中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

避暑山荘(その5)外八廟(1)

2024年01月06日 | 旅行ガイド

承徳外八廟・普寧寺

 避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年) 康熙帝 玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。17672月普陀宗乗之廟の建設に着手、17718月に完成、工期は4年半で、この寺院の建設時間が最も長く、規模も最大であった。1770年広安寺建立、1774年殊象寺と羅漢堂を建立、1780年(乾隆45年)須弥福寿之廟を建立した。

 以上、全部で11の寺院があった。そのうち10の寺がそれぞれ8つの「下処」(事務機構)により管理されたので、習慣上これら山荘の外側の寺院は外八廟と総称される。普佑寺、広安寺、溥善寺は既に廃棄され、羅漢堂は落雷で焼け、現存するのは七ヶ所である。

 外八廟の建造には、一定の政治的歴史的背景があった。清王朝前期、国内の政治は安定し、農業、手工業、商品経済が発展し、いわゆる「康乾盛世」の時代が出現した。当時の国勢は強く盛んで、対外的には帝政ロシアの黒竜江流域の侵略に対して対抗、撃破する力があり、対内では、辺境地域のいくつかの民族の分裂分子の反乱を粉砕し、中国は統一した多民族国家として極めて強固であった。清王朝は「宇内(国内)統一」のため、中央政府の少数民族に対する連携と統轄を強化し、いくつかの政策を採用したが、宗教による連携こそが、重要な政策のひとつであった。清朝皇帝はモンゴル、チベットの両民族が信奉するラマ教を尊重し、広く寺院を建立した目的はここにあった。次に、外八廟の主要寺院について紹介する。

(一)普寧寺と中国最大の木造の仏像

 普寧寺は別名大佛寺と言い、熱河行宮の北東の山の斜面に位置している。この寺の建立は、北西側の境界を安定させることが直接関係している。

普寧寺大乗之閣

 1755年(乾隆20年)清が出兵し、天山の麓のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)のジュンガル部(准噶尔)の反逆者、ダワチ(達瓦斉)の反乱を討伐した。清軍が直接ダワチが防備するイリに攻め入ったので、ダワチは天山の南に逃げ、ウイグル族の首領、ホッジス(霍集斯)に捕えられ、清軍の大営に引き渡された。乾隆はこの度の反乱平定の勝利を記念するため、熱河にラマ廟を建立することを決定し、その名前を普寧寺とし、北西の辺境が「その居を安んじ、その業を楽しみ、永久に普寧が続く」という願いを込めた。この寺の山門の北の碑亭の中に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四つの言語で刻まれた、乾隆が著した『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』には、この度の反乱平定の経緯が記されている。碑文の中に、こう書かれている。「衆く王公を建て、遊牧し各々安んじ」、「疆を分けて各々守り、相侵凌する毋れ」。各民族が仲良くし、辺境を安定させよという願望を表している。

 その後、ジュンガル部の別の反逆者、アムルサナ(阿睦尔撒納)が帝政ロシアとの密約の下、再び公然と反乱を起こした。1757年(乾隆22年)清が軍を派遣し討伐すると、アムルサナは人心を得られず孤立し、恥知らずにもロシアへ逃亡し、間もなく病死した。それて乾隆帝は普寧寺に更に『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』を追加で立てた。碑文の中でこう言っている。「イリは既に(我が)版章(版図)に帰したからには、久しく安んじ善後策を執ろう。ここにもう定まっているものを、どうしてまた失うを宜しとできよう!」祖国が分裂するのを許さない決意をここに公表した。

