たまごの変身(蛋変)
にわとりが先か、たまごが先か、ということに比べ、たまご(蛋)が先か、皮蛋(ピータン)が先かということは、あまり得点の高くない早押しクイズの問題(“搶答題”)だろう。
しかし、たまごが皮蛋(ピータン)になると、いろいろな問題が派生してくる。例えば、一個の皮蛋が、なんと何種類もの異なった名前を持つこととなっている。北方の人はこれを“松花蛋”と呼ぶ。それはタンパク質が水溶の過程で生成した塩類と遊離したアミノ酸が拡散を経て、異なった方向に沈殿し形成された結晶の模様である。皮蛋にはまた一つの後世に伝わらず消失した名前がある。それは“変蛋”という。方以智《物理小識》に謂う。「池州(安徽省西南部、黄山の北)に変蛋を産する。五種の樹灰で以てこれを塩漬けし、おおよそ蕎麦の灰で以てすると黄色と白色が入り混じり、かまどの炭と石灰を加えると、緑色で粘り強くなる。」《竹嶼山房雑部》では名を“混沌子”といい、明の《養余月令》では“牛皮鴨子”の呼称があった。
“牛皮鴨子”は皮蛋の語源のようであり、その数多くの名前の中で、これが最も粗野(“粗俗”)なものに数えられる。しかしその実、私は一点疑念があり、その成長過程からにせよ、中国語の音韻の変遷から見るにせよ、“皮蛋”は“変蛋”から変化(“演変”)してできた可能性がもっと大きいのではないかということである。何れにせよ、皮蛋の名称上での不安定な要素は、その性格上の複雑さを体現している。“鴨蛋”か“鶏蛋”かは、ただそれがニワトリの卵か、アヒルの卵か、ニワトリの子かアヒルの子かということに過ぎず、この名前は、もう一度それがニワトリかアヒルから生まれたことを証明する以外は、指し示すことができるものはゼロに近い。
しかし、この種の複雑性も、“鴨蛋”に対してのみ言えるのである。皮蛋の外部環境は、鴨蛋(アヒルのたまご)のようになめらかできれい(“光潔”)ではなく、それとはおおきく隔たり(“大相径庭”)きめが粗く(“粗糙”)、博物館に陳列されたたまごの化石のようである。その一層(たまごの殻の外側を覆っているもの)はたまごの殻を複雑化するものであり、それ自身は更に複雑で、糠殻、黄土に“残料”と水を混ぜ入れ混合したもので、“残料”に至っては、生石灰、純炭酸ソーダ(“純碱”)、食塩、紅茶粉末等が含まれている。皮蛋もアヒルのたまごのように簡単に言うことを聞いて(“就範”)くれず、この人造の外の殻の層を取り除かねばならず、皮蛋を食べる人は我慢強くなければならない。皮蛋が遂にアヒルのたまごに似た青い殻を露出させたなら、この青い殻はアヒルのたまごと同じように剥かれ、感覚がちょうど正常に戻ったばかりの時に、また一度、その驚変を目撃することになる。激しい泥んこ相撲の試合の後、熱いシャワーを浴びた美人が、風呂から出ると……
明らかにタンパク(蛋白)であるが、“蛋白”でない。皮蛋のもう一層の別の皮のようである。真皮。手のひらの中でかすかに揺れ動き、透明か半透明のもので、ひとしきり(“一陣陣”)涼しげな濃い緑(“墨緑”)が浸み出し、曇天の黄昏の九寨溝の湖水のようである。それらは“松花”の結晶模様と呼ばれ、枝葉が湖水の中に映ったグラデーション(“疏影”)を連想させ、美しく、神秘的である。
アメリカ人が皮蛋を“千年蛋”と呼ぶのは、ひょっとするとこの光景の戦慄のせいかもしれない。しかし、一人の楽観的なヤンキー・おやじ(“老美”)として、程なくiMacのような感覚を取り戻す。流行のデザインとして、透明なフレーム(外殻)はたいへんCool(酷)である。ただ、中に何も複雑な電子装置を隠していない皮蛋の内部であり、そこにどんな見どころ(“看頭”)があるというのだろう。いや、これこそ皮蛋と鴨蛋(アヒルのたまご)のもうひとつの違いであり、たまごの黄身の偏りをあらかじめ観察することができる。卵黄の“胎位不正”は、皮蛋の評価にマイナスの意味を持つ。完璧主義者は潮の満ち引き(“潮汐”)の引力を活用する。清の《調燮類編》は謂う。「“灰塩鴨子”(即ち皮蛋)を作るには、月の半ば(“月半”)の日ならば黄身は真ん中に居る。そうでなければ偏る。」
