散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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酸味迸り窓にヤモリの晩餉かな

2016-04-29 16:03:10 | 日記

 2016年4月27日(水)

 ・・・というわけで、珍しくせっせと前倒しの仕事に励み、連休は前半を郷里の巡回で過ごす。ともかく美しい季節であるが、移動日はいきなり雨に迎えられた。

 小雨とはいうものの草刈り機の効率は著しく落ちるし、石の多い庭はどこで滑るか分からず、自重するのが正解である。ふと思い立って大日の陽だまりを覗いてみたら、夏みかんとレモンがそれぞれの色の大きな実をたわわに実らせている。鈴なりとまではいかないものの、昨年の不作とはうって変わって天晴れの盛果。正月に父が「放棄する」と宣言した手間のかかる離れ地だが、この収穫を見て放棄する手はない。枯れ葉の始末や草刈りは明日のことにして、まずは夏みかんを手の届く高さで43個回収した。

 さっそく試食すると、爽やかに酸味が利いて美味い。一般消費者には「酸っぱい」と敬遠されそうだが、歯切れよい酸味なくして柑橘類に何の値打ちがあるかというのだ。ああ帰省の甲斐があったと夕飯を前に手足を伸ばすと、窓には常の通りヤモリが夜の御出勤である。ヤモリは「家守り」なんだろうが、「夜守り」ともあててみたくなる。冬の間に家族が増えたか、大小あわせて6匹を数えた。

 ガラス窓の外側というのは彼らにはありがたいはずで、灯火に惹かれてやってくる小昆虫を楽々と捕らえて飽食するかと思えば、そう簡単でもないらしい。小さな蛾が鼻先に寄ってきたのをパクリ食いつく仕草の前に、相手は易々と身をかわしている。こんなので餌が取れるのかなと心配になって、この風景はどこかで見たぞと思いついた。

 高校の修学旅行、奈良はたぶん猿沢池。鯉の群に亀が点在して一塊をなしている。そこへ餌を投げるとほぼ百中の百、鯉が食べてしまうのである。餌が空中にあるうちに早くもとらえた魚が、身を翻して水中に沈んだ残像に向かって爬虫類がのっそりと頚を伸ばす。こんなことでよく恐竜絶滅後の6500万年とやらを生き延びたものだ、それにしても「類」としての誇りはないのか、などと無茶な言いがかりを水面に投げていたのは、何の投影だったんでしょうね。

 ワニ、ヘビ、カメ、それにトカゲが爬虫類の残党4目、それぞれ個性があって捨てがたい中で、ヤモリという名のトカゲは人の生活に馴染んだ親しみがある。医学部時代の友人の話に、マレー半島をマレーシアから北へ旅していって、食堂の天井からヤモリが落ちてくるのを見たらタイ領に入った証拠だというのがあった。これはいくらなんでもホラだったんだろう。

 ヤモリに声援送りつつ一杯傾けるのも、帰省の小さからぬ楽しみだったりする。

  


「連休明け締切」のフトドキ/直訳という名の意訳/最近あった誤変換

2016-04-26 07:21:34 | 日記

2016年4月26日(火)

「連休明けまでに」という締切設定、実は問題なのだね。連休に仕事することを想定(というより事実上要求)しているとしたら、だ。

 連休にも気が向けば仕事するかもしれないが、それを強いられるのは真っ平ゴメンである。それで「連休明け」とか「5月9日までに」といった指示は、一律自主的に「連休に入る前」つまり4月28日(木)締切と読み替えることにしてみた。それで僕の場合は大した問題もなく、要するにおおかた自己管理の問題なのだが、中には連休が近づいてから「連休明け」を締切指定してくるフトドキな案件もある。僕らののんきな仕事場ですらそうだから、全国的にはかなり多いのではないかしら。

 これ、勤労者の権利に対する重大な侵害である。日本の場合、制度的に定められた休日祝日は世界的に見て実は多い方に属する。ただ、自主的に休暇を取ることに対して有形無形の圧力が強く存在し、そのため実際には休暇を楽しめない。そういう現実があるのに、暦通りの休みにまで事実上のサービス労働を求められるとしたら、いったいいつ休めばいいのかってことになる。

 連休は休むことを自明の前提として、指定するなら「連休入り前」を締切とするのがスジ、そういう慣行にならないかしらん。

*****

 少し前に電車の広告か何かで、ちょっと吹き出すことがあった。

 「疲れてる?」直訳すると顔ヤバイ

 OL川柳か何かそんなものだったと思うが、句そのものの面白さよりも「直訳」に笑ったのである。これ、ほんとうは「意訳すると」のはずだ。詠み手は「直訳」という語を「本音を直に言葉にすれば」という意味に使っていて、国語辞典的には誤用だけれど妙にサバけた可笑しみがある。

