散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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暦の警句と離人体験、他

2020-06-27 05:56:36 | 日記
2020年6月26日(金)

【暦の警句】
 「ハンス・マイヤーは徹頭徹尾、人にうしろ指を差されるような人ではありませんでした。どうして射殺されたのか皆目見当がつきません」
 「うしろ指を差されるような人ではないのか」マッティンガーは目の前で手を横に振った。
 「めったにお目にかかれるものではない。わたしは六十四歳になるが、この年になるまでに、そういう人物にはふたりしか会ったことがない。ひとりは十年前に死んだ。もうひとりはフランス人修道士。わたしのいうことを信じたまえ、ライネン弁護士。人間に白も黒もない……灰色なものさ」
 「まるで暦にある警句みたいですね」ライネンはいった。
 マッティンガーは笑った。
 「年を重ねると、暦の警句はますます真実味を増してくるものだ」
 フォン・シーラッハ/酒寄進一(訳)『コリーニ事件』創元推理文庫版 P.70

【離人体験】
 フィリップのときと同じように、ヨハナのことも失うようで、ライネンは不安だった。突然、彼の周囲が淀んだ。ベンチ、床、人間。音まで響きがにぶくなり、遠くから聞こえてくるようだった。光もいつもとちがっていた。キャリーバッグを引いた若い娘がぶつかってきたが、ライネンはよけることができなかった。彼は十分近く空港のコンコースに立ち尽くした。自分の姿が見える。縁もゆかりもない他人のように。
 ライネンは両手を合わせ、指の形や大きさを思いだそうとした。ゆっくりと自分を取りもどした。トイレに寄ると、顔を洗い、自分が自分であるとしっかり感じられるようになるまでしばらく鏡をのぞきつづけた。
同上、P.112

【アイロンの使い方】
 書斎には、カーテンの隙間から一筋、日の光が射し、その太い筋がデスクにかかっていた。ハンス・マイヤーは毎日ここで新聞を読んでいた。新聞はいつも調理場でアイロンがけされることになっていた。インクを紙にしっかりしみつけ、手を黒く染めないようにするためだ。
同上、P.92-3

 昨日、久しぶりに書店に寄り、『コリーニ事件』と『禁忌』を購った。帰りの電車の中で前者を読み始め、今日クリニックへの往復の間に読み終えた。文学作品としてどうかということよりも、扱われている内容と扱い方、そしてこの作品がドイツ一国の法制度に与えた現実の影響力が重要であろう。
 現代史の教材として、また司法制度が社会の中で生きた働きをする国が存在することの例証として、学生から一般に至るまで広く読まれて欲しい、まことに衝撃的な作品である。



Ω

初物のビワをインコに取られること

2020-06-24 11:17:21 | 日記
2020年6月8日(月)に書き忘れたこと
 最寄り駅からの帰り道、足もとにパラパラと何かが落ちてきた。おっとっと、危険な地点である。頭上に電線があり、樹木の関係だろうか各種の鳥がよくこの場所に止まるので、当然ながらちょいちょい落とし物が落ちてくる。そうと分かっていても、急坂にかかる狭い曲がり角で、50cm避けることがなかなか難しいのである。
 地面に散ったおが屑様のものは、幸いそれではないらしい。何だろうと振り仰ぐと、正体はこちら。



 電柱脇のビワに橙色の実が鈴なり、それをインコがわが物顔に電線でむしっているのである。パラパラと落ちる食べ残しの果肉、ふと福音書の問答を思い出した。

 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」
 「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
(マタイ 15:26-27、マルコ 7: 27-28)

 このインコはワカケホンセイインコ(Psittacula krameri manillensis)という種類らしく、インド・スリランカ原産のものが飼育用に輸入され、例によって逃げ出したり放たれたりで野生化したものである。色鮮やかに群れ飛ぶのを愛でる奇特な御仁もあるが、ケガをして路上を這っていたのを数日保護してみて、その狷介と頭の悪さにほとほと辟易した。
 体調40cmと決して小さくはなく嘴も鋭いので、在来種にはさぞかし脅威だろう。ギャーギャーわめく声も美しからず、初物のビワまで断りもなくムシリやがって、そっちが主人でこっちが小犬かい。
 こいつの先祖が恐竜だというのは、まったくもって頷ける等々、悪態つきながら坂を下った六月の午後。

 
Wiki より拝借

Ω

common sense と常識と

2020-06-22 19:25:10 | 読書メモ
2020年6月22日(月)
 電車内で『今昔物語』を読んでいて、マスクの中で「おっ」と叫んだ。こんなところにあったのか。
 『愛宕護の山の聖人、野猪(くさいなぎ)に謀られたる語』(20巻第13)、宇治拾遺物語では『猟師ほとけを射事』(巻8-6)にあたる。確かに読んだはずなのに、記憶に残っていないのはどうしたことだろう。野猪に化かされたのかしらん。

