伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

忌野清志郎

2009年05月04日 | 音楽
忌野清志郎さんが亡くなった。
…。

前に闘病から復帰して、復帰コンサートをした後、
再発したことは知っていた。

だから、もう
新聞に名前が出るなんていうことのないように、
そんなことのないように、ひたすら祈っていたのだが。

再発しても治る人もいるし、
病を抱えながら戦い続ける人もいる。
だからきっと大丈夫だとある時は思い、
でももしかしたら悪い結果になるかもしれないとも思い、
その可能性は半々かもしれない、などと思ったりもしていた。

だけど、その悪い結果になってしまい、
新聞の記事を見た時は、まさか、というよりは、
ああ、やはり駄目だったか…、
とうとうこの時が来たのか、と心臓がどきりとした。


昔から日本の音楽が苦手で、
まあはっきりと言うと、きらいだった。
小さい時から洋楽ばかり聞いて育ったから、
吉田拓郎から始まってJポップに至るまで、
ザードも宇多田もきらい、というより聞かない。
というか名前もろくに知らないのだ。
何て言ったっけ、ビーズ…だったけ。



そんなに日本のポップスに無知だった私が
RCサクセションを聞くようになったのはなぜだっただろう。
ある時、雑誌に乗っていた清志郎氏の写真を見て、
まるで、唐十郎の状況劇場の再来だ、と思ったことがあり、
多分それは、RCを、
音楽と言うよりは演劇的なイメージで見ていたからだろう。

それからある時、
やはり雑誌か何かで「雨上がりの夜空に」の歌詞を知った。


オー、雨上がりの夜空に流れる
ウー、ジンライムのようなお月さま
こんな夜にお前に乗れないなんて
こんな夜に発車出来ないなんて



清志郎の詞は素朴でシンプルだ。
小学校の子供が作ったような詞だと思う。
だけど、本当に子供では作れないことは分かっている。
子供のようなナイーブな感性を持った人にしか作れないのだろう。

「雨上がりの夜空に」の、ロックだというのに
"お月さま"という言葉を選ぶ感性に、
私はノックアウトされた。

雨上がりの空を見上げた時に、
雲の切れ間に散りばめられたダイヤモンドや、
ジンライムのようなお月さまを見ることが出来る感性に、
感動した。


RCサクセションのコンサートには何度か行った。
清志郎は、
まるでステージが彼の住まいであるかのように、
ステージ上で、生き生きと、自然に振舞っていた。
そこが、そこだけが彼のテリトリーなのだと思った。


いいかい、聞きたいことがあるんだ。イエー。
愛し合ってるかい。愛し合ってるかい?
私には愛し合っている相手はいなかったが、イエーと答えた。
普段コンサートなどへはほとんど行かない。
だけど、そんな孤独な私でもその時は孤独を忘れた。


コンサートで、
歌の合間に語りを入れるのが上手な歌手の人は多いだろう。
でも清志郎のあの語りは、
語りではなく、そのまま歌だと思った。
アメリカのブルース歌手のように、
語りにもひとつの「型」があり、
そのままそれがパフォーマンスになっている。


清志郎氏の中で、もっとも惹かれる部分は歌声だ。
彼のあの声、発音、歌い方、イントネーション、
すべてに惹かれるが、中でも声が好きだった。
それは言葉では言い表せない。
今思うと、あの声は宝石なのだった。
暖かく、素朴だった。

RCは解散し、それから随分時が経った。
忘れていたと思っていたのに、なぜこんなに辛いのだろう。
写真入りの新聞記事。
そんなの見たくないと思っていたことが現実になった。
辛くて二度とそこを開けない。




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