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□[1] 私たちは、教師が激しい口調で厳しい顔をして、いつも学生達にこれこれをしてはいけないと叱責しているのをよく見かける。それはこの教師がまだ然るべき境地に達していないということで、本当に良い教師というものは、孔子のように、穏やかに学生達と議論しながら、こうした天・地・人の“三才”の共存共栄の関係を充分に説明できる。このようなある種の、落ち着き払って慌てない風格、このようなある種の慎み深く抑えの利いた態度は、実は正に中国人の人格の理想である。西洋と異なり、中国哲学が尊ぶのは、ある種の厳かで、理性的で、優しく重厚な美しさである。《論語》の中での孔子のイメージは、このようなある種の理想の探究の象徴である。孔子のこのイメージには、その内面から導き出されるある種の飽和した力が凝縮されている。この力こそ、後に孟子が説いた「浩然の気」である。天地の気が一人の人の心の中で凝縮された時にのみ、それはこのように強大になることができる。
□[2] 《論語》の思想の神髄は、天の大なること、地の厚きことの清華を人間の内心に取り入れ、天、地、人を完全な一体物とし、人間の力をそれにより比類無く強大にしたことにある。私達は今日よく、天の時、地の利、人の和は国家の隆盛、事業の成功の基礎であると言うが、これは《論語》の私達現代人への啓発である。私達は永遠に天地が私達に与えた力を忘れてはならない。何を以て「天と人の合一(一体化)」と呼ぶか。それは人間の自然の中での調和である。私達は調和のとれた社会の建設に努力しているが、本当の調和とは何であろうか。それはただ単に小さな地域の隣近所の調和ではなく、単なる人と人の間の調和でもなく、必ず大地の上の万物が調和し、快適に共に成長することを含まなければならない。人間は自然界の全ての物に、ある種の畏敬の念を払い、それに順応し、ある種の気持ちの通じ合いを持たねばならない。これはある種の力であり、もしこうした力を引き出し、鍛えて作り上げることができれば、私達は孔子のような度量を持つことができる。私達はこのことから、孔子の態度はたいへん公平で、彼の心の中は非常に厳格であったことを知ることができる。それというのも、その中にはある種の強い力があり、それは信念の力であるからである。孔子はとりわけ信念を重んじた人である。
□[3] 弟子の子貢が質問をした。国を安定させ、政治を安定させるには、どういうことが必要ですか。この話は、《論語》の中で「子貢、政(まつりごと)を問う」と呼ばれる。 孔子の答はたいへん簡単で、「兵足り、食足り、民これを信ずる」の三つである。第一に、国家機関は強大でなければならず、十分な兵力による保障がなければならない。第二に、十分な食糧があり、一般大衆が豊かな生活を送れなければならない。第三に、一般大衆が国家を信用しなければならない。 この弟子はひねくれていて、三つは多すぎる、もし一つ削らなければならなければ、先生は先ず何を削りますか、と尋ねた。孔子は言った。「兵を削ります。」私達はこのような武力による保障は必要ない。子貢はまた問うた。もし更にもう一つ削らなければならないなら、先生はどれを削りますか。孔子はたいへん真面目に彼に言った。「食を削ります。」私達はむしろ食事を削ることを良しとします。続いてこう言った。「古(いにしえ)より、皆死すとも、民の信無くんば立たず。」と。 食糧が無ければ、死んでしまうだけで、古より今日まで、死ななかった者がいるか?だから、死が最も怖いものではない。最も怖いのは、国民がこの国への信用を失って後の崩壊と士気の低下である。物質面での幸福な生活は、ただ単に一つの指標に過ぎない。本当に内心から安定を感じ、政権が認可されるのは、信用に基づく。これこそ孔子の政治理念であり、彼は信用力こそ国家をまとめるに足るものと考えた。
