北京のことばというのは、日本で言えば、ちゃきちゃきの江戸っ子のことば、というような感じで、ぶっきらぼうで、簡単な表現の中に、味がある。そのなかに、独特の表現がある。
今回紹介する「侃大山」kan3da4shan1は、1970~80年ごろに北京の若者の間ではやった、新しいことばのようだが、おもしろい表現である。
次に紹介するのは、受験生の娘を持つ、父親へのインタビューだが、北京っ子の若い父親が早口でまくしたてている様子を想像して読んでいただきたい。
我這個人特愛玩儿,愛和朋友一塊儿搓麻、喝酒、侃大山,愛養鳥、養鴿子、養(虫曲)(虫曲)儿qu1qu1r,也愛看足球比賽。可我現在一点儿也不敢玩儿。怕老婆? 嘿! 您猜到哪儿去啦? 是怕我那親閨女,怕她考不上大学,将来像我一様窩囊! 我的時間全搭在陪她読書上了。無論是国慶節、労働節、還是中秋節、春節,我哪儿都不去,全呆在家里。她現在的功挺深,我也使不上什麼勁儿。我的主要任務是招待家教老師。周末我們全家看両個小時的電視,一礼拜就這麼一回,看什麼閨女説了算。我琢磨着,等姑娘考上大学,非痛痛快快地玩儿上一个月不可。
(北京大学出版社《高級漢語口語》下冊 第二課 五彩繽紛 周末百姓衆生相)
[訳]私は遊ぶのが好きで、友達といっしょに麻雀をしたり、酒を飲んだり、おしゃべりをしたり、鳥を飼ったり、伝書鳩を飼ったり、コオロギを飼ったりするのが好きで、またサッカーの試合を看るのも好きだ。でも、今は少しも遊びに行こうと思わない。女房が怖いって?へっ!どこへ行くかわかるかい?娘が心配なのさ。大学に受からず、将来私のように腑抜けになってしまうのが心配なのさ。私の時間は全て娘の勉強に付き添うのに充てている。国慶節だろうと、メーデー、中秋節、春節も、私はどこへも行かず、家でじっとしている。彼女は今勉強がたいへんで、私もどうしてやることもできない。私の主な任務は家庭教師の先生をもてなすことだ。週末は家族で二時間テレビを見る。一週間にこの一回だけで、何を見るかは娘次第だ。私はいつも考える、娘が大学に受かったら、絶対一か月思いっきり遊ぶぞっと。
● 搓麻 cuo1ma2 マージャンをする
● 窩囊 wo1nang 意気地がない。ふがいない
● 琢磨 zuo2mo よくよく考える。思案する。熟慮する
さて、侃大山 についてである。このことばを検索してみると、百度百科に、次のような説明があった。
“侃大山”は“砍kan3大山”とも言う。《咬文嚼字》2001年11期25頁の金文明先生的文章《説“侃”》の中で、こう言っている。
“最近十多年来,‘侃’字除了形容詞外,又出現了新的動詞意義:閑談,閑扯。”
(「最近十数年来、「侃」という字は形容詞(剛直であるという意味)以外に、新しく動詞としての意味が出現している。それは、「閑談」「閑扯」、つまりむだ話をする、とか雑談をする、という意味である」)
● 咬文嚼字 yao3wen2jiao2zi4 成語で、文章の文字面にばかりこだわる、或いは工夫をすること。文章を読む時に字句ばかり詮索し、真髄を理解しないことを諷刺していう。この成語を題して雑誌の名前に使っている
● 閑扯 xian2che3 むだ話をする。雑談をする。おしゃべりをする。
