朝日新聞のbe on Saturday(2014年3月8日)に(映画の旅人)「青春の殺人者」〈1976年〉が取り上げられた。
もう、15年以上も前になるだろうか、長谷川和彦さんに会ったことがある。
私は、NHKのラジオドラマに入選したりしていた。多分この頃が、私の儚い華の時代だったのだろう。ある日、大阪シナリオ学校の講演に監督がやってきた。補助席を用意したが必要がなかった。彼も冬の時代だった。
講演は抜群に面白かった。映画にかける情熱がびしびしと伝わってきた。講演後、居酒屋で親睦会がもたれた。「お客さん、もっと詰めて」。文字通り膝を交えた飲み会になった。
「同い年だ。何月生まれ? 7月か。俺の方が、学年は一つ上だ。先輩だ」。監督は上機嫌だった。私は途中で帰った。後で、監督が、私が帰ったことで不機嫌になり、荒れたと聞いた。
それからも、ネットを通じて交流があった。シナリオも書いた。ポスターも配った。地下にある小さな映画館だけが置いてくれた。「映画ができたらいいね」と。しかし、色々とあって途絶えた。結局、監督は一作も撮らなかった。
回顧はこのくらいにしよう。次は未来について語ろう。勝手に、次作についても。
もう、15年以上も前になるだろうか、長谷川和彦さんに会ったことがある。
私は、NHKのラジオドラマに入選したりしていた。多分この頃が、私の儚い華の時代だったのだろう。ある日、大阪シナリオ学校の講演に監督がやってきた。補助席を用意したが必要がなかった。彼も冬の時代だった。
講演は抜群に面白かった。映画にかける情熱がびしびしと伝わってきた。講演後、居酒屋で親睦会がもたれた。「お客さん、もっと詰めて」。文字通り膝を交えた飲み会になった。
「同い年だ。何月生まれ? 7月か。俺の方が、学年は一つ上だ。先輩だ」。監督は上機嫌だった。私は途中で帰った。後で、監督が、私が帰ったことで不機嫌になり、荒れたと聞いた。
それからも、ネットを通じて交流があった。シナリオも書いた。ポスターも配った。地下にある小さな映画館だけが置いてくれた。「映画ができたらいいね」と。しかし、色々とあって途絶えた。結局、監督は一作も撮らなかった。
回顧はこのくらいにしよう。次は未来について語ろう。勝手に、次作についても。