2021年4月6日(火)
重い病気で余命を限られた父親に、家を飛び出した次女から電話が入る。
「帰って来るな、帰るなよ」と父親。その言葉通り、娘は臨終の床にも葬儀にも現れなかった。
後日帰郷して長女に詰め寄られ、次女の言ったこと。
自分は父親に逆らってばかりいた、右へ行けと言われれば左へ行き、静かにしろと言われれば大声を出し、いつも逆らっては手を焼かせていた。そんな自分が帰ってきたら、なるほどおちついて養生もできなかろう。せめて最後ぐらいは父親の言葉に従おう、そう考えたのだと。
哀れやボタンの掛け違い、次女の性格からして「帰るな」と言えば、きっと帰って来るものと父親の方では期待した。それが見事に裏目に出て今度ばかりは父の言葉の字面(じづら)通りに振る舞い、結果的に最後まで父親の望みに逆らうことになった・・・何作か前の朝のドラマに織り込まれた挿話である。
この場合、父親が「帰れ」と言ったら娘は反射的に逆らったに相違なく、どのみち父親の死に目には会えそうもない定めである。では会いたくなかったのかといえば、そうとばかりも言い切れない。こんなちぐはぐを父娘はずっと繰り返してきた、「人は生きてきたように死んでいく」というのは個人に限った話ではない、関係についても言えることである。
本筋には関係ないのに折に触れて思い出す挿話だが、先日プレゼントされた韓国の民話集の中に同種のものがあった。中国や日本でも知られる古型であり、今日もまたそこかしこで再現される悲喜劇のモチーフに違いない。
「昔々、母親の言うことを全然きかないアマガエルがいました。こっちに来いといえばあっちに行き、あっちに行けといえば反対へ行きます。危ないから行くなというと必ず行くという具合で、何であれ反対のことばかりするのです。
「言うことを聞きなさい」といえば「嫌です」と答え、「もう寝なさい」というと「嫌です、遊びます」、「ご飯を食べなさい」といえば「食べません」。
言うことをきかないアマガエルのせいで、母親はついに病気になりました。日が経っても病気は良くならず、悪くなるばかりです。死期を悟った母親は、アマガエルを呼んで最後に言いました。
「私が死んだら山に埋めず、必ず川辺に埋めなさい。」
この言葉を残して母親は死にました。アマガエルはわんわん泣きました。
「僕があんまり言うことをきかないので、お母さんは亡くなったのですね。ごめんなさい、今度こそ言われたとおりにしますから。」
そして母親の言葉通り、亡きがらを川辺に埋めました。ほんとうは母親は、反対のことばかりする息子が自分を山に埋めてくれることを望んでいたのです。
それを知らないアマガエルは、雨が降ると川辺の母親の墓が流されはしないかと心配で、そのため雨が降るたび大声で鳴くのでした。」
"청개구리 이야기" (下記収載)より、大意を私訳
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