 山中で修行に励む聖のもとへ猟師が立ち寄った。聖が嬉しそうに語るには、修行の甲斐あって普賢菩薩が夜な夜な顕現するようになったという。それに間違いない、自分も見たと小僧が請け合ったところ、猟師は何を思ったか自分も一緒に拝みたいと言い出した。聖が読経し小僧と猟師が控えるところへ、夜空を明々と輝かせ白象に乗って普賢菩薩が現れた。と、猟師がいきなり立ち上がって満弓を引き絞り、菩薩目がけて矢を射込んだのである。一瞬にして菩薩は消え失せた。
 激しく嘆き、責めたてる聖に向かって猟師が諭す。高徳の聖に菩薩が顕れるのはゆえあることながら、駆け出しの小僧や殺傷を生業とする自分までが、その場にあずかるという話があるだろうか。定めて聖を誑かす物の怪の仕業に違いない、それに真の菩薩なら自分などの矢におめおめ撃たれはしないというのである。夜明けを待って点々と続く血痕を追っていくと、果たして巨大な狸が猟師の矢に射抜かれて絶命していた、あらましそういう筋である。
 今昔と宇治拾遺では例によって細かい違いがあり、今昔では野猪(くさいなぎ)、宇治拾遺では狸であったりするが、貴族の筆法ではタヌキを野猪とも記したらしい。その程度の揺らぎである。

 この話を再発見して何が嬉しかったか。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンに、これを翻案した短編があるのだ。こちらを先に僕は読んでいて、八雲が素材をどこから拾ったか、長年知りたく思っていたのである。
 短編のタイトルは『常識』、Hearn の原文では "Common Sense" である。

***

 常識という言葉をめぐって、書かれたものは数多くあるに違いない。その定番の切り口は以下のようなものである。
 すなわち、日本人は「常識」を知識に引き寄せて考える癖があり、「そんなことも知らんとは、何と常識のないやつだろうか」などと言ったりする。ちびまる子ちゃんの「そんなのジョーシキ」というやつで、常識のシキは知識のシキなのだ。時に常識は雑学とすら等置される。
 そうだとすれば、common sense は「常識」とは訳せない。sense は知識ではなくセンス ~ センスが好いというあのセンスの謂である。フランス語の有名な bon sense(良識)に通じ、判断力の範疇に属するものだ。トマス・ペインが何と書いたか正確に記憶しないが、おおかた「アメリカがイギリスから独立すべきことは、common sense に照らして自明である」と論じたのであろう。「そんなのジョーシキ」とは似たれども非なるものである。

 話を戻して、聖には何が欠けており、猟師には何が与えられていたか。
 今昔物語は冒頭に伏線を置き、「年来、法花経(法華経)を持奉りて他の念無くして、坊の外に出事無けり。智恵無くして法文を不学(まなばざり)けり」と聖を評する。読経には熱心だが、仏教の法理を学ばなかったというのである。
 これに呼応する末尾では、「聖人也と云ども、智恵無き者は此く被謀(たばからる)る也」と決めつける。ここでの「智恵無し」は「法文を学ばず」とほぼ等しく、『論語』に云う「思而不學則殆(思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし)」の族ということであろう。
 しかし、「学び」の重要性に話が流れるのでは、放送大学の広報には資するものの、ブログネタとしてはつまらない。
 そこで猟師の方に注目すると、こちらは
 「(殺生を生業として)罪を造ると云へども、思慮(おもばかり)有れば、此く野猪をも射顕はす也けり」
 とある。「射顕はす」は「射て化けの皮をはがす」の意で、愉快で使えそうな造語だが、何しろ猟師に功を立てさせたのは「思慮」だという。
 宇治拾遺もほぼ同旨だが、こちらは語りが平易でリズムがあり、思わず音読したくなる。
 「聖なれど、無智なれば、かやうにばかされける也。猟師なれども、おもんぱかりありければ、たぬきを射害(いころし)、其ばけをあらはしける也。」

 同じ結句をHearn/八雲の原文で見てみよう
 "The priest, although a learned and pious person, had easily been deceived by a badger.  But the hunter, an ignorant and irreligious man, was gifted with strong common sense; and by mother-wit alone he was able at once to detect and to destroy a dangerous illusion."
 「この僧は、学問のある信心ぶかい人ではあったが、タヌキのために手がるくだまされたのだった。ところが猟師は、無知で不信心な男ではあったが、堅固な常識をもっていた。そして常識の力だけで、危険なまぼろしを見やぶり、かつ滅ぼすことができたのである。」(中西秀男訳、北星堂訳注双書 昭和40年)

