散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

スタジオの物知り

2013-10-10 19:09:37 | 日記
2013年10月10日(木)

月・火は和歌山、水は教授会に続いて新任教員歓迎会。珍しく幹事を務め、会場店のアルバイト君たち(?)の動きの悪さに頭から湯気を出した。
ビールのピッチャーだけがテーブルに鎮座し、ジョッキもグラスもないという不思議な眺めが10分近く。禅の公案に取り組んでいる気分がしてくる。
「器を用いずして麦酒を喫す、これいかに」
瓢箪で鯰を取るのと、どっちが難しいかな。

明けて今日は『死生学入門』のラジオ教材収録。
繁忙を見越して先週のうちに読み原稿を作っておいたので余裕綽々、出かける前に念のためリハーサルをやってみたら、何と4分も早く終わってしまう。
おかしいな、何か勘違いして時間の計算を間違えたのだ。こら困ったよ・・・

電車の中で追加ネタを紙に書きつけながら出勤。
昨日は『古事記』に「虹」の記載を探した電車内、えらい違いだ。
朝っぱらからいちゃつきながら舞浜で降りていくカップルに、妙に不寛容な気持ちである。

制作棟のRAスタジオ、今回はプロデューサーもディレクターも(両者の違いはよく分からないが、必ず両方ついている)、技術スタッフまでも揃って親切で愛想が良い。言い訳しいしいどうにか追加原稿をこしらえ、さっそく収録。
案の定こんどは長すぎた。1分の超過。

「先生、どこかで1分削りましょう」とディレクターH氏の明るい声。
この時、僕は広いスタジオ中央の録音台にひとりでへばりつき、制作部の3氏はガラス張りの外からマイク越しに僕を遠隔操作しているのである。
バッコンと閉まるスタジオの扉は、宇宙船の中に閉じ込められた気分だ。
どこかって、どこ?どんだけ削ると1分減るの?

「先生、『おくりびと』の話って必要ですか?」
「それはですね、『ケガラワシイ!』というヒロスエのセリフが、日本古来の『死=穢れ』の観念をよく表わしているので・・・」
「それじゃ削れないねえ、ハハハ」
妙に明るいのは何でだ?そこ、笑うとこじゃないのに。

「仕方ない、ルターの話を・・・」
「削りますか?先生、そこって大事なんじゃないの?」
今度はルターの肩をもつ。どうしろというのだ!

ウの目タカの目で原稿を精査し、キリスト教と仏教の「死後の世界」観の説明を簡略化することで手を打った。やれやれだ。

終わって出ようとすると、「あ、もうひとつ!」
そうだった、前回収録分で「本地垂迹」を「ホンチスイジャク」と読んだら、考査課から「ホンヂが正しい」とチェックが入ったらしい。
手順は簡単で、今はデジタル録音だから頭出しや入れ替えが自在である。その部分だけを読み直せば、後は技術さんがやってくれる。

ところが今度はHさんが妙にひっかかって、
「ホンチだって良さそうなもんじゃないの、考査もヒマだよな、他にもっと大事な仕事があるんじゃないのかね、ねえ先生、ホンチじゃいけないのかな」
「う~ん、考査さんを敵に回すと大変ですからね~」
制作部は個性的な面々が多い。NHKのOBが主力なだけに、それぞれ自負もあればプライドもある。いっぽうの考査課も後へは引かない。おかげで助かるということも、もちろんある。

Hさんが我を抑え、「ホンヂ」と読み直して一件落着。
今度こそスタジオを出ようとしたら、Hさんがまた顔を出した。
「本地垂迹といえばさ、先生、前回収録分で大日如来が天照大御神になったっておっしゃったけど、大日如来って宇宙創造の仏でしょ?だったら天之御中主神(アメノミナカヌシ)とか、高御産巣日神(タカミムスビ)とか、垂迹先はそっちの方じゃないんですか?いや、知ったかぶりして悪いんだけど」

ドキッとした。
そう考えたい理由は確かにある。いちおうウラは取ってきたつもりだが、「後で確認します」と答えておく。
制作部の面々、もうひとつの特徴は時として非常な物知りであることだ。
学者だの作家だのが博識を凝らして番組収録、それに長年つきあう間に彼ら自身が相当の耳学問をしている。タクシー運転手に時々たいへんな物知りがいるのと、比ぶべきところがある。

研究室へ戻ってさっそく確認、本地仏と垂迹神の対応関係は必ずしも一対一ではないが、少なくとも「大日如来/天照大御神」のそれは代表的なものとして頻繁に言及されている。安堵した。
今度こそ一件落着。後は考査課の託宣待ちである。

この教材、僕自身はさておき他の5人の執筆者がまさに錚々たる顔ぶれ、出来上がりが楽しみだ。
死生学は、いま最も熱い学問である。

物語に見る人格類型 ①

2013-10-10 08:02:52 | 日記
2013年10月10日(木)