□[4] 今日、一つの考え方があり、それによると、21世紀にそれぞれの国の人民の生活の良し悪しを判断するのは、もはやこれまでのように単純にGNP(国民生産総額)を指標とするのではなく、更にGNH、つまりGross National Happiness、国民幸福指数をみなければならないと言われている。つまり、一つの国家が本当に強大であるかどうかを評価するのは、単純に国民生産総額の絶対量と成長速度を見るだけではだめで、人民大衆一人一人が心の中で感じていること――安全と感じているか、快適であるか、今の生活を本当に認めているかを見なければならない。我が国は1980年代末に国際的な調査に参加したことがあり、そのデータによれば、当時、我が国の国民の幸福指数は64%前後に過ぎなかった。1991年に再び調査に参加すると、この幸福指数は上昇し、73%前後に達した。これは物質的な生活条件の向上と、多くの改革措置の実施の賜物である。しかし1996年に再び調査に参加すると、この指数が68%に低下した。この結果は、人々を困惑させた。このことは、たとえ社会の物質文明が極度に繁栄したとしても、この文明の成果を享受する現代人には、依然として極めて複雑な心の迷いが存在する可能性があることを示している。
□[5] 私達は2500年余り前に戻り、当時の物資が乏しかった時代、当時の聖人や賢人がどのようであったか見てみよう。孔子が最も好きだった弟子を顔回という。彼はこの弟子を褒めてこう言った。「賢なるかな、回は。一箪の食、一瓢の飲。陋巷に在り、人は其の憂いに堪えず。回は其の楽を改めず。賢なるかな、回は。」(《論語・雍也》)つまり、顔回の家はたいへん貧しく、着るものも無く食べ物も少なく、たいへん粗末な路地の奥で暮らしていた。このような辛い生活は、他の人にはまったく我慢できないものだったが、顔回は逆にそれを楽しむことができた。ひょっとすると多くの人がこう言うかもしれない。生活というものは、貧しき日々も富める日々も訪れるだろうが、それにどう対応したらよいだろうか。顔回は本当に人を感服させた。それは決して彼がこのような苦しい生活の境遇を我慢できたからではなく、彼の生活態度に依る。全ての人がこのような生活は苦しく、嘆き悲しみ、不平を言っている時、顔回はその楽観的な態度を変えなかった。本当の賢者のみが、物質的な生活に縛られることなく、心持がそのようにあっさりと無欲で、穏やかな気持ちを保つことができる。なるほど、誰しも苦しい生活は望まないが、単純に物質的に極めて豊かであることによっても、同様に心の問題を解決することはできない。私達の物質面の生活は明らかに向上したが、多くの人が益々不満を持つようになった。それというのも、周囲には俄か成金の階層が存在し、総じて自分と釣り合いのとれない事も見受けられるからである。
□[6] 実際、人の視力には、二つの機能がある。一つは外に向かい、無限に幅広く世界を切り開く。もう一つは内に向かい、限りなく深刻に心の内を見つめる。私達の眼は、総じて外界を見ることは多いが、心の内を見ることが少なすぎる。孔子は私達に快楽の秘訣を教えてくれる。それはつまり、如何に心の内の安寧をさがし出すかということである。人々は幸福で快楽な生活を送ることを望むが、幸福で快楽であるというのはある種の感覚に過ぎず、貧富とは無関係で、心の内面と関連がある。《論語》の中で、孔子は弟子たちにどのように生活の中の快楽をさがすべきかを語っている。こうした考えは伝承され、歴史上多くの著名な文人や詩人に対し大きな影響を与えた。子貢が先生に尋ねた。「貧にして媚びず、富んで驕らざるは、如何。」ある人はたいへん貧しいが、金持ちにこびへつらわない。金持ちだが、横柄な態度で人を侮るようなことがない。これはどうだろうか。先生は言った。悪くない。しかしまだ不十分だ。もう一つ高い境地がある。それは、「貧しくて楽しみ、富みて礼を好む者なり。」より高い境地というのは、貧しさに安んじるだけでなく、こびへつらって人に援助を求めることがないだけでなく、心の中にある種の清らかな喜びを抱くことである。こうした喜びは、貧しい生活によって奪い去られることがなく、金があっても驕り高ぶり、贅沢の限りを尽くすということがなく、こうした人は、依然として心の内に喜びと豊かさを持ち、雅やかで礼儀正しい君子である。
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