 見ての通り、八雲は微妙にゴールポストを動かしている。僧は "learned and pious" つまり、信心深いだけでなく学問もあったと描かれるのがそこだ。今昔/宇治拾遺が「読経専一で学ばないから」タヌキに騙されたとするところ、八雲は「学があっても役には立たなかった」と読み替える。
 そして「思慮(おもんぱかり)」の位置に "common sense" をドンと据えた。
 英語人としての矜恃あり、あわせて、愛する日本人に「常識」の力を知らせたいとの願いあり、タイトルに自ずとこもる意気込みが小品に凜とした気概を与えている。この気概ゆえに、小品ながら八雲/Hearn の代表作のうちにこれを数えてみたいのである。

 なお、mother-wit という言葉に注意しておきたい。「生来の知恵、常識」などと英和辞書にあり、Webster は "Native wit; common sense" と明記する。これを見てもcommon sense は生来・天来の資質であって、後から詰め込まれた雑学ジョーシキの類いではないことがよくわかる。
 この点を活かして、こんな格言があるらしい。
 "An ounce of mother wit is worth a pound of learning." 
 今昔/宇治拾遺の物語に触れた時、Hearn がこの格言を思い出したことは疑いない。猟師の内なる mother wit を、彼は世に出してやりたかったのだ。

 デカルトは、bon sens が他の何ものにも優って万人に平等に付与されているとし、その bon sens を基礎として思惟を進め『方法叙説』を著した。八雲の作品を読んだなら、大いに意を強くしたことであろう。


 ※ 奥付に昭和40年再版とあり、これは父の転勤に伴って親子三人、前橋から松江へ引っ越した年にあたる。文学好きでありかつて英文科に学んだ母が、引っ越し先の松江から八雲を連想して購ったものと想像する。
 今は懐かしい対訳本、「むじな」「おしどり」「雪おんな」「常識」「食人鬼(じきにんき)」「果心居士の物語」「耳なし芳一の物語」「青柳物語」の8編を収め、きわめてコスパの良い愛蔵の一冊である。定価180円也。
Ω



父の日の発見

2020-06-21 18:24:07 | 日記
2020年6月21日(日)
 父子間の葛藤は欧米文学の縦糸とも言うべきもので、この縦糸なくしては、とりわけ長編小説の名作はほとんど存在し得なかった。それもそのはずで、ヨーロッパ文化の二大源泉とされるギリシア神話と旧新約聖書のいずれもが、重すぎるほどの父子葛藤を根源に抱えている。
 以上は持論というほどのものではなく、昔からくり返し指摘されてきたことに違いない。
 ところが、ここに大きな例外があった。他ならぬトルストイである。読み終えたばかりの『アンナ・カレーニナ』、以前に読んだ『戦争と平和』あるいは『復活』、男女間の水平的な葛藤の厳しさは、さながら深淵を覗き込むようであるけれども、親子間のそれはほぼ全く見あたらない。個別の軋轢のあるなしではなく、作品を貫くモチーフとしておよそ注目されていないのである。
 この点、常に対比されるドストエフスキーの方は、大著『カラマーゾフの兄弟』が父親殺しをテーマとするのを初めとして、至るところに父子葛藤を見る。というより、それなくして彼の全体が成立せず、『ドストエフスキーと父親殺し』をフロイトがものした所以である。

 これは両者のキリスト教信仰のあり方とも照応することで、ドスエフスキーは「神秘主義」の語を冠せられるほどに、宗教の秘儀への没入を重んじた。二人殺しのラスコーリニコフにして、「ラザロの復活を信じるか」との予審判事ポルフィリー・ペトロビッチの問に対し、「文字通り信じる」と答えてはばからない。
 対するトルストイは、福音書の告げる物語の中から非科学的な要素をすべて剥ぎ取り、ただ倫理的なメッセージだけを酌み取って栄養としたことが窺われ、この方が19世紀のベクトルに適合的ではあったのだ。(アメリカ独立の立役者ジェファソンが、同様に合理的なエッセンスのみを抽出した私用の「聖書」を編んでいたと聞いたことがあり、18世紀の啓蒙主義に遡る話かもしれない。)
 父子葛藤はキリスト教の神秘的な側面の深い淵源であり、とりわけ「非合理的なるがゆえに信ずる」(Credo quia absurdum ー テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)型の信仰と、切っても切れない関係にあるように思われる。

