2023年8月27日(日)
礼拝中のメモから:
● テレビドラマと違って、マタイ福音書は最終頁をもって「完」とはならない。これが始まりである。
確かにそうだ。他の福音書も同じである。最も衝撃的なのは、オリジナルのテキストの末尾が引きちぎられていたともいわれるマルコ福音書かもしれない。その本来の結句は下記である。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ 16:8)
この飾り気のなさがマルコの魅力であり、これに出会わなかったら人生が変わっていたかもしれない。
● 「ひれ伏した」とあるところ、口語訳では「拝した」と訳されていた。そのような言葉である。
「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」(マタイ 28:9)
原語は προσεκυνησαν < προσκυνεω 、人の手に接吻するという原義があり、そこから
① (目上の人に平伏して)敬意を表する
② (神に対して)礼拝を捧げる
の意で用いられる。
ここは②だというのである。
マタイの用例を追ってみると面白い。冒頭近くの2章でこの言葉が3回出てくるが、いずれも東方の博士たちの幼子イエス礼拝に関わる場面である。
「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ 2:2)
「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同 2:8)
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(同 2:11)
ついで4章、荒野の試練の場面。
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(同 4:9)
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(同 4:10)
これらはいずれも宣教者イエスの活動開始に先立つ序章に属する。その後、公に姿を現してからのイエスを人々は畏れ敬い喝采するが、実は「拝する」ことをしていない。序章で予告されていた神性を人々が悟るのは、死と復活を経た後のことだった。
それでもなお…
● ユダが欠けて11人、その中にはなお疑う者も含まれていた。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(マタイ 28:17)
然り、この世の終わりに至るまで「信」と「疑」のせめぎあいは終わることがない。それで絶望することはない。
最後に、山上の説教のよく知られた言葉にM師は話を向ける。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ 6:34)
● 「苦労」という言葉は、「災い」とも訳せる。
κακια: ① 悪意 ② 邪悪、悪徳 ③ 不幸、苦労、凶事
これは大事なことを、これまで知らずにいたものだ。それでこの箇所の意味合いはガラリと変わる。与えられた職場で汗水垂らして働いてもなかなか成果は出ず、一日の終わりにはへとへとに疲れているなどという幸せな「苦労」のことではない、滅びをもたらす邪悪な霊に内でも外でもつけ狙われ、いつなんどき陥れられるかわからないという「苦労」なのだ。
だから…
●「わたしがあなたがたと共にいて、あなたがたの時を満たす」という主の約束が、かろうじてわたしたちの今日一日を過ぎ越させる。
言葉が少し違っているが、講壇を見あげて自分が受け取ったのはそういったことだった。
毎月一回のM師によるマタイ福音書講解説教、満10年をもって今朝完結。その半ばで天に召された御令室が、微笑んでねぎらっていらっしゃることだろう。
Ω