散日拾遺

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シアトルの日系人(補遺)

2013-10-12 09:43:01 | 日記
自分自身への注記として、急ぎ付け加えておく。

日系人は日本人ではない。
「日系」という注釈のついたアメリカ人である。

日系人への不当な扱いは、日本人に対する非礼ではなく、アメリカ合衆国市民に対してアメリカという国家が行った虐待だ。
先のパネルもそのような意識があればこそ掲げられているもので、アメリカ人が日本人に謝罪しているのではないことを、よくよくわきまえておく必要がある。

先日なくなった山崎豊子の『二つの祖国』は他の山崎作品に劣らぬ傑作だったが、このタイトルについて日系アメリカ人から疑問の声が挙がったことを記憶している。
父祖の国と敵対するのは確かにつらいことであったけれど、少なくとも二世以降の大多数にとって祖国はアメリカ以外になく、「二つの祖国の間で引き裂かれる」という図式は一般的ではなかったのだと。

日米開戦に先立ってルーズベルト大統領の命令で行われた調査があり、その報告書(マンソン報告 Munson report)も「90パーセント以上の日系二世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と結論づけたそうだ。もちろん、中には『戦艦大和ノ最期』に登場する通信士・中谷少尉のような例もあるのだけれど。

日系人という名の合衆国市民たちは、たとえば442連隊の獅子奮迅の活躍を通して、夥しい犠牲を払いながら自分たちを国家に認めさせた。
僕らと血を分けた、尊敬すべき外国人たちだ。

***

これと一対になって思い出されることがある。

シアトルあたりの老人ホームで余生を送る日系一世たち。
齢が進むにつれ、記憶は近いものから順にあやしくなっていく。
後に身についた英語よりも、生まれながらに聞き覚えた日本語、それも洗練された標準語ではなく、それぞれの出身に応じた方言が、年寄りの唇から折に触れて漏れる。
時に罵り言葉、時にわらべ歌、
シアトル郊外のホームで、誰聞くともなく語られる日本のお国訛りが、ひっそりと消えていく。

誰から聞いた話か、忘れてしまった。
僕の想像の産物かもしれない。

シアトルの日系人

2013-10-12 08:26:31 | 日記
2013年10月12日(土)

「次の段階では、それぞれの過ちをそれぞれ自ら記憶するようでありたい」と書いた。
空論・理想論と言われそうだが、それに近づこうとする例は存在している。

シアトルの日系人の話はどのぐらい記憶されているだろうか。
シアトルは「住んでみたい街」全米ナンバーワンに挙げられるほど住みよいところである。
涼しい気候に海の幸、「タコマ富士」と呼ばれる4,392mのレーニア山 Mt. Rainier を望んで風光明媚、周囲には肥沃な農地が広がっている。大魔神・佐々木にイチローと続くマリナーズの活躍が、僕らにも近い場所にしてくれた。

この地域を開いた功績は、名もない無数の人々に帰せられる。そして日系移民は、その小さからぬ部分を担っている。要領よく紹介する準備は僕にはないが、たとえば下記の web site に詳しい記載がある。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/member/m14_gyosantureta/seattle.html
『シアトル ― 西部開拓初期の歴史ロマンを訪ねる』(魚山釣太)

「ロマン」と題されているけれど、読めばわかる通り白人アメリカの発展と繁栄の陰に、まず先住民、ついで中国系移民、そして日系移民への迫害と排斥の歴史が直ちに浮びあがってくる。殊に中国系移民への虐待は陰惨を極めたようだ。

日系人は1924年のいわゆる排日移民法下でもよく忍耐し、アメリカ社会に確かな地歩を築くように見えた。それを痛撃したのが日米両国の政治的対立であり、戦争であったことは言うまでもない。やや狭い言い方を敢えてするなら、なぜか極めて親中国的であり、なぜか病的なほど日本を嫌っていたフランクリン・ルーズベルト(現在でもワシントン、ジェファソン、リンカーンといった建国・立国の父祖らと並んで、アメリカ人に最も人気ある大統領)の存在が、ダメを押す役割を果たした。

1942年2月19日、ルーズベルトの署名した「大統領令9066号」は、国防上の必要がある場合、証拠を提示せずに外国人(事実上、日系人)を強制収容することを認めるものだった。それは実際には、市民権をもたない(あるいは剥奪された)日本人、アメリカ国籍をもつ移民一世、その子孫で日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人らの強制立ち退きと「戦時転住センター」への強制収容に発展した。さらには、不動産や自動車などの私有財産を含む全ての財産の放棄、強制収容所への長期にわたる収容が行われることとなる。

日米両国間に平和が回復された後、収容された日系人たちがどんな運命をたどったか、僕は詳しく知らない。ただ、シアトルに根づきつつあった日系人コミュニティの繁栄が二度と戻らなかったことは間違いない。

この項の本題はここからだ。

シアトルを訪れる日本人の多くは、下町のマーケットに立ち寄るだろう。
その賑わいとともに、頭上のパネルを見落とさないでほしい。
Farmers Market の赤い文字が見えている、その奥の暗がりに掲げられたパネルだ。

両端のメッセージに囲まれて、絵柄は左から順に、開墾、農作業、マーケットでの販売、雪のタコマ富士と続き、最後の一枚では五人の男女と一匹の犬が、昇ってくる朝日を直立不動で仰いでいる。
僕らがほとんど忘れてしまった日本人、日本の家族の美しい日常風景だ。

両端のメッセージにはこう書かれている。(和文は拙訳)

左:
In 1941 approximately two-thirds of the farmers' stalls in the Pike Place Market were occupied by Japaniese Amerikans. Today none.
1941年には、ここパイク広場の市に立つ露店の約3分の2が、日系アメリカ人のものだった。今はひとつもない。

右:
The United States Executive Order 9066 forever changed the Pike Place Market and the lives and families of 120,000 people of the United States of America.
合衆国大統領令9066号は、この市場とともにアメリカ合衆国12万人の人々の人生と家族とを、永久に変えてしまった。

アメリカ人自身がこの歴史事実をこうして記録することに、積もり積もった反感に拮抗する敬意を禁じ得ないのである。