ちょっと退屈でつまらないですか。いや、黄身は皮蛋の最も肝心な部分であるので、ちゃんとしていないと食べない(“不正不食”)だけでなく、それは半熟(“半流質”)の糊状(“膠着状態”)でなければならない。香港人はアワビを食べる時の専門用語(“術語”)を使って、これを“糖心”と呼ぶ。一口“糖心”を咬めば、口中がコテコテに(“一塌糊塗”)柔らかく(“柔嫩”)甘くねっとり(“甘腴”)としたもので満たされ、その後、赤ワインを一口飲めば、その効果はチーズを食べた時に匹敵する。
昔、一羽のアヒルが、偶然にたまごを石灰の池の中に生んだ。ひとりの農夫が、たまたま通りかかり、アヒルのたまごを見つけたので、拾いあげて食べた ―― これから皮蛋が生まれたと言われている。しかし、こうとも言える。先ずアヒルが間違った場所で一個の間違ったたまごを生んだ。それに続き、人間があらかじめ手はずを決め(“預謀”)、組織的に、計画的に、故意に一部の正常で健康なアヒルのたまごを腐ったたまご(“壊”蛋)に変えてしまった(“変”成)。その値打ちのある「腐れ卵」を人に食べてもらう。皮蛋は悲劇的な食べ物であると同時に、悲劇の中の、おもしろい「悪者」(“壊蛋”)である。ちょうど“J”を北方の人が“勾”と呼ぶように、トランプの“Q”を南方人はその形から“皮蛋”と呼ぶ。このことはたやすく理解できる。しかし、どうしてわざわざ(“偏偏”)“皮蛋”と言い、“鴨蛋”、“鶏蛋”と言わないのだろう。おそらく、これは本来見てみると正常な卵型の文字(字母)であったものが、いわれなく(“無端地”)一本のしっぽを生やされた、それで、皮蛋の気性から、ちょっと悪さをした。実におもしろい(“蛮有趣”)、実に“Q”(qiu、つまり、“趣”、発音が“qu4”に近いので、しゃれてこう言った)だ。
【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳
にわとりが先か、たまごが先か、ということに比べ、たまご(蛋)が先か、皮蛋(ピータン)が先かということは、あまり得点の高くない早押しクイズの問題(“搶答題”)だろう。
しかし、たまごが皮蛋(ピータン)になると、いろいろな問題が派生してくる。例えば、一個の皮蛋が、なんと何種類もの異なった名前を持つこととなっている。北方の人はこれを“松花蛋”と呼ぶ。それはタンパク質が水溶の過程で生成した塩類と遊離したアミノ酸が拡散を経て、異なった方向に沈殿し形成された結晶の模様である。皮蛋にはまた一つの後世に伝わらず消失した名前がある。それは“変蛋”という。方以智《物理小識》に謂う。「池州(安徽省西南部、黄山の北)に変蛋を産する。五種の樹灰で以てこれを塩漬けし、おおよそ蕎麦の灰で以てすると黄色と白色が入り混じり、かまどの炭と石灰を加えると、緑色で粘り強くなる。」《竹嶼山房雑部》では名を“混沌子”といい、明の《養余月令》では“牛皮鴨子”の呼称があった。
“牛皮鴨子”は皮蛋の語源のようであり、その数多くの名前の中で、これが最も粗野(“粗俗”)なものに数えられる。しかしその実、私は一点疑念があり、その成長過程からにせよ、中国語の音韻の変遷から見るにせよ、“皮蛋”は“変蛋”から変化(“演変”)してできた可能性がもっと大きいのではないかということである。何れにせよ、皮蛋の名称上での不安定な要素は、その性格上の複雑さを体現している。“鴨蛋”か“鶏蛋”かは、ただそれがニワトリの卵か、アヒルの卵か、ニワトリの子かアヒルの子かということに過ぎず、この名前は、もう一度それがニワトリかアヒルから生まれたことを証明する以外は、指し示すことができるものはゼロに近い。
