2020年6月22日(月)
電車内で『今昔物語』を読んでいて、マスクの中で「おっ」と叫んだ。こんなところにあったのか。
『愛宕護の山の聖人、野猪(くさいなぎ)に謀られたる語』(20巻第13)、宇治拾遺物語では『猟師ほとけを射事』(巻8-6)にあたる。確かに読んだはずなのに、記憶に残っていないのはどうしたことだろう。野猪に化かされたのかしらん。
山中で修行に励む聖のもとへ猟師が立ち寄った。聖が嬉しそうに語るには、修行の甲斐あって普賢菩薩が夜な夜な顕現するようになったという。それに間違いない、自分も見たと小僧が請け合ったところ、猟師は何を思ったか自分も一緒に拝みたいと言い出した。聖が読経し小僧と猟師が控えるところへ、夜空を明々と輝かせ白象に乗って普賢菩薩が現れた。と、猟師がいきなり立ち上がって満弓を引き絞り、菩薩目がけて矢を射込んだのである。一瞬にして菩薩は消え失せた。
激しく嘆き、責めたてる聖に向かって猟師が諭す。高徳の聖に菩薩が顕れるのはゆえあることながら、駆け出しの小僧や殺傷を生業とする自分までが、その場にあずかるという話があるだろうか。定めて聖を誑かす物の怪の仕業に違いない、それに真の菩薩なら自分などの矢におめおめ撃たれはしないというのである。夜明けを待って点々と続く血痕を追っていくと、果たして巨大な狸が猟師の矢に射抜かれて絶命していた、あらましそういう筋である。
今昔と宇治拾遺では例によって細かい違いがあり、今昔では野猪(くさいなぎ)、宇治拾遺では狸であったりするが、貴族の筆法ではタヌキを野猪とも記したらしい。その程度の揺らぎである。
この話を再発見して何が嬉しかったか。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンに、これを翻案した短編があるのだ。こちらを先に僕は読んでいて、八雲が素材をどこから拾ったか、長年知りたく思っていたのである。
短編のタイトルは『常識』、Hearn の原文では "Common Sense" である。
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常識という言葉をめぐって、書かれたものは数多くあるに違いない。その定番の切り口は以下のようなものである。
すなわち、日本人は「常識」を知識に引き寄せて考える癖があり、「そんなことも知らんとは、何と常識のないやつだろうか」などと言ったりする。ちびまる子ちゃんの「そんなのジョーシキ」というやつで、常識のシキは知識のシキなのだ。時に常識は雑学とすら等置される。
そうだとすれば、common sense は「常識」とは訳せない。sense は知識ではなくセンス ~ センスが好いというあのセンスの謂である。フランス語の有名な bon sense(良識)に通じ、判断力の範疇に属するものだ。トマス・ペインが何と書いたか正確に記憶しないが、おおかた「アメリカがイギリスから独立すべきことは、common sense に照らして自明である」と論じたのであろう。「そんなのジョーシキ」とは似たれども非なるものである。
話を戻して、聖には何が欠けており、猟師には何が与えられていたか。
今昔物語は冒頭に伏線を置き、「年来、法花経(法華経)を持奉りて他の念無くして、坊の外に出事無けり。智恵無くして法文を不学(まなばざり)けり」と聖を評する。読経には熱心だが、仏教の法理を学ばなかったというのである。
これに呼応する末尾では、「聖人也と云ども、智恵無き者は此く被謀(たばからる)る也」と決めつける。ここでの「智恵無し」は「法文を学ばず」とほぼ等しく、『論語』に云う「思而不學則殆(思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし)」の族ということであろう。
しかし、「学び」の重要性に話が流れるのでは、放送大学の広報には資するものの、ブログネタとしてはつまらない。
そこで猟師の方に注目すると、こちらは
「(殺生を生業として)罪を造ると云へども、思慮(おもばかり)有れば、此く野猪をも射顕はす也けり」
とある。「射顕はす」は「射て化けの皮をはがす」の意で、愉快で使えそうな造語だが、何しろ猟師に功を立てさせたのは「思慮」だという。
宇治拾遺もほぼ同旨だが、こちらは語りが平易でリズムがあり、思わず音読したくなる。
「聖なれど、無智なれば、かやうにばかされける也。猟師なれども、おもんぱかりありければ、たぬきを射害(いころし)、其ばけをあらはしける也。」
同じ結句をHearn/八雲の原文で見てみよう
"The priest, although a learned and pious person, had easily been deceived by a badger. But the hunter, an ignorant and irreligious man, was gifted with strong common sense; and by mother-wit alone he was able at once to detect and to destroy a dangerous illusion."
「この僧は、学問のある信心ぶかい人ではあったが、タヌキのために手がるくだまされたのだった。ところが猟師は、無知で不信心な男ではあったが、堅固な常識をもっていた。そして常識の力だけで、危険なまぼろしを見やぶり、かつ滅ぼすことができたのである。」(中西秀男訳、北星堂訳注双書 昭和40年)
見ての通り、八雲は微妙にゴールポストを動かしている。僧は "learned and pious" つまり、信心深いだけでなく学問もあったと描かれるのがそこだ。今昔/宇治拾遺が「読経専一で学ばないから」タヌキに騙されたとするところ、八雲は「学があっても役には立たなかった」と読み替える。
そして「思慮(おもんぱかり)」の位置に "common sense" をドンと据えた。
英語人としての矜恃あり、あわせて、愛する日本人に「常識」の力を知らせたいとの願いあり、タイトルに自ずとこもる意気込みが小品に凜とした気概を与えている。この気概ゆえに、小品ながら八雲/Hearn の代表作のうちにこれを数えてみたいのである。
なお、mother-wit という言葉に注意しておきたい。「生来の知恵、常識」などと英和辞書にあり、Webster は "Native wit; common sense" と明記する。これを見てもcommon sense は生来・天来の資質であって、後から詰め込まれた雑学ジョーシキの類いではないことがよくわかる。
この点を活かして、こんな格言があるらしい。
"An ounce of mother wit is worth a pound of learning."
今昔/宇治拾遺の物語に触れた時、Hearn がこの格言を思い出したことは疑いない。猟師の内なる mother wit を、彼は世に出してやりたかったのだ。
デカルトは、bon sens が他の何ものにも優って万人に平等に付与されているとし、その bon sens を基礎として思惟を進め『方法叙説』を著した。八雲の作品を読んだなら、大いに意を強くしたことであろう。
※ 奥付に昭和40年再版とあり、これは父の転勤に伴って親子三人、前橋から松江へ引っ越した年にあたる。文学好きでありかつて英文科に学んだ母が、引っ越し先の松江から八雲を連想して購ったものと想像する。
今は懐かしい対訳本、「むじな」「おしどり」「雪おんな」「常識」「食人鬼(じきにんき)」「果心居士の物語」「耳なし芳一の物語」「青柳物語」の8編を収め、きわめてコスパの良い愛蔵の一冊である。定価180円也。
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