 「情けは人のためならず」の現代流解釈に一脈通じるものを感じて、だから言葉は面白いんだよなと、通勤のささくれた気持が一瞬なごんだ。

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 ついでに、最近のPC誤変換から。

「式辞臭」 (式辞集 ・・・ S先生のPCだ)

「貴倒壊」 (祈祷会 ・・・ 教会倒れちゃうよ)

「申酉臼」 (サルカニ合戦? ノーマン・サルトリウス先生、ごめんなさい)

 とりあえず以上でした。

Ω

 


パウロに何があった?

2016-04-25 09:18:08 | 日記

2016年4月25日(月)

 ついでに聖書をめぐってもうひとつ。

「わたしは自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしている。」(ロマ書 7:15)

 これは言うまでもなく「善」と「悪」に関することと考えられており、事実パウロ自身がそのようにリフレーズする。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(同 7:19)

 そうなのだが、そうなのだろうか?

***

 先週ある人と会う機会があり、その人の日頃の葛藤を聞かせてもらいながら、これらの句をずっと思い浮かべていた。この人の葛藤は、自らが不品行と信ずる具体的なことに関わっている。ただ、そのことは世間一般には必ずしも非難されることではなく、特に最近の風潮では人の嗜好の問題として是認される流れにあるものだ。だからこの人が自身を責めるのは世間標準に圧されてのことではなく、もっぱら自身の信念によるものなのである。僕にはこの人がある種の尊敬すべき人、もっぱら内面的な要請に従って自分を律すべく英雄的に闘う人に見えた。

 パウロは善悪について語っているが、自己の不従順を嘆くその深く真率な調子からは、どうもそれ以上のことが思われてならない。例の、彼が不遜にならないよう彼の肉体に与えられた「とげ」なるもの(σκολοψ コリントⅡ 12:7)と関係あるかどうかわからないが、何かひどく生々しく彼の肉体に食い入った何かについて、使徒は語っているのではないか。

 僕自身、思い当たる数多くのことがあり、とりわけ最近手を焼いている小さな「とげ」のことがある。パウロがただ頭でっかちの神学者でないことははっきりしている。むしろ自分の体を戦場として、熾烈な戦いを戦い続けた闘士だった。クレッチマーの類型を連想し、なぜかクレッチマー自身は「てんかん気質/闘士型」に不当に低い評価しか与えなかったことを思いだす。パウロは小柄な体格だったようだが、その魂の型はまぎれもなく闘士のそれであり、自ずと病跡学の方向も定まっていく。

 それにしても、何があったんだろう?


運動不足と深酒の害 / 信心?敬虔?それとも・・・

2016-04-25 06:06:38 | 日記

2016年4月25日(月)

 「締切過ぎ」状況のもうひとつの弊害は運動不足である。30分の散歩に出るヒマがあったら、一字でも原稿を書けという囁きが聞こえるからだが、もちろん合理的とはいえない。2~3日の突貫工事ならそれでも良いけれど、週の単位になればかえって生産性が落ちる。2~3日でやっつけてしまおうと自分にかけ声かけて籠もるのだが、合理的な判断というよりは後ろめたさの産物で、この間イライラと甘みに手を出したりする、ありがちの悪循環である。

 ただ、睡眠不足にはどうにも耐えられないことが分かっているから、この状況下で就寝起床はかえって早くなった。これだけが収穫かな。朝が気持ちよい季節でもある。震災さえなければ、九州も一年で最高の季節だろうに。体を伸ばして眠れることが、有り難く貴重なのだ。

 今日からは体を動かそう。

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 たまっているブログネタも、順不同で端から片づけよう。これはたぶん4月17日(日)あたりのものだ。キリスト教はもともと禁酒とは無縁である。ただ、深酒は厳に戒めている。

「酒は不遜、強い酒は騒ぎ/酔う者が知恵を得ることはない」(箴言20:1 新共同訳)

ついでながら、同じ箇所の別訳を見ると、

「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする/これに迷わされる者は無知である」(口語訳)

「酒は人をして嘲らせ、濃酒は人をして騒がしむ/これに迷はさるる者は無智なり」(文語訳)

いつものことだが旧約の訳にはバラツキが大きく、新訳ギリシア語とは違った旧訳ヘブル語の難しさが窺われる。

 深くない酒に関しては、新訳に下記の通り。

「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度度起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」(テモテへの手紙1 5:23)

