散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日記補遺: 隣りの教室/メタ・メッセージと祈りの姿勢/原稿を作らない理由

2013-10-21 22:23:49 | 日記
2013年10月21日(月)

土曜日の補遺。
放送大学で授業をやっていると、いつも他の教室のことが気になってしまう。
こちらよりもずっと面白そうで、そっちにもぐりこみたくなるんだな。
特に文京SCは教室が多いので目移りする。

ゼミの小休止でペット茶を買いにフロアへ。行き返りに窓越しに覗いてみる。
角の大教室は株式のシステムについて。50名以上もぎっしり満員。
その隣りの小教室は、ぱらぱらと5~6人。変成男子に「へんじょうなんし」、差別に「しゃべつ」とルビを振っている。これは仏教用語について解説していたのだと、帰宅後に知った。
角を折れて小教室では、社会と産業のS先生が7~8人を相手にゼミ。受講者はやや年輩の男性ばかり。誰も廊下など見もしない。
その向かい側はフランス語のQ先生が5~6人の男女学生と、みっちり原典を読んでいるらしい。
面白そうだなあ・・・

こちらも負けずに集中に努める。
「最近は自分が精神障害者であることを、皆さん隠さなくなりました。周りも以前よりはずっと普通に受け止めます。」
広島のソーシャルワーカーのコメントに、群馬の精神科医、東京の福祉系公務員が深く頷く。
時代は動いている。

***

日曜日の追加。

ひとつ:

聖書、殊に福音書のメッセージは、メタ・メッセージとでもいった形をとっている。
イエスの「言葉」は旧約同様、僕らに完全を求める。

 「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 (マタイ5:48)

しかし弟子たちは(=僕らは)およそ完全な者ではありえない。
それどころか欠けだらけで、ボロボロだ。イエスはそのことを百も承知である。
行動において、イエスは僕らの不完全を覆って十字架の贖いとなる。
それがイエスの言葉を無意味にするかといえば、決してそうではない。

 「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
 (マタイ5:18)

この聖なる矛盾こそが、福音の魅力なのだ。

ふたつ:

祈る時になぜ手を合わせるか。
他のものを手にすることを断念し、手の内に何ももたないようにするため、と教わったような気がする。
それなら、相撲の取り組みにおける力士の所作と同じ意味だ。

しかし別の意味を昨日は感じた。
捕縛された人間が手を縛られる時、手首を揃えて相手に差し出す。
祈る時、僕らは聖なる手に縛られることを肯んじているのではないか。
不自由?
そうかもしれない。
「自由であるとは、何者かによって自由にさせられることである。」(ヤスパース)
ある種の自由を断念することによって、別の(真の)自由を得るということは、そんなに突飛な発想とも思われない。

***

今週は木曜日に某所で講演の予定がある。

「生きる力」というテーマをもらっていて、これはこの女子大の今秋の主題なのだそうだ。
暑い盛りにこの話をもらったとき、やや考えて「生きる力と生かす力」というタイトルを決めた。その狙いは御賢察の通り。

いよいよ日が迫ってきたので、そろそろ配布資料を作らないといけない。
原稿は作らない。
20年前には、人前で話すとき完全な原稿を用意した。
やがて原稿を用意して話すことが苦痛になり、またそれが最善の、最も誠実な準備であるとも思えなくなった。

理由は簡単で、原稿を書く時の心理状態と、実際に話す時の心理状態とは、ほぼ確実に異なるからである。それは僕の想像力の不足に依るものかもしれないが、要するにそこに聴衆がいるという事実が違いを作るのだ。

その日、そこにやってきて話を聞く(あるいは聞かない)人々の発する無形の欲動と時々刻々の反応が、僕に伝わって次の言葉を選択させる。
それに耳と心を開いて話すなら、言葉は当然準備したものとは違ってくる。
むろん基本的なアイデアは準備するし、準備しなければ不誠実というものだ。
しかし、その場で起きる力動に委ねるべきことまでも事前に決定し固定してしまうのは、これまた不誠実というものではないか。

だから今は、ずいぶん早くからその日のことを意識するけれど、原稿という形で言葉を固定してしまうことはしない。そんなことをしたら話せなくなる。

***

直前まで内容を流動的にしておくには、もうひとつの理由がある。
不思議なもので、意識をそちらへ向けて待っていると、話にぴったりの素材が直前に飛び込んでくることが、必ず起きるものだ。

今朝のこと、一枚の写真がメールに添付されて届いた。
美味しそうなバナナケーキ、
外来に通っている若い女性が、眠れぬ夜の慰みにつくったものだ。

「生きる力」あるいは「生かす力」

何とぴったりの象徴ではないか!