 早くも779年(唐の代宗の大歴14年)、当時の吐蕃王、赤松徳賛(ティソン・デツェン)は三摩耶寺、またの名を桑鳶寺(今の貢嘎県桑鳶区に位置する)を建立したが、これはチベット最初の仏教寺院であった。普寧寺はチベットの仏教聖地である三摩耶寺に似せて建立された。この寺の中心となる建造物の中の大乗之閣は、中に重さが120トンの木造の千手千眼観世音菩薩像があり、巨大な蓮華座に立ち、仏像の高さは22メートル余り、胸部の幅は6メートルある。大仏の両側には、二体の高さ16メートルの善才と龍女像が立っている。大仏の頭のてっぺんには、更に高さ1.5メートル余りの無量光仏がある。観世音は仏教の中で、「仏法は無辺」で、また「苦を救い難を救い」、「普く衆生を渡る」を楽しむ仏であり、我が国古典文学作品の中でも、しばしば観世音の姿が出現する。観世音が千手千眼仏と言われる所以は、それが四十四本の手を持ち、各々の手のひらの中にひとつの眼があり、更に仏教経典の中でいわゆる「二十五有(う)」の成数を乗じると、「千手千眼」となるのである。

普寧寺千手千眼観世音菩薩像

頭上の無量光仏

 この千手千眼仏は、我が国の木造の仏像の中で最大のものである。伝説によると、この仏像は一本の古い楡の木から彫られたという。実際には、その内部は三層の楼式の構造となっていて、高く聳えるコノテガシワの大柱の周囲に、14本の支柱が立ち、且つ分厚い木の板が釘で打ちつけられ、この像の中心を組成し、更に麻布、膠(にかわ)、漆でしっかり覆って、その上から精緻な彫刻を施してある。大仏は高く大きく均整がとれ、造形が優美で、衣服、スカート、手に持った哈達(ハダ。チベット族が尊敬のしるしとして人に贈ったり仏に供える赤、白、黄、藍などの帯状の絹布)は何れも質感があり、この像は中国古代の木造彫刻芸術の傑作である。

(二)安遠廟とダシュダワ(達什達瓦)部の帰順(内遷)

 安遠廟は避暑山荘の東側、普楽寺の北側の山の斜面の上に位置し、深い藍色の瑠璃瓦で頂が覆われ、建物は独特の風格を有している。この廟はイリ川の北のクルチャ(固尔札)廟に似せて建設された。それゆえまたイリ(伊犁)廟とも呼ばれる。

安遠廟普度殿

 伝説では、乾隆帝がイリ地方で生まれた妃を娶り、彼女は山荘の暢遠楼に住んでいた。妃がホームシックにかかったので、乾隆は暢遠楼の向かいの丘の上に彼女のために故郷のクルチャ廟に似た廟宇を建てて郷愁を癒してやったという。しかしこれは伝説に過ぎず、実際には以下のような事情があった。

 オイラトモンゴル(厄魯特蒙古)の一部族、ダシュダワ(達什達瓦)部は、祖国の統一という方針を堅持し、分裂に反対し、前後して達瓦斉(ダワチ)、阿睦爾撤納(アムルサナ―)と不撓不屈の戦いを行った。1755年、ダシュダワ部は積極的に出兵し、ダワチの反乱を平定する戦いを行った。同年秋、アムルサナ―の反乱後、ダシュダワ部は人数が少なく、勢力が手薄であることから、イリ東南の元々居住していた地区から移転させられた。当時、ダシュダワ部の首領、ダシュダワは既に死亡しており、部族の人々はダシュダワの妻に率いられ、清軍の駐留地、巴里坤(バルクル)に移った。乾隆帝はダシュダワの妻が反乱勢力に反対し、清朝に投降しようとしているに鑑み、「誠悃可嘉」(誠実ですばらしい)とし、「車臣黙爾根哈屯」(賢く知恵のある王妃の意味)の名を封じた。彼女は1756年バルクルで病のため亡くなった。この年、清軍がアムルサナ―の反乱軍を討伐した時、敗れて潰走した反乱軍がイリ川北のクルチャ(固尔札)廟を焼き払った。その後、ダシュダワ部は何度か転々とところを変え、1759年(乾隆24年)熱河に移った。清政府はダシュダワ部の宗教習慣を考慮し、1764年(乾隆29年)、彼らの駐留地の丘の上に、クルチャ廟に似せた形状で安遠廟を建設し、この部族の人々が参詣しやすいようにした。安遠廟の中心の建物である普渡殿の前の臥牌には、乾隆が作った『安遠廟瞻礼書事』牌が刻まれ、碑文の中で廟建立の経緯と清国西北地区統一の意義が述べられている。