“ 砍大山”は北京土話(北京の方言)であり、1970~80年代に北京の青少年の間ではやった流行語である。1988年に金文明氏らは北京の14~25歳の青少年の流行語について調査し、《語文建設》1990年第一期で発表した。その内容は、「どうして「砍大山」と言うのか?どういう意味か?」ということであったが、
他們不約而同地回答説(彼らは期せずして同じ回答をした)。
“就那麼東一榔頭、西一棒槌瞎砍唄!”(「あちこち首をつっこんで、むだ話をすることさ!」)
したがって、字としては「砍大山」と書いたのである。1985年商務印書館が出版した陳剛編纂の《北京方言詞典》144頁に“砍大山”を収録し、注には:“高談闊論(帯有吹牛意味)。”(「大いに弁舌を振るう(ほらを吹く意味を含む)」)とある。
● 不約而同 bu4yue1er2tong2 行動や意見が期せずして一致する
● 榔頭lang2tou 木槌
● 棒槌bang4chui (洗濯用の)たたき棒。きぬた
● 高談闊論gao1tan2kuo4lun4 大いに弁舌を振るう。大いに議論する
● 吹牛chui1niu2 ほらを吹く。自慢する。大風呂敷を広げる
だいたい1990年ごろ、《北京晚報》も北京方言の“砍大山”について小文を掲載し、間もなくして同紙の「百家言」欄に文章を発表した人がおり、その中で“砍大山”の“砍”の字は“侃”を使うべきで、更に元曲(元代に盛んだった演劇形式のひとつで、雑劇と散曲を含む)の例を挙げてそのことを証明した。しかし、元曲の「調侃」とは、“用言語戯弄(ことばを使って、からかう)、嘲弄(嘲弄する、からかう)”の意味であり、“瞎扯(むだ話をする)”とは意味が異なる。この文章の作者はその他には何も根拠となる説明をしなかったが、この人物が当時たいへん影響力のある文化人であったので、
雖然他的文章在我看来并不能自圓其説,但還是引起了広汎的関注,甚至可以説是一錘定音,从此《北京晚報》把“砍大山”都改成“侃大山”,其他刊物又很快一体遵循。
(彼の文章は、私が見るところ、つじつまが合わないが、幅広い層の関心を集め、鶴の一声、と言ってもよいくらいで、これより《北京晚報》は「砍大山」を「侃大山」と書き改めるようになり、他の出版物も間もなくこれに倣った。)
● 自圓其説 zi4yuan2qi2shuo1 自分の説のつじつまを合わせる。
● 一錘定音 yi1chui2ding4yin1 銅鑼を作る時に最後のひと打ちで音階が決まる → 鶴の一声
実際、「考本字」(同音の当て字に対して、本来書かれるべき字を考察する)は容易なことではない。何れにせよ、「侃」という字に1990年代になって突然動詞の意味が出てきた訳で、「侃」に「砍」の字を当てる人が出てくるのも当然なことで、正に《説“侃”》の作者が言っているように、
“砍大山”写成“侃大山”也有好処,因為“砍”是一个常用字,容易有歧義,如“他又在那儿砍了”,究竟是“又在砍柴”了,還是“又在瞎扯”了?起用一个死了上千年誰也不用了的“侃”字就不会引起誤会,也可以説是廃物利用,何楽而不為呢?所以我也不反対。不過要説“本字”什麼的,那就実在不敢苟同。侃大山就是天南海北地瞎扯.
