創作日記&作品集

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「わたしなりの枕草子」#301

2012-01-30 07:29:47 | 読書
【本文】
二百五十九段
御前にて人々とも、また①
御前にて人々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥国紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。また、高麗縁(ばし)の筵(むしろ)青うこまやかに厚きが、縁(へり)の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるを引きひろげて見れば、何か、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、「いみじくはかなきことにもなぐさむなるかな。『姨捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」など笑はせ給ふ。候ふ人も、「いみじうやすき息災の祈りななり」などいふ。

 さてのち、ほど経て、心から思ひみだるることありて里にある頃、めでたき紙二十を包みてたまはせたり。仰せごとには、「とくまゐれ」などのたまはせで、「これは聞こし召しおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、寿命経もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることをおぼしおかせ給へりけるは、なほただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心もみだれて、啓すべきかたもなければ、ただ、
 「かけまくもかしこき神のしるしには鶴の齢(よはひ)となりぬべきかな
あまりにやと啓せさせ給へ」とて参らせつ。台盤所の雑仕ぞ、御使には来たる。青き綾の単衣取らせなどして、まことに、この紙を草子に作りなどもて騒ぐに、むつかしきこともまぎるる心地して、をかしと心のうちにおぼゆ。

【読書ノート】
「世の中~=主語は清少納言。いづちもいづち=(地獄でも)何処へでも行ってしまいたい。高麗縁=畳の縁の一種。さらにさらに=どうして、どうして。『姨捨山の月』=「わが心慰めかねつ」と言った姨捨山の月は、どんな人が見るのか。里にある頃=九九六年秋の頃。→七十九段・百三十六段。これは聞こし召しおきたることのありしかばなむ=代筆の女房の中宮に対する敬語。わろ=上等でない。上記の清少納言の言葉に対する軽口。おろかなるべきことに=あだやおろそかに思っていいことではない。神=紙とかけている。あまりにや=大げさでしょうか。この紙=いただいた紙。清少納言と中宮の交流が描かれています。
百三十六段にあるとおり、中宮にとっても清少納言にとっても大変な時期でした。

このあたりの事情は雅工房様から拝借。
ーこの章段も、とても重要な意味を持っています。中宮定子の父道隆の死去により、定子を取り巻く勢力は一気に力を落とし、定子の兄など周辺の人々が左遷追放される大事件が起き、定子自身も謹慎状態になっていました。その中で、少納言さまは、今や日の出の勢いの道長と親しかったため、定子付きの女房たちから何かと疑いの目で見られ、いや気がさしたのでしょう、宿下がりをしてしまいました。本段は、そのような、少納言さまが敬愛してやまない定子にとっても、また少納言さま自身にとっても大変辛い時期の記録なのです。ー
簡潔明瞭。素晴らしい解説です。

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