しかし、この種の複雑性も、“鴨蛋”に対してのみ言えるのである。皮蛋の外部環境は、鴨蛋(アヒルのたまご)のようになめらかできれい(“光潔”)ではなく、それとはおおきく隔たり(“大相径庭”)きめが粗く(“粗糙”)、博物館に陳列されたたまごの化石のようである。その一層(たまごの殻の外側を覆っているもの)はたまごの殻を複雑化するものであり、それ自身は更に複雑で、糠殻、黄土に“残料”と水を混ぜ入れ混合したもので、“残料”に至っては、生石灰、純炭酸ソーダ(“純碱”)、食塩、紅茶粉末等が含まれている。皮蛋もアヒルのたまごのように簡単に言うことを聞いて(“就範”)くれず、この人造の外の殻の層を取り除かねばならず、皮蛋を食べる人は我慢強くなければならない。皮蛋が遂にアヒルのたまごに似た青い殻を露出させたなら、この青い殻はアヒルのたまごと同じように剥かれ、感覚がちょうど正常に戻ったばかりの時に、また一度、その驚変を目撃することになる。激しい泥んこ相撲の試合の後、熱いシャワーを浴びた美人が、風呂から出ると……
明らかにタンパク(蛋白)であるが、“蛋白”でない。皮蛋のもう一層の別の皮のようである。真皮。手のひらの中でかすかに揺れ動き、透明か半透明のもので、ひとしきり(“一陣陣”)涼しげな濃い緑(“墨緑”)が浸み出し、曇天の黄昏の九寨溝の湖水のようである。それらは“松花”の結晶模様と呼ばれ、枝葉が湖水の中に映ったグラデーション(“疏影”)を連想させ、美しく、神秘的である。
アメリカ人が皮蛋を“千年蛋”と呼ぶのは、ひょっとするとこの光景の戦慄のせいかもしれない。しかし、一人の楽観的なヤンキー・おやじ(“老美”)として、程なくiMacのような感覚を取り戻す。流行のデザインとして、透明なフレーム(外殻)はたいへんCool(酷)である。ただ、中に何も複雑な電子装置を隠していない皮蛋の内部であり、そこにどんな見どころ(“看頭”)があるというのだろう。いや、これこそ皮蛋と鴨蛋(アヒルのたまご)のもうひとつの違いであり、たまごの黄身の偏りをあらかじめ観察することができる。卵黄の“胎位不正”は、皮蛋の評価にマイナスの意味を持つ。完璧主義者は潮の満ち引き(“潮汐”)の引力を活用する。清の《調燮類編》は謂う。「“灰塩鴨子”(即ち皮蛋)を作るには、月の半ば(“月半”)の日ならば黄身は真ん中に居る。そうでなければ偏る。」
ちょっと退屈でつまらないですか。いや、黄身は皮蛋の最も肝心な部分であるので、ちゃんとしていないと食べない(“不正不食”)だけでなく、それは半熟(“半流質”)の糊状(“膠着状態”)でなければならない。香港人はアワビを食べる時の専門用語(“術語”)を使って、これを“糖心”と呼ぶ。一口“糖心”を咬めば、口中がコテコテに(“一塌糊塗”)柔らかく(“柔嫩”)甘くねっとり(“甘腴”)としたもので満たされ、その後、赤ワインを一口飲めば、その効果はチーズを食べた時に匹敵する。
昔、一羽のアヒルが、偶然にたまごを石灰の池の中に生んだ。ひとりの農夫が、たまたま通りかかり、アヒルのたまごを見つけたので、拾いあげて食べた ―― これから皮蛋が生まれたと言われている。しかし、こうとも言える。先ずアヒルが間違った場所で一個の間違ったたまごを生んだ。それに続き、人間があらかじめ手はずを決め(“預謀”)、組織的に、計画的に、故意に一部の正常で健康なアヒルのたまごを腐ったたまご(“壊”蛋)に変えてしまった(“変”成)。その値打ちのある「腐れ卵」を人に食べてもらう。皮蛋は悲劇的な食べ物であると同時に、悲劇の中の、おもしろい「悪者」(“壊蛋”)である。ちょうど“J”を北方の人が“勾”と呼ぶように、トランプの“Q”を南方人はその形から“皮蛋”と呼ぶ。このことはたやすく理解できる。しかし、どうしてわざわざ(“偏偏”)“皮蛋”と言い、“鴨蛋”、“鶏蛋”と言わないのだろう。おそらく、これは本来見てみると正常な卵型の文字(字母)であったものが、いわれなく(“無端地”)一本のしっぽを生やされた、それで、皮蛋の気性から、ちょっと悪さをした。実におもしろい(“蛮有趣”)、実に“Q”(qiu、つまり、“趣”、発音が“qu4”に近いので、しゃれてこう言った)だ。
【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