[訳]「砍大山」を「侃大山」と書くのには利点もある。というのは、「砍」は常用字なので、字義が紛らわしく、例えば「他又在那儿砍了」と言った時、彼がまたそこで「柴を刈っている」のか「むだ話をして油を売っている」のかわからない。千年以上も前に死語になって使うことのない「侃」なら、誤解が生じない。また廃物利用とも言える。何ぞ楽しんで為さざる?したがって私は反対しない。しかし本来どう書くべきか、ということになると、いいかげんな同意はできない。侃大山とは、とりとめもない、よもやま話をすることである。
● 歧義 qi2yi4 二様または多様にとれる字義、語義。紛らわしい意味
● 瞎扯 xia1che3 雑談をする。とりとめのないことを言う。冗談を言う
● 何楽而不為 he2le4er2bu4wei2 どうして喜んでしないことがあろうか。もちろん喜んでする
● 苟同 gou3tong2 いいかげんに同意する
● 天南海北 tian1nan2hai3bei3 「天南地北」ともいう。 とりとめがない
今回紹介する「侃大山」kan3da4shan1は、1970~80年ごろに北京の若者の間ではやった、新しいことばのようだが、おもしろい表現である。
次に紹介するのは、受験生の娘を持つ、父親へのインタビューだが、北京っ子の若い父親が早口でまくしたてている様子を想像して読んでいただきたい。
我這個人特愛玩儿,愛和朋友一塊儿搓麻、喝酒、侃大山,愛養鳥、養鴿子、養(虫曲)(虫曲)儿qu1qu1r,也愛看足球比賽。可我現在一点儿也不敢玩儿。怕老婆? 嘿! 您猜到哪儿去啦? 是怕我那親閨女,怕她考不上大学,将来像我一様窩囊! 我的時間全搭在陪她読書上了。無論是国慶節、労働節、還是中秋節、春節,我哪儿都不去,全呆在家里。她現在的功挺深,我也使不上什麼勁儿。我的主要任務是招待家教老師。周末我們全家看両個小時的電視,一礼拜就這麼一回,看什麼閨女説了算。我琢磨着,等姑娘考上大学,非痛痛快快地玩儿上一个月不可。
(北京大学出版社《高級漢語口語》下冊 第二課 五彩繽紛 周末百姓衆生相)
[訳]私は遊ぶのが好きで、友達といっしょに麻雀をしたり、酒を飲んだり、おしゃべりをしたり、鳥を飼ったり、伝書鳩を飼ったり、コオロギを飼ったりするのが好きで、またサッカーの試合を看るのも好きだ。でも、今は少しも遊びに行こうと思わない。女房が怖いって?へっ!どこへ行くかわかるかい?娘が心配なのさ。大学に受からず、将来私のように腑抜けになってしまうのが心配なのさ。私の時間は全て娘の勉強に付き添うのに充てている。国慶節だろうと、メーデー、中秋節、春節も、私はどこへも行かず、家でじっとしている。彼女は今勉強がたいへんで、私もどうしてやることもできない。私の主な任務は家庭教師の先生をもてなすことだ。週末は家族で二時間テレビを見る。一週間にこの一回だけで、何を見るかは娘次第だ。私はいつも考える、娘が大学に受かったら、絶対一か月思いっきり遊ぶぞっと。
● 搓麻 cuo1ma2 マージャンをする
● 窩囊 wo1nang 意気地がない。ふがいない
● 琢磨 zuo2mo よくよく考える。思案する。熟慮する
さて、侃大山 についてである。このことばを検索してみると、百度百科に、次のような説明があった。
“侃大山”は“砍kan3大山”とも言う。《咬文嚼字》2001年11期25頁の金文明先生的文章《説“侃”》の中で、こう言っている。
“最近十多年来,‘侃’字除了形容詞外,又出現了新的動詞意義:閑談,閑扯。”
(「最近十数年来、「侃」という字は形容詞(剛直であるという意味)以外に、新しく動詞としての意味が出現している。それは、「閑談」「閑扯」、つまりむだ話をする、とか雑談をする、という意味である」)
● 咬文嚼字 yao3wen2jiao2zi4 成語で、文章の文字面にばかりこだわる、或いは工夫をすること。文章を読む時に字句ばかり詮索し、真髄を理解しないことを諷刺していう。この成語を題して雑誌の名前に使っている
● 閑扯 xian2che3 むだ話をする。雑談をする。おしゃべりをする。
