2018年2月2日(金)
入試で女性志願者の判定を行った際のこと。筆記試験の成績は申し分ないし、面接の印象も、とても気立ての良い感じでと言ったとたん、「ハラスメント!」と鋭い声がかかってギョッとした。回りはキョトンとするばかりで、その場はそれで流れたものの、腑に落ちない思いが尾を引いた。
後から思ったのは「気立てが良い」というフレーズが、嘗てはお嫁さん候補の従順温和な性格を表すといった場面で常用されたことである。指摘したのは僕と同年代の女性なので、おおかたそうした世代の記憶にもとづいて反射的にパターナリズムを感じ取り、これに反発したものと了解した。
本来の「気立て」という言葉は女性限定ではないし、従順温和ばかりを意味するのでもない。手許の国語辞典には「心の持ちかた、性質、気質。▽ 多く、よい場合に使う」とある(岩波国語辞典 第四版)。ただし用例として、いの一番に「~ のやさしい娘」と出てくるのが微妙なところで、このあたりに反射のカラクリが潜んでいただろう。
僕自身は「気立て」という言葉を愛用しており、たとえば親しい人に息子たちのことを聞かれた時など、「欠点は多々ありますが、いずれも気立ての良い若者で」などと親バカを曝している。これも父親的な言い条だとすれば、「やっぱりパターナリズム」と食い下がられそうだけれど。
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「~ 立て」という言葉の部品は意識もせず使っているが面白いもので、「~」に入る言葉の基本構造を示すといった意味合いがあるようだ。
「気立て」は、その人の「気」のあり方の基本構造のことで、そこから「性質、気質」という意味になる。
棋道には古来「石立て」という言葉があり、今日でいえば布石にあたる。序盤においてその碁の方向性を規定する一連の着手のことだから、やはり「石」の基本構造である。
「組み立て」は、いちばん成功・汎化した例か。プラモデルや家電から、巨大な建築、国政構造にまで使えるきわめて有用な言葉である。ただ、昨今は物の「組み立て」が見通しにくくなり、自分の手で「組み立てる」ことのできる範囲が著しく狭まった。
昔のカメラや時計は完全に分解することができ、再度組み立てることが(理論的には)できた。実際にやってみようとして、分解はできたもののどういう訳だか組み立てられず、帰宅した父親に雷を落とされた経験は大概の男の子にあったはずだ。今は電子部品が心臓部を締めるから分解のしようがなく、修理に持ち込めば「買い直した方が安いですよ」と言われる始末で、「組み立て」に関心のもちようがない。子どもの理科離れとか、物作り日本の衰退凋落とか、関連事象はいろいろと考えられる。(憲法問題も?)
もうひとつ挙げるなら「見立て」だろうか。現象の背後にある本質的なプロセスを見通すこと、その能力とでも言おうか。「あの医者は見立て(診立て)が良い」などと昔はよく使った表現。いっぽう現在の心理臨床では、医学的診断が医師の専権事項であるいっぽう、臨床心理士は「見立てはできるが、医学的診断をしてはならない」ことになっている。
これが皮肉で面白いというのは、「見立て」のほうが「医学的診断」よりも広くて深い、より本質的な作業と考えることもできるからだ。しっかりした見立ての上に医学的診断を冠するのが本来の医師の役目であるところ、「見立て」を臨床心理士に投げてしまって(ついでに精神療法的配慮も)、DSMの操作的診断と薬物処方にあぐらをかいているという精神科医批判には、残念ながら小さからぬ説得力がある。
「見立てはするんですが、診断はできないことになっています」と臨床心理士が慎ましく語る時、正面攻撃よりはるかに辛辣な批判を感じるのは、もちろんこちら側の問題である。見立ての力をこそ、医師もまた養いたいのだ。
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話がやや逸れるが、「立ち上げる」という言葉が僕は気持ち悪くて使えない。
「立つ」(自動詞)、「立てる」(他動詞)
「上がる」(自動詞)、「上げる」(他動詞)
そこから生じるセットは「立ちあがる」(自動詞セット)か「立て上げる」(他動詞セット)かのどちらかで、「立ち上げる」などという捻れたキメラはあり得ない。親は子どもを「育て上げる」のであって、誰も「育ち上げる」とは言わないでしょう。
で、先日のラジオ収録の際に確信もって「立て上げる」と言ったら、収録後にディレクターさんが「ここはこれで良いですか?」と確認を入れてきた。所信を伝えたら「他でも聞いたことがありますから」とあっさり認めてくれたが、他の人ならどうだったか。
言葉の組み立てを考えれば明瞭なことだが、言葉についても組み立てへの関心は希薄になっているように思われる。
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