氷雨の日曜日: 転んだこと/テレビ二題/夢

2013-10-21 08:44:52 | 日記
2013年10月20日(日)

氷雨の日曜日を振り返れば・・・

昼前、転んだ。
体には支障ないが、気分がクサるんだよな、転ぶだなんて。

Tストア駐輪場の入り口スロープが滑りやすいのも事実だが、店に文句言うほどの話でもなく、どちらかといえば自分の問題。
子どもの時から右足の突き方に悪い癖があり、それでさんざん捻挫を繰り返した。靴のカカトも右だけ外側がひどく削れている。

「コケるとボケる」は早川一光先生の名言、同先生は京都西陣の堀川病院で地域医療に専心なさった市井の名医だ。1924年生まれ、御健在である。
当方、ボケる心配はまだ早いと言いたいけれど、案外この時期からの積み重ねかも知れない。

基本姿勢に基本動作、やり直しですか。

***

夜、NHKの番組二題。

『八重の桜』は勝沼さんと約束してから、なるべく見ている。

明治が草創期から歩みを進めていく、その間の人間模様が面白い。
今回出てきた徳富猪一郎は、後の徳富蘇峰だな。信仰からは離れたが多才にして不羈の人物、近代日本の一象徴だ。104歳まで長命し、僕の生まれた年に亡くなっている。(他には植物学者の牧野富太郎も昭和32年没で、やはり95歳と長命だった。)

新島襄は、上州安中にもいたんだね。
安中は高崎の10キロあまり西だ。前橋の小学校の同級生が、「安中のおばあちゃん宅に遊びに行くんだ」と、嬉しそうに言っていたっけ。
八重の姪が伊予・今治に嫁いでいて、何だか縁のある土地がいろいろ出てくる。

9時からの『シリーズ・病の起源 ~ うつ病の謎にせまる』
う~ん・・・こうなるかなぁ

扁桃体の進化論的意義を中心に置き、「天敵に対する警戒信号」という本来の機能の過剰な発動という観点からストーリーを紡ぐのは、アイデアとしては悪くないし面白い。
しかし、そこから「ストレスホルモン」(内因性ステロイドのこと?) → 脳の委縮 → うつ病の増加と単線的につなぎ、あわせてドイツでの脳深部電気刺激まで画期的な治療法として紹介するとなると・・・

仮説レベルのことを証明済みのように報道するのは、いつもながらどうかと思う。本当の患者さんを利する効果よりも、自分はうつ病だと思いたがっている手合いに勢いを与える害の方が、これだと多くならないか。
今日あたり、精神神経センターは問い合わせ電話でたいへんかもしれない。
「私の扁桃体も検査してください」
「日本ではドイツ式の電気治療はできないんですか?」
等々

昼夜のリズムと適度の運動、「平等」に裏打ちされた仲間の絆などに、うつ病の抑止・治療効果があることも、紹介されてはいた。考えてみればアタリマエのこうしたことこそ、しっかり伝わると良いのだけれど。

***

明け方、夢を見る。
何だいあの夢は。

授業なのに配布資料の印刷ができていない。
急いでコピーをとりにいったら、大学の生協食堂の隅っこみたいなところの機械しかなくて、しかも機械が誰かのこぼしたマヨネーズでべったり汚れていて。
30分も待たせたあげく、ドロドロの資料を抱えて教室に戻ると、当然学生たちの視線が冷たい針のムシロになっていて・・・

夢解釈?
できるか、そんなもの!