1964年の今日、東京五輪開幕
1969年の今日、金田正一通算400勝達成

***

 「物語に見る人格類型」とはいかにも無粋。いずれ考え直すとして、ともかく書いてみる。
だいぶ前からメモしてあったものの転記と整理から始める。

 「クレッチマーの気質・体型理論」と言われて、ああ、あれかと思う人は、今時どのくらいいるだろうか。名前は知らないが図版には見覚えがあるという程度ならば、案外多いのかもしれない。一目瞭然、要は個々の人間の体型と気質の間には密接な関連があるというものである。
 図を見る前にいったんここで話を止め、上記の言明 ~ 人間の体型と気質の間には密接な関連があるということ ~ からどんなことを連想するか、問い交わしてみるのも一興かもしれない。
 ある観点からすればこれはあまりに当然で、特に気質というものを当人の嗜好や信念といった上部構造の面からとらえ、「人がその生活信条に従って自分の体型に修整を加える」という枠組み ~ いわゆるシェイプ・アップ ~ で受けとるならば、ほとんど言挙げする意味がないであろう。摂食障害に象徴される通り、ボディ・イメージ(身体像)のありようが個人の主要な徴候であるのが現代である。そこで「気質が体型を決定する」あるいは「気質の表現形式として特定の体型/装いが選ばれる」などといえば、当然すぎて重苦しくもある。

 クレッチマーの場合、話はどちらかといえば逆に流れているようである。心身相関の全体性が問題とされつつ、重点はどちらかといえば下部構造にある。

 誤解を恐れず言うとすれば、クレッチマーの所説は「気質が体型を決定する」というよりかは「体型が気質を決定する」というに近い。より正確に言うならば、身体・精神を含む全体的なシステムにおいて、体型と気質が不可分の形で決定されるというべきであろうか。そうなると、これは今日いささか挑発的な意味をもつかもしれない。
 現代は、人がコントロールできる領域をひたすら拡大しつつここまできた。いつの時代にも、身体は装いとファッションの基礎であったが、現代においては自己の身体を思い通りに形作りあやつるという欲動が、強い強迫性をもって人を縛っている。身体が、そして気質が、自力ではいかんともしがたい所与/授かりものであるという考えに、人は既に耐え得なくなっているのではないだろうか。
 クレッチマーの類型に話を戻そう。彼によればこのような気質=体型連関のあり方として、まずは大きく三つの類型を括り出すことができる。それを要約したのが下の図で、これを見れば「ああこのことか」と思う向きも多いかもしれない。
 三つの型とは、肥満型/やせ型/闘士型の三体型であり、それらが循環気質(躁うつ気質)/分裂気質/てんかん気質の三気質に対応するというのである。今日では、分裂気質は失調気質と読み替えておくべきだろう。
(続く)

【つぶやき】
・・・もっとマシな図はないかな。そしてクレッチマーの「類型」はこの3つだけではない。




「虹」補遺

2013-10-10 00:08:43 | 日記
2013年10月9日(水)

 ここに日の虹の如く輝きて、その陰上にさす。

『古事記』における「虹」の用例として「国語大辞典」に載っていたが、さて『古事記』のどこにあったのだったか。

通勤中に探してみようと出かけたが、なかなか見つからない。諦めかけたところ、海浜幕張到着30秒前に発見!
O君が「何か気になって」当ブログを読み、「新聞紙」の逸話に行きあたったとメールをくれた。
「くじで『当たり』が出たみたい」だと。
僕も今朝はアタリだ。

ところで、この当たりクジは、なかなか意味深長である。
応神天皇記、天之日矛(あめのひぼこ)の条だ。
天之日矛は新羅の国主の子、それが逃げた妻を追って難波の地までやってくるが、遮られて但馬に留まる。その物語の説き起こしが上の部分。

新羅国の、とある沼のほとりに身分の低い女が昼寝している。
その女の陰部を、日が虹のように輝いて照らす。
女は昼寝から覚めて赤い玉を産む、ということは太陽によって懐胎(托卵)したのだ。
この赤玉から生まれた美女が天之日矛の妻となるが、夫の虐待に耐えかねて親の国(=日本)に逃げ帰る。

 故、その國主の子、心奢りて妻を罵(の)るに、その女人の言ひけらく、「凡そ吾は、汝の妻となるべき女にあらず。吾が祖(おや)の國に行かむ」といひて、すなはち密かに小船に乗りて逃げわたり来て、難波に留まりき。

神話時代から珍しくもない話だったのだな。
実家が本朝という説話の主張が面白い。

美女は別の男神との間に子をもうけ、天之日矛もまた但馬で娶った妻たちとの間に多くの子をもつ。

産めよ、増えよ、地に満てよ、地を従わしめよ。
(創世記 1:28)