世の中にはいろいろな事件が起きているけれどそれはさておき、
「ベルサイユのばら」が35周年で記念ドールが発売されるということだ。
ということで「ベルばら」などについて語る。
書店でベルばらの塗り絵を見つけた時には、
塗り絵ブームもここまで来たかと笑いそうになったけれど、
いつまでも人気があるようだ。
ベルばらがその昔に連載されていた時は、
多少読んだりしたものの、それほど思い入れはなかった。
あれは「やおい」と似ているようで全然違う、正反対の世界。
それに、「薔薇」ではなくひらがなで「ばら」と書く感性が
私は気に入らなかった。
三島由紀夫が、確か「仮面の告白」で
主人公の青年がジャンヌ・ダルクを憎んでいる、
という設定にしていたと思うが、それを読んだ時、
妙に納得出来たのは、
同性愛者は男装の女という存在を許せないらしい、
ということを知ったからだ。
私は、前にも言ったように、
自分の感性がオカマだと思ってるので、
だからオスカルのような「男装の女」を許せないのだ。
男装の女と、オカマはどう違うか。
どちらもトランスヴェスタイトという点で同じであって、
正常者にとってはどっちも似たもんじゃん、
と一蹴されそうであるが、
当人たちにとっては最も混同されては困るポイントである。
「ラストエンペラー」に出て来る何とかという女スパイ、
あの人(実在の人物)も男装をしていて、
映画を見た時に微妙な気持ちになったのを覚えている。
(ジョルジュ・サンドの男装も不愉快に思っていた。)
単に女が男装をしているのが嫌いなだけかもしれない。
でもなぜなのだろう。
私は、女は女らしくしおしおしている方が好きで、
女であることを武器に男に取り入り、その挙句に翻弄されたり、
滅茶苦茶にされたり、捨てられたりして破滅してゆく、
のが女の理想として思い描いている部分があるから、
かもしれない。
(自分には真似の出来ない生き方)
それと、男の女装は滑稽なだけで、女の男装はかっこいい、
との一般的な認識があるのにも腹が立つ。
サラ・ベルナールなりマルレーネ・ディートリヒなりのように、
そこに内容が伴っていれば男装もそれなりに様になっているだろう
(両人ともレズでもあった)。
けれども、ジャンヌ・ダルクなりオスカルには何となくいやらしさが伴う。
それはなぜか。
おそらく、彼女らの男装が男に向かっている、からではないか、
と思う。
つまり、男の気を引くため、という。
男と同じほどの働きが自分には出来るのだ、
というアピールをしている点で、彼女らは男の気を引いているのだ。
「ナインハーフ」というエロチック(?)映画で、
ヒロインが男に男装をさせられる場面がある。
確か「アリア」というオムニバス映画だったと思うが、
そこでもニコラス・ローグのパートで、
当時ローグの奥さんか恋人だったテレサ・ラッセルが男装している場面があった。
どちらも、女に男装をさせて男が喜ぶという、
男からのエロティシズムを狙ったものだった。
しかし女の目から見れば、ちょび髭をつけた女優の男装は、
滑稽以外の何物でもない。
自分の女に男の格好をさせて喜ぶというのは、
衣裳倒錯(トランスヴェスタイト)の一種だろう。
それを男が強制することによって、
サド・マゾ的なエクスタシーがあると思われる。
(男装をした女が女を抱いている所を見ることによって男が興奮する、
というケースもある)
ジャンヌ・ダルクなりオスカルなりは、その反対のケースなのだ。
つまり、女からの誘い受け。
彼女らは男になろう、なりたいという性同一性障害者ではない。
男装することによって、かえって女であることを強調し、
自分の自己愛的なエキジビショニズムを満足させている。
そのいやらしさを感じるから、嫌悪感を持つのだと思う。
ジャンヌ・ダルクについては
もちろん彼女の真の意図など分からないけれども、
現代で一般的に解釈されている通念から考えてみた。
-----------------
うーん…。
この考察は今から(2022年)見るとあまりにも未熟だ・・。
言いたいことが言えてない。
今はオスカルはきらいではないし、
彼女の男装は男の気を引くためでもないし…。
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「ベルサイユのばら」が35周年で記念ドールが発売されるということだ。