避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

2024年01月01日 | 旅行ガイド

永佑寺舎利塔

 湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。

 中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。

試馬埭

曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがおり、園中の青草は鹿に食べられて短くなり、草原全体が極めて平らになり、遠くから望むと緑の絨毯のようになっていた。乾隆はこのため『緑毯八韻詩』を書き、万樹園南部の臥碑に刻み、今日まで保存されている。万樹園、試馬埭では、草が柔らかく土地が広く、良い樹木がきめ細かく植えられており、駿馬が勢いよく走り回っている。乾隆は毎年木蘭圍場で秋狝をする度に、その前に必ずここで校閲と武芸の試合を行い、時にはここにテントを張り、各少数民族の王公貴族の歓迎宴を行い、遠方より来た外国使節を接見した。ここで二つの事柄を特に言及する必要がある。それは乾隆が万樹園で「三策凌」(或いは「車凌」とも書く。ツェリン)に夜宴を催したことと、イギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことである。

乾隆帝の万寿園での夜宴図

 万樹園で三策凌に夜宴を催したのは、1754年(乾隆19年)5月のことである。この時の行事は乾隆が前年の冬に決定していた。実は、ガルダン・ハーン(噶尔丹)の死後、ジュンガル部(准噶尔)の首領たちは引き続き割拠する一方、オイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)の統治権を争奪し、内部闘争が止まなかった。1753年、オイラト・モンゴルの統治権を奪ったジュンガル部首領、ダワチ(達瓦斉)が、エルティシ川(額尔斉斯河)流域で遊牧するドルボタ部(杜尔伯特部)に対して野蛮な襲撃と掠奪を行い、ドルボタ部の人々に重大な災難をもたらした。ダワチの圧迫と掠奪から逃れるため、ドルボタ部の首領、ツェリン(策凌)、ツェリンウブシ(策凌烏布)、ツェリンモンケ(策凌蒙克)(史書では彼らを「三策凌」と呼ぶ)は部族の人々を率いて東遷し、清朝に帰順することを決定した。この年10月、彼らは厳寒の風雪を衝いて、老人を扶助し幼子を携え、ダワチの追手を逃れ、11月に清兵が駐留する烏里雅蘇台(ウリヤスタイ。現在はモンゴル人民共和国の領内)に到達した。

 ドルボタ部の東遷は、オイラト・モンゴルの人々の部族統一、群雄割拠反対の強い願望を反映していた。乾隆はこの重大な政治事件をたいへん重視し、ドルボタ部が困難を極めていた時に、彼は高級官僚を派遣し大量の牛や羊、食糧を送り、翌年夏に避暑山荘で 三策凌を接見することを決定した。

  三策凌が引率する随従人員がウリヤスタイから出発する際、乾隆は特に申しつけを伝え、ウリヤスタイから熱河行宮に到る行路の途中に、24の兵站を設置し、各々の兵站には十分な数量の乗り換え用の馬と食物を準備し、三策凌一行の使用に供した。三策凌接見の重要性を突出させるため、彼は北京の朝廷内の王公大臣に命じ、少数人数を北京に駐留させる以外、皆避暑山荘に赴き、皇帝の接見、宴会に参加させた。1754年閏413日、三策凌は熱河に到着した。512日、乾隆は喀喇河屯から避暑山荘に来て、直ちにツェリンを親王に、 ツェリンウブシを郡王に、ツェリンモンケを貝勒(ベイレ。清朝の爵位名。)に封じた。翌日、乾隆は澹泊敬誠殿で初めて三策凌を接見した。516日、乾隆は万樹園にて盛大な宴会を挙行し、三策凌を歓迎し、北京から来た王公大臣、各地から来た少数民族の王公貴族たち全てを参加させた。引き続き四日間、毎晩園内にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付け、宮廷音楽を演奏し、花火を上げ、雑技の出し物を催し、こうした賑やかな催しは、避暑山荘で空前のものとなった。