 とはいえ、このモチーフと離れても本格的な長編小説が成立し得ること、考えてもみなかったが実はこうした強力な例証が存在するのだった。
 父の日のささやかな発見。

Ω
 



市安コレクション 1 『敬称と親称』

2020-06-20 11:16:10 | 日記
2020年6月20日(土)
 時の流れは恐ろしく速いもので、もう10年近くも前のことになる。ある時、教会に電動車椅子の男性が現れた。Kさんというこの人物は文筆家で、文集を発行したり作文教室を開いたり、地域で活躍していらっしゃる。こちらは文学少年崩れだから自ずと話も弾み、Kさんが発行するニューズレターに寄稿させてもらったりした。
 そのニューズレターの寄稿者の中に、敬称と親称について何度か書いた人がある。関心のもち方や読書傾向が自分自身と近く感じられ、毎回楽しみにしていたが、やがて諸事情あってニューズレターが廃刊になり、Kさんとも連絡がとれなくなってしまった。
 寄稿者の名を市安康太郎と言い、続きや関連著作があれば読んでみたいと思うものの、インターネット検索に引っかからず伝手がない。もとより筆名かもしれず、守備範囲の広いKさん自身の変名だったのかもしれないが、今となっては何とも知れない。
 そこで一計を案じた。
 「市安康太郎」という尊名を掲げて当時の記事を転記すれば、御自身あるいは関係の方から御連絡いただけるのではあるまいか。「勝手に載せるな」とお叱りが飛んでくれば、大喜びでお詫び申しあげるまでである。
 読んでの通り、敬称と親称に関わる連続エッセイを含んでおり、この記憶があるから自分では書かなかったのである。これに先立つ何回かにわたり、市安はチェーホフの『決闘』とトーマス・マンの『魔の山』を引き比べ、あれこれ論っていたことを付記しておく。

***

『敬称と親称』
市安康太郎

 チェーホフとマンの対照が面白くて、つい決闘の話題に深入りした。博学有才の人なら優に一冊をものすことができるテーマで、実際いろいろと書かれているはずである。昔であれば決闘に訴えたはずのことを、今日のわれわれはどう解決しているのだろうかと、それだけを宿題に残して「翻訳」の話に戻る。
 二人称単数の代名詞に関して、「敬称」と「親称」の別というものが多くの欧州語に存在する。今日の英語では見られない現象であるから、初めはたいそうもの珍しく思われた。ドイツ語に接してSieとduの違いがあるのに驚き、あるいはフランス語に触れてvousとtuの違いがあることを学ぶ。
 「妙なものだ、同じ欧州語でも英語とは違っている」
 「フランスとドイツは仲が悪そうなのに、こんなところに共通点があった」
などと感心するが、実は感心の仕方が間違っている。これは欧州語に広く共通の特徴であり、英語のほうが他と違っているのである。正確に言えば、数世紀前までは英語も欧州語の基本型に従っていたが、ある時期から独自の歩みをたどって現在ではこの区別を廃してしまったということらしい。
 この件だけでなく、名詞の性別、代名詞の格変化、動詞の人称語尾変化など、煩雑にして由緒正しいディテイルを大胆にそぎ落としあるいは簡略化している点で、英語は特殊な変わり種のようである。欧州語という魚群中にあって、鰭が大幅に退化したのっぺらぼうのような代物と見えないでもない。
 その珍種が、史上空前の国際語として幅をきかしている。のっぺらぼうであることと、その世界史的成功との間に、因果関係があるのかどうかはよく分からない。「煩雑な変化が少ないから習得が容易である」とは必ずしも言えない気がする。
 ともかく、英語以外の大方の欧州語には「あなた」と「君/おまえ」の区別がある。これは言うまでもなく人間関係を反映するもので、目上に対しては敬称を使うのが原則である。また疎遠な相手に対しては、これを援用して距離を表現する(「敬遠」!)。もっとも、どちらが原義でどちらが援用なのか。
 上下関係よりも、仲間であるか否かの区別が原義であるとの説明をどこかで見たが、そうなのかもしれない。ドイツ語などの場合、「神」は必ず親称で呼ぶのが決まりであり、この点で犬と同じ扱いである。敬意の多寡で測るならこのことの説明は難しい。仲間か否か、すなわち自分との近さに依ることとすれば、驚きと共に腑に落ちるだろう。
 さて、一対の人間の関係が疎遠から親近へと変化する場合、ふたりが互いに用いる二人称代名詞は、ある時点で敬称から親称へと変わることになる。それが最も劇的に現れるのは男女関係において、友達が恋人に変わる瞬間であるに違いない。
 やれやれ、やっと本題にたどり着いた。
 この変化 ~ フランス語で tutoyer と呼ばれるあいだがらの誕生、人間関係のメタモルフォーゼに作家が注目しないはずがない。
 『魔の山』の中にも、ちゃんとその仕掛けは施されている。
 (続く)