“ 砍大山”は北京土話(北京の方言)であり、1970~80年代に北京の青少年の間ではやった流行語である。1988年に金文明氏らは北京の14~25歳の青少年の流行語について調査し、《語文建設》1990年第一期で発表した。その内容は、「どうして「砍大山」と言うのか?どういう意味か?」ということであったが、
他們不約而同地回答説(彼らは期せずして同じ回答をした)。
“就那麼東一榔頭、西一棒槌瞎砍唄!”(「あちこち首をつっこんで、むだ話をすることさ!」)
したがって、字としては「砍大山」と書いたのである。1985年商務印書館が出版した陳剛編纂の《北京方言詞典》144頁に“砍大山”を収録し、注には:“高談闊論(帯有吹牛意味)。”(「大いに弁舌を振るう(ほらを吹く意味を含む)」)とある。
● 不約而同 bu4yue1er2tong2 行動や意見が期せずして一致する
● 榔頭lang2tou 木槌
● 棒槌bang4chui (洗濯用の)たたき棒。きぬた
● 高談闊論gao1tan2kuo4lun4 大いに弁舌を振るう。大いに議論する
● 吹牛chui1niu2 ほらを吹く。自慢する。大風呂敷を広げる
だいたい1990年ごろ、《北京晚報》も北京方言の“砍大山”について小文を掲載し、間もなくして同紙の「百家言」欄に文章を発表した人がおり、その中で“砍大山”の“砍”の字は“侃”を使うべきで、更に元曲(元代に盛んだった演劇形式のひとつで、雑劇と散曲を含む)の例を挙げてそのことを証明した。しかし、元曲の「調侃」とは、“用言語戯弄(ことばを使って、からかう)、嘲弄(嘲弄する、からかう)”の意味であり、“瞎扯(むだ話をする)”とは意味が異なる。この文章の作者はその他には何も根拠となる説明をしなかったが、この人物が当時たいへん影響力のある文化人であったので、
雖然他的文章在我看来并不能自圓其説,但還是引起了広汎的関注,甚至可以説是一錘定音,从此《北京晚報》把“砍大山”都改成“侃大山”,其他刊物又很快一体遵循。
(彼の文章は、私が見るところ、つじつまが合わないが、幅広い層の関心を集め、鶴の一声、と言ってもよいくらいで、これより《北京晚報》は「砍大山」を「侃大山」と書き改めるようになり、他の出版物も間もなくこれに倣った。)
● 自圓其説 zi4yuan2qi2shuo1 自分の説のつじつまを合わせる。
● 一錘定音 yi1chui2ding4yin1 銅鑼を作る時に最後のひと打ちで音階が決まる → 鶴の一声
実際、「考本字」(同音の当て字に対して、本来書かれるべき字を考察する)は容易なことではない。何れにせよ、「侃」という字に1990年代になって突然動詞の意味が出てきた訳で、「侃」に「砍」の字を当てる人が出てくるのも当然なことで、正に《説“侃”》の作者が言っているように、
“砍大山”写成“侃大山”也有好処,因為“砍”是一个常用字,容易有歧義,如“他又在那儿砍了”,究竟是“又在砍柴”了,還是“又在瞎扯”了?起用一个死了上千年誰也不用了的“侃”字就不会引起誤会,也可以説是廃物利用,何楽而不為呢?所以我也不反対。不過要説“本字”什麼的,那就実在不敢苟同。侃大山就是天南海北地瞎扯.
[訳]「砍大山」を「侃大山」と書くのには利点もある。というのは、「砍」は常用字なので、字義が紛らわしく、例えば「他又在那儿砍了」と言った時、彼がまたそこで「柴を刈っている」のか「むだ話をして油を売っている」のかわからない。千年以上も前に死語になって使うことのない「侃」なら、誤解が生じない。また廃物利用とも言える。何ぞ楽しんで為さざる?したがって私は反対しない。しかし本来どう書くべきか、ということになると、いいかげんな同意はできない。侃大山とは、とりとめもない、よもやま話をすることである。
● 歧義 qi2yi4 二様または多様にとれる字義、語義。紛らわしい意味
● 瞎扯 xia1che3 雑談をする。とりとめのないことを言う。冗談を言う
● 何楽而不為 he2le4er2bu4wei2 どうして喜んでしないことがあろうか。もちろん喜んでする
● 苟同 gou3tong2 いいかげんに同意する
● 天南海北 tian1nan2hai3bei3 「天南地北」ともいう。 とりとめがない