 この期間、三策凌は乾隆に多くのダワチに関する情報を報告し、このことが乾隆に速やかにダワチ平定を決意させることを促した。乾隆は十分な準備をしたうえで、1755年(乾隆20年)春、叛徒平定の大軍のイリ出兵を命じ、三策凌も部隊を率いて参戦した。叛徒平定戦争に勝利後、三策凌は再び乾隆の恩賞を受けた。万樹園での三策凌への夜宴は、乾隆の民族関係の処理の一面を反映しており、このことは辺境地区を固め、分裂に反対し国家統一を守るうえで良い作用を果たした。

 乾隆が万樹園でイギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことは、清朝前期の対外関係上の重大事件であった。1792年(乾隆59年)、イギリス政府はマカートニー特使、スタントン(司当東)副使が率いる200人余りの大型代表団を中国に訪問させた。彼らはイギリス国王ジョージ三世から乾隆皇帝への信書と贈り物を携え、海路天津に上陸し、先ず北京に到り、古北口を出て、17939月に避暑山荘に到着した。914日(旧暦810日)乾隆帝は万樹園の大テント内でマカートニー、スタントンらを接見し、イギリス国王の贈礼に謝意を表し、並びに礼物を贈った。当時、ちょうど乾隆の83歳の誕生日に当っており、お祝いに来た外国使節、少数民族の上層の人物などが山荘に多く集まっており、イギリス使節団も祝典行事に参加した。乾隆は万樹園で宴席を設え、使節団を招待し、彼らに花火や芝居、踊りなどの出し物を鑑賞させ、また慣例を破って彼らに避暑山荘を遊覧させた。

 乾隆はこの度の初めて外交ルートで中国に来たイギリス使節団に対し、優待し礼遇したが、併せて彼らへの警戒を緩めることはなかった。実際、このイギリス使節団は確かにその対外拡張の目的を有していた。当時、イギリスは正に産業革命後の資本主義勃興時期に当り、イギリス資産階級の政府は、長年外交に従事してきたマカートニー卿を特使に任命し、使節団を中国に派遣したが、その目的は清王朝の扉を開かせ、イギリス資本主義勢力が中国に侵入する道筋を開くためであった。マカートニーは乾隆帝に、イギリスの使節が北京に常駐し、イギリス商人が中国沿海都市の寧波、天津などで「泊貨貿易」(販売前の商品を在庫して必要な時期に相手と取引きする)を行うこと、及び北京で洋行(貿易商社)を設立することを認めるよう要求したが、全て乾隆に拒絶された。乾隆が外国勢力の侵入を警戒していたというのはその通りだが、彼は清朝を「天朝」と自認する尊大な心理を持ち、門戸を閉ざす鎖国政策の実施は行わなかった。

 西部平原は、万樹園の西に延びる西嶺の山麓に位置し、文津閣、寧静斎、玉琴軒などの建物がある。 文津閣は17741775年(乾隆3940年)に建てられたが、その目的は『四庫全書』を収めるためで、浙江寧波の有名な蔵書楼である範氏天一閣を真似て建造された。この蔵書楼は、外観は二層だが、内部は実際は三層で、中間の一層は陽光が蔵書庫に差し込まないようにするためである。建物の東の古松の下に、乾隆が自ら題した『文津閣記』碑が立っている。乾隆年間に作られた『四庫全書』は全部で七部作られ、 文津閣の一部は辛亥革命後の1915年に北京に移され、その後は京師図書館、つまり現在の北京図書館に保存されている。北京図書館の所在地の文津街は、このことにより名付けられた。 文津閣には元々、これ以外に『古今図書集成』一部が蔵せられていたが、後に軍閥の湯玉麟により奪い去られた。

