一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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音楽における「サワリ」をめぐって。

2006-08-02 10:56:49 | Art
朝鮮の伝統的な管楽器として「テグム」という、竹でできた横笛があります。
小さなものから大きなものまでさまざま。
大きなものは長さが80cmもあるそうですから、日本の尺八とほとんど変わりがない。しかし、大きなものは横笛で、30~40cmほどの小さなものが縦笛というのが、日本の笛とは違っています(日本の場合は、篠笛のような小さなものが横笛、尺八のような大きなものが縦笛)。

さて、そのテグムの演奏を聴いての感想です。

このCDでの演奏の音色は尺八とさほど変わりがないので、おそらく大きなタイプのテグムなのでしょう。
しかし、尺八と大きく違っているのは、「サワリ」があまり感じ取れないこと。
「サワリ」というのは、「本来は楽器にわざわざ雑音をつけるてめに付ける技法」なのですが、田中優子『日本の音』を借りれば、
「尺八なども、普通フルートなどだったら、吹いたときにメロディーが奏でられる状態の澄んだ音がするのだけれども、尺八の場合には、メロディーを連想させるのではなくて、音の合間から洩れてくる風の音のほうが問題で、そっちのほうが重要になってしまっている。(中略)あれは風がその竹を通る音、それを聴いているのだと思うのです。」
ということにもなります。
日本の現代音楽にも、それはあって、武満徹の『蝕[エクリプス]』などでも効果的に使われています。

「サワリ」が多いか少いかは、ひょっとしたら、このCDだけでは判断してはいけないのかもしれない。
しかし、武満は次のような指摘をしています。
「日本の楽器はが必ずしも不便であるとは言いませんけれども、かなり不自由なものです。中国なんかの楽器は、やはりヨーロッパと地続きで、たいへん合理的にできていて、音も出しやすいし、抽象的な器楽曲のようなものが日本と比べて多い。どちらかといえば、ヨーロッパ系に近い音楽だと思うのです」(田中、前掲書より「第三章《対論=武満徹》江戸音曲の広がり」)

ここで思い浮かべるのが、朝鮮と日本との儒教受容のしかたです。

朝鮮朝では李退渓(イ・テゲ)を見ても分るように、儒教(朱子学)を突き詰めて考察し、それを深めていった。
つまりは、基本的に思想における合理性を信じて、それを追及する姿勢があったわけです。
一方、日本の場合、例外はあっても、儒教は思想体系というより、日常倫理の中での徳目的に考えられていた。

そのような思想基盤が、音楽観にもあったのではないのか(儒教において、音楽は重要な位置づけがされていた)。
あるいは自然観といってもいいかもしれない。

そこにあるのは〈人間に対峙する自然〉と捉えるか、〈人間を包み込む自然〉と捉えるか、という対照です。

以上のようなことを、現代音楽で行なうなら、ユン・イサン(尹伊桑)の音楽と武満徹の音楽との比較など、まだまだなすべきことがたくさんあります。
しかし「サワリ」は、「世界音楽」を考える上で、かなり重要なコンセプトになるのではないでしょうか。

雅(みやび)
ETHNIC SOUND COLLECTION
韓国・国楽の粋
(SEVEN SEAS/KING)

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