散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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赦しについての小ダイアローグ

2020-08-26 23:15:33 | 日記
2020年8月25日(火)

 「今さら何をしにきたのだ、赦しを乞おうとでも言うのか?」
 「赦しを乞うのは、罪を犯した者のすることです。わたくしとは関わりがありません。」
 「それは違う。赦しとは、弱者が強者に向かって乞うものだ。重ねて問う。赦しを乞うのであれば、今とて聞いてやらないものでもないぞ。」

 韓国ドラマ『同伊(トンイ)』(2010)から、二人の女性が言葉で切り結ぶ一場である。短いが流れに乗り、深く鋭い。人を動かす二つの根本原理の激突を寸言に託し、女の口に語らせることで凄みが倍増する。歴史背景に乗せた『三銃士』まがいの活劇仕立て、テンポが速く飽きさせない展開、そこにこんな会話が織り込まれるのだから人気も出た訳だ。
 ついでに韓国語の聞きとり練習をと目論んだが、これはなかなか前途遼遠である。かじりとれる単語は随所にあるのだけれども。

 李氏朝鮮19代粛宗(1661-1720)の治世、本朝では徳川8代将軍吉宗(1684-1751)とほぼ同時代で、逸話から知られる人柄にもいくらか類似がありそうだ。プルタルコスがギリシアとローマの歴史上の人物を対にして『対比列伝』を著わしたのならば、日本と近隣諸国の人物間で同様の作業ができないものかと妄想してみたりする。
 ついでながらWiki によれば、粛宗は竹島(現在の鬱陵島、いわゆる竹島/独島とは別)への日本人の立ち入り禁止を通信使を通して幕府に申し入れた事実があり、彼の国の一連の主張はたとえばこんなところに遡って根拠を見出すものかと思われる。
 清国との陸の境界を常に意識する李氏朝鮮が、領土の線引きに関して当時から敏感であったのに対して、残念ながらわが徳川幕府は外への関心を意図的に鈍く抑えることを祖法としていた。粛宗と吉宗の間に堂々の領土交渉が行われるといった場面を、これまた妄想してしまうけれど、それを為し得ないところに幕藩体制の必然的限界があったのだから致し方もない。
 『トンイ』が教えてくれる歴史事情は他にも多々あるが、それはまたあらためて。
Ω

統合か分断か

2020-08-10 06:49:58 | 日記
2020年8月10日(月)
 「核の脅威、地球温暖化、コロナ禍の三つの問題には共通の特徴がある。それは、われわれすべてが当事者であることだ。」

 「今こそ『分断』ではなく『連帯』に向けた行動を選択してほしい。」

 田上市長による長崎平和宣言から。
 前者は若者に向けて、後者は世界の指導者に向けての訴えだが、聞いた直後から頭の中で加工が起き、今朝目覚めたときには以下のように圧縮されていた。

 「三つの課題が共通して突きつける二者択一のテーマ、それはこれらの解決に向けて人類が統合と連帯を果たせるか、それともこれらを処理しようとして人類がいっそうの分断と敵対に陥るか、今後どちらの道を辿るかということだ。」

 正確に反復するという意味では落第だが、市長のお叱りを受けることはあるまいと思う。宣言文は、終末時計がこれまで最短の残り100秒を指す現状を的確に要約し、核の問題とコロナ禍を正しく関連づけてみせた。その反射作用でと言い訳しておく。
 実際、75周年の式典の中継が終わった瞬間から、TV画面はコロナ一色の日常に復帰した。先日来、自治体首長の発信から耳目を離すことができない。各知事がコロナ対策を構想するにあたって、コロナ後を見通しての統合促進を意識しているか、それともコロナから逃げ切りたい一心で分断も敵対も介意しない姿勢なのか、関心はかかってそこにある。
 disappointing な言動が圧倒的に目立つ中で、三村青森県知事の「(帰省を)温かい心で受け入れて」という発言が光った。今このように言うことには並々ならぬ勇気がいる。皮肉なことに、その青森で東京からの帰省者が匿名の投げ文で恫喝される事件が報じられた。投げ文に「知事がテレビで言ってるでしょうが!!知ってるのかよ!!」と書かれてあるのが少々不思議で、こちらに届く情報に依る限り、「知ってない」のは投げ文の主の方である。敵意で一杯になると、情報が目にも耳にも入らないのは人の常というものだ。
 日々、各地で闘いが進行中である。コロナとの闘いよりも深刻な、統合か分断かの闘いである。そんな現状であるからこそ、三村知事の以下の発言に心からの敬意を表する。この引用には、さしたる加工は加わっていないはずだ。

 「適切な感染防止策を実行しているにもかかわらず、感染地域から移動してきたということだけで、帰省者に対して差別的な感情を抱くことが危惧される。一人一人が思いやりの気持ちをもつよう希望する。」

Ω

マスク

2020-08-09 11:00:55 | 日記
2020年8月9日(日)
 傘を忘れ弁当を忘れても、マスクを忘れて外出はできない時勢である。新しいマスクに換えようか、少し考えて袋を破ろうとした時、ある場面を思い出した。
 1957年の東映映画『純愛物語』、観たことのある人はすぐに思いあたるだろう。
 白血病 〜 原爆症が進んで少女が入院する。入院といっても治療らしい治療ができるわけではなく、孤立無援の戦災孤児がかろうじて寝床を与えられるに過ぎない。
 見舞いに来た少年に、少女が1枚のマスクを手渡す。無一物の少女の、なけなしの贈り物である。あんた、風邪ひいちゃいけないよ、気をつけなよと、世話女房のように言葉を添える。少年は受けとって大事にポケットにしまった。
 数日後に少年がやってきた時、病室に少女の姿がない。看護師に問うと、短い答えが事務的に返ってきた。「解剖に回されましたよ。」
 ふらふらと病院を出て通行人とぶつかり、悪罵が交錯する。向き直った少年がポケットからマスクを取り出し、震える手で初めて顔にかけ、寒さの中へ消えていく、そんな幕切れだった。

 この名画にもう一つ忘れられない場面がある。少女が、おそらく家裁の判事から説諭されるところ、判事役はたしか宮口精二だったか。その決めの言葉が、
 「君はIQが高いんだから、しっかり働かなければいかん」
 というのである。
 ここに込められた励ましの意味あいを理解することには、精神保健福祉論の講義数回分にあたる意義があるだろう。
 IQが高いほど職業選択上有利であるのは、どこの世界でも変わらないが、戦後混乱期のような厳しい世相ではより逼迫した意味がある。戦災孤児たちの中でもIQが低い少年少女は、まともな仕事につけないばかりか、それにつけこむ悪人・ヤクザの好餌となりパシリとして使い回され、しかも自分が利用されていることに気づかず、悪人たちにどこまでも忠誠を尽くすといったことが頻繁に起きる。(同型のことが、こともあろうに現代の取り調べの場面で刑事によって行われ、とんでもない冤罪事件に発展したことは記憶に新しい。)
 不良少女として家裁送致されたが、生来利発で明敏な主人公に対して、IQの低い子どもたちの困難と対比しつつ、自分に与えられた資質を活かして全うに生きよと判事が教え励ます、上記はそういう意味合いなのだった。
 IQは何のためにあるか、それが不十分な人々にどんな悲しみがあるか、大部の教科書よりも雄弁に教えてくれた小場面。脚本家水木洋子、入魂の巧技である。

 まもなく11時2分、ナガサキ75周年。

http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51728635.html

Ω