文津閣

 文津閣には元々院墻が築かれ、院内は蔵書楼の他、各種の景観がその間を引き立てた。文津閣の前には泉の水が合流する小さな湖があり、晴れた日の日中には水中に新月が映り、見る者に奇観と称えられた。これについては、実は文津閣の向かいに築山を造営する時、山洞の前の壁に三日月形の小さな穴が残り、光が漏れて池の中に逆さに映り、昼間に静観すると、初めて昇る月のように見えたのだった。ここの築山は他にも別の見どころがあり、高さのまちまちの石が立ち並び、不思議な形の峰が重なり合う中、趣亭と月台が建てられ、詩意に富んでいる。乾隆は曾てこう詩に詠んだ。「閣外假山堆碧螺,山亭名趣意如何。泉声樹態則権置,静対詩書趣更多。」(『趣亭』)

 熱河行宮の山岳地区は、山荘の西部と北部にあり、山荘の総面積の五分の四を占める。ここでは山々が重なり合い、木々が生い茂り、谷や渓谷はひっそり静かで、山並に沿って44か所の亭台楼閣、寺院などが建てられていた。そのうち山近軒、梨花伴月、食蔗居、秀起堂、広元宮、珠源寺、鷲雲寺など大多数の建物は全てもう破壊され、今も残るのはただ南山積雪、錘峰落照、四面雲山など数か所だけである。

 南山積雪はひとつのあずまやで、山荘の真北の山頂に聳え立ち、山区の建物の中で最も容易に遊覧者に見える場所である。文津閣から北に行くと、松雲峡に進み、曲がりくねった山道を登り、北枕双峰の跡を過ぎてしばらく行ったところが南山積雪である。ここからは東にゆったりと東に流れる武烈河が望め、北には高くそびえる壮観な普寧寺を眺めることができる。

  錘峰落照もひとつのあずまやで、西嶺の平らな丘の上に建てられている。このあずまやは山荘の東側の群山の中の磬錘峰を鑑賞するために建てられた。磬錘峰は上が太く下が細い、ひとつだけまっすぐ突っ立った奇峰である。夕陽が西に沈む時、落照亭から東を望むと、磬錘峰は「迥出孤標、揚暉天際」、この景色は見る者を感動させる。

 この他、四面雲山と呼ばれるあずまやがあり、西山の最も高いところにある。あずまやの中に立って四方を望むと、承徳市の全景が見れるだけでなく、有名な「承徳十大景」のうちの八大景を見ることができる。すなわち、僧冠山、羅漢山、磬錘峰、蛤蟆石、天橋山、鶏冠山、月牙山、饅頭山である。四面雲山のあずまやは西山の頂に高く聳え、その足元には、諸峰が並び、或いはお辞儀し、或いは拱手し、あずまやの中は遠くから風が流れてきて、暑さに伏せる季節でも秋のように爽快である。

 避暑山荘の設計や造営は、独自の風采を備え、中国内の著名な園林とは一線を画する。ここでは自然の地勢を十分に利用し、山岳、平原、湖泊の変化に富んだ地形の上に、それぞれ宮殿や苑景を造営し、人工の建築を自然の風光と調和をとり一体にしている。建物の風格は、北方の四合院形式の整った対称性だけでなく、南方の園林の弾力的な不揃いさ、精緻な設(しつら)えも併せ持っている。景観の特色は、雄壮で荒々しい北国の風光だけでなく、明媚で秀麗な南国の情緒も取り入れている。つまり、南北の造園芸術の集大成と言うことができる。そのうち宮殿区の建物は、北京故宮のように高大雄壮、華麗で堂々としたものではなく、厳かでしめやか(荘厳肅穆)な中に、簡素で上品で、古色蒼然(古色古香)とし、見る人に新たな風格を感じさせた(別開生面)。

 避暑山荘の建物は、離宮外の風景も借景として利用している。山荘の東側の 磬錘峰は、これを重要な借景として利用されている。南側の 僧冠山、羅漢山、及びもっと遠くの 鶏冠山も、自然と山荘の遠くの眺望風景の中の組成部分になっている。後に北東の斜面に建てられた普楽寺、安遠廟など外八廟は、極彩色の美に輝き(金碧輝煌)、且つ濃厚な地方色に富んでいて、避暑山荘と入り乱れて輝き(交相輝映)、武烈河河谷に、非常に美しく(瑰麗)、様々な表情を見せる(多姿)膨大な芸術性に富む建築群を形成している。