を規定する一連の着手のことだから、やはり「石」の基本構造である。

 「組み立て」は、いちばん成功・汎化した例か。プラモデルや家電から、巨大な建築、国政構造にまで使えるきわめて有用な言葉である。ただ、昨今は物の「組み立て」が見通しにくくなり、自分の手で「組み立てる」ことのできる範囲が著しく狭まった。

 昔のカメラや時計は完全に分解することができ、再度組み立てることが(理論的には)できた。実際にやってみようとして、分解はできたもののどういう訳だか組み立てられず、帰宅した父親に雷を落とされた経験は大概の男の子にあったはずだ。今は電子部品が心臓部を締めるから分解のしようがなく、修理に持ち込めば「買い直した方が安いですよ」と言われる始末で、「組み立て」に関心のもちようがない。子どもの理科離れとか、物作り日本の衰退凋落とか、関連事象はいろいろと考えられる。(憲法問題も?)

 もうひとつ挙げるなら「見立て」だろうか。現象の背後にある本質的なプロセスを見通すこと、その能力とでも言おうか。「あの医者は見立て(診立て)が良い」などと昔はよく使った表現。いっぽう現在の心理臨床では、医学的診断が医師の専権事項であるいっぽう、臨床心理士は「見立てはできるが、医学的診断をしてはならない」ことになっている。

 これが皮肉で面白いというのは、「見立て」のほうが「医学的診断」よりも広くて深い、より本質的な作業と考えることもできるからだ。しっかりした見立ての上に医学的診断を冠するのが本来の医師の役目であるところ、「見立て」を臨床心理士に投げてしまって(ついでに精神療法的配慮も)、DSMの操作的診断と薬物処方にあぐらをかいているという精神科医批判には、残念ながら小さからぬ説得力がある。

 「見立てはするんですが、診断はできないことになっています」と臨床心理士が慎ましく語る時、正面攻撃よりはるかに辛辣な批判を感じるのは、もちろんこちら側の問題である。見立ての力をこそ、医師もまた養いたいのだ。

***

 話がやや逸れるが、「立ち上げる」という言葉が僕は気持ち悪くて使えない。

 「立つ」(自動詞)、「立てる」(他動詞)

 「上がる」(自動詞)、「上げる」(他動詞)

 そこから生じるセットは「立ちあがる」(自動詞セット)か「立て上げる」(他動詞セット)かのどちらかで、「立ち上げる」などという捻れたキメラはあり得ない。親は子どもを「育て上げる」のであって、誰も「育ち上げる」とは言わないでしょう。

 で、先日のラジオ収録の際に確信もって「立て上げる」と言ったら、収録後にディレクターさんが「ここはこれで良いですか?」と確認を入れてきた。所信を伝えたら「他でも聞いたことがありますから」とあっさり認めてくれたが、他の人ならどうだったか。

 言葉の組み立てを考えれば明瞭なことだが、言葉についても組み立てへの関心は希薄になっているように思われる。

Ω