ということで「ベルばら」などについて語る。
書店でベルばらの塗り絵を見つけた時には、
塗り絵ブームもここまで来たかと笑いそうになったけれど、
いつまでも人気があるようだ。
ベルばらがその昔に連載されていた時は、
多少読んだりしたものの、それほど思い入れはなかった。
あれは「やおい」と似ているようで全然違う、正反対の世界。
それに、「薔薇」ではなくひらがなで「ばら」と書く感性が
私は気に入らなかった。
三島由紀夫が、確か「仮面の告白」で
主人公の青年がジャンヌ・ダルクを憎んでいる、
という設定にしていたと思うが、それを読んだ時、
妙に納得出来たのは、
同性愛者は男装の女という存在を許せないらしい、
ということを知ったからだ。
私は、前にも言ったように、
自分の感性がオカマだと思ってるので、
だからオスカルのような「男装の女」を許せないのだ。
男装の女と、オカマはどう違うか。
どちらもトランスヴェスタイトという点で同じであって、
正常者にとってはどっちも似たもんじゃん、
と一蹴されそうであるが、
当人たちにとっては最も混同されては困るポイントである。
「ラストエンペラー」に出て来る何とかという女スパイ、
あの人(実在の人物)も男装をしていて、
映画を見た時に微妙な気持ちになったのを覚えている。
(ジョルジュ・サンドの男装も不愉快に思っていた。)
単に女が男装をしているのが嫌いなだけかもしれない。
でもなぜなのだろう。
私は、女は女らしくしおしおしている方が好きで、
女であることを武器に男に取り入り、その挙句に翻弄されたり、
滅茶苦茶にされたり、捨てられたりして破滅してゆく、
のが女の理想として思い描いている部分があるから、
かもしれない。
(自分には真似の出来ない生き方)
それと、男の女装は滑稽なだけで、女の男装はかっこいい、
との一般的な認識があるのにも腹が立つ。
サラ・ベルナールなりマルレーネ・ディートリヒなりのように、
そこに内容が伴っていれば男装もそれなりに様になっているだろう
(両人ともレズでもあった)。
けれども、ジャンヌ・ダルクなりオスカルには何となくいやらしさが伴う。
それはなぜか。
おそらく、彼女らの男装が男に向かっている、からではないか、
と思う。
つまり、男の気を引くため、という。
男と同じほどの働きが自分には出来るのだ、
というアピールをしている点で、彼女らは男の気を引いているのだ。
「ナインハーフ」というエロチック(?)映画で、
ヒロインが男に男装をさせられる場面がある。
確か「アリア」というオムニバス映画だったと思うが、
そこでもニコラス・ローグのパートで、
当時ローグの奥さんか恋人だったテレサ・ラッセルが男装している場面があった。
どちらも、女に男装をさせて男が喜ぶという、
男からのエロティシズムを狙ったものだった。
しかし女の目から見れば、ちょび髭をつけた女優の男装は、
滑稽以外の何物でもない。
自分の女に男の格好をさせて喜ぶというのは、
衣裳倒錯(トランスヴェスタイト)の一種だろう。
それを男が強制することによって、
サド・マゾ的なエクスタシーがあると思われる。
(男装をした女が女を抱いている所を見ることによって男が興奮する、
というケースもある)
ジャンヌ・ダルクなりオスカルなりは、その反対のケースなのだ。
つまり、女からの誘い受け。
彼女らは男になろう、なりたいという性同一性障害者ではない。
男装することによって、かえって女であることを強調し、
自分の自己愛的なエキジビショニズムを満足させている。
そのいやらしさを感じるから、嫌悪感を持つのだと思う。
ジャンヌ・ダルクについては
もちろん彼女の真の意図など分からないけれども、
現代で一般的に解釈されている通念から考えてみた。
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うーん…。
この考察は今から(2022年)見るとあまりにも未熟だ・・。
言いたいことが言えてない。
今はオスカルはきらいではないし、
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