 少しって、どのくらいかな。何しろOKなのだ、少しなら。

*****

 同じページの下段に、以前傍線を引いた箇所がある。

「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(同 6:6)

 大きく頷く。利得がなかったら信心なんかしない。ただしその利得というのは・・・

「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持って行くことができないからです。」(同 6:7)

 これが智恵というものだ。しきりに納得しながら、ふと「信心」と「信仰」はどう違うのだろうと考える。

「されど足ることを知りて敬虔を守る者は、大なる利益を得るなり。我らは何をも携へて世に来らず、また何をも携へて世を去ること能はざればなり。」(文語訳)

 ここでは「敬虔」、それでは原語を。

Εστιν δε πορισμος μετας η ευσεβεια μετα αθταρκειας.  οθδεν γαρ ενσηνεγκαμεν εις τον κοσμον, οτι οθδε εξενεγκειν τι δυναμεθα.

 ευσεβεια が問題の言葉で、伝統的に「敬虔 piety」もしくは「信心」と訳される。信徒であると自己紹介すると、次に紹介されるときは大概「石丸先生は敬虔なクリスチャンで」となるので、その都度、含み笑いを禁じ得ない。内心の敬虔を誰が知り得ようか、ほとんど虚辞なんですね。

 敬虔とは、かくのごとく信仰の質に関する形容詞である。僕としては信仰そのものが「利得の道」だと言いたいのだが、著者である使徒(実はパウロではない、という説が強いのかな)はそこを微妙に使い分け、信仰も敬虔といえる深さに進むにつれ、大きな利得をもたらすものになる、と言っているようだ。

 だとすると、文語訳の「敬虔」を口語訳・新共同訳で「信心」としちゃったのは、改悪ではないかしらん。そういえばフランシスコ会訳、つまりカトリックの兄弟たちはどう訳しているかなと、気になってあたってみた。

「確かに、宗教は足ることを知る人々にとっては大きな利益をもたらします。」

 これはびっくりポン、宗教かあ・・・逆方向にひねりましたね。恐れ入りました。


やっと・・・

2016-04-24 22:29:57 | 日記

2016年4月24日(日)

 夕方、送信した。

 添付したのは総計10万字弱の原稿のパッケージで、3月末までの約束で引き受けたものだった。完成原稿を送った瞬間には、いつもなら小躍りしたいようなちょっとした興奮があるものだが、今夕はひたすら虚脱状態で、最後の仕上げ前に長めの午睡をとったばかりなのに眠くて仕方がない。

 何が違うのかな。締切を過ぎている後ろめたさで、この3週間ほどは何をしていてもこの件が頭から離れなかった。そのことかな。

 それだけでもない、ブックレットのテーマは「精神疾患のある患者に対して家族はどう接すべきか、気をつけるポイントや薬の基礎知識、医療機関を受診する際の注意事項などについて」というもので、考えてみれば恐ろしいものを引き受けたと思う。賀来先生の温顔に釣り込まれたからでもあり、おまけに「もともと平山正実先生にお願いする筈だったのですが・・・」と聞かされて引っ込みのつけようもなくなってしまった。

 初めは、ごく実際的なノウハウを箇条書きにした、CCCシリーズ中でも最短最薄のものをイメージしていた。それが浅はかだというのだ。「家族」は恐ろしく重いテーマである。精神保健福祉の歴史の、否、日本の近現代史の急所といってもよい。良い証拠に、博士課程の授業の席で宮本みち子先生・大曽根寛先生という両巨頭と三つどもえの「真剣勝負」を戦わせることが、「締切過ぎ状態」に突入した途端に起きた。「薬」については年来の持論 ~ 「薬物療法は、薬というシンボリックなツールを用いたコミュニケーション療法に他ならない」 ~ を懐に抱えている。そして医者、この度しがたい存在を少しでも世のために使うには、どこからどう手をつけたらいいのか。よく見れば、ライフワークの総ざらえみたいなものではないか。当然長くなり、収拾がつかなくなった。だからこそ・・・

 書かせてもらってよかったのだ。さぞ、中途半端で不消化なものになってしまったころだろうけれど、今この時にこの仕事を与えられたのは、天啓に違いない。

 しかし疲れた。最後の1週間はブログも更新できず ~ 解説以来、最長に違いない ~ 書類が10件ばかりも山積みになっている。その間、世の中では井山裕太が七冠を達成し、新名神の工事現場で奇怪な事故が起き、熊本震災が長期化している。そう、16日の土曜日は修士課程の入学オリエンテーションで、震災に言寄せた主任スピーチをしたのだった。

 遠い昔のことみたいだ